随筆

インドネシアで楽しく暮す 3−1★

私は旅行が大好きです。私のウェブサイトにはインドネシア内の旅行記を大々的に取り上げています。言葉に不自由しなくなったのが、一年ぐらい滞在後でしたから、その前には、ジャカルと付近の観光スポットへ同じ赴任してきたばかりの仲間達と土日に何もすることがないので、暇つぶしに、出かけました。その時は、車運転もドライバーを使っていた。まず、タマンミニ(Taman Mini Indonesia Indah)通称、TMIIやアンチョール(Ancol)

ジャカルタの北の海に面するアミューズメントスポット、公園の中には水族館(Sea world)や遊具(Dunia fantasi)があり、社員旅行で出かけたこともある。コンサートも盛んに開かれて、ジャカルタ唯一の総合公園である。

Sunda Kerapa,Monas,National Musiam,Kota,Pulau Seribuの島々など皆、一度は行ってみた。しかし、赴任して約二年後のは,全く行くことはなくなった。初心者コースは卒業した。車の運転も言葉も心配することが全くなくなったので、より遠くへ遠くへ出かけるようになった。

何か一つ、お余り他人がやらないことで、他人に気を使ったり、顔色を伺ったりしないで、個人でやることができるようになることが、インドネシアで楽しく暮らせる極意だと思います。当然、皆さんとお付き合いも肝心ですが、なにか、一つ持っていれば、ストレスがあるなら解消してしまいます。

仲間と一緒に何かすることのほうが好くな人はそうすれば良いと思います。ただし、そのために無理やり人を誘うことはやめて欲しいし、それをしなくても十分、ほかの事で満足しいる人はいるからです。

まず、車でジャワ島の西の端の海岸にいきました。ジャカルタを過ぎて高速道をを西へ西へ、タンゲランを過ぎて、チレゴンを過ぎて、高速道路の西端まで、Merakというところでした。ここから、スマトラ島までのフェリーボートが次から次へと出ていた。そこの北に小さい半島があったので、一周してチレゴンへでて、帰ってきた。たった半日のドライブだったが、かなり疲れた印象が残っている。

しかし、自信は付いた。インドネシア人の高速道路での運転は速度を出すのが怖いのでしょうか、車自体が速度が出ないのでしょうか、100Km/H以下でしか走らない。自分の車は100Km/H程度だが、ものすごく高速に感じるし、120Kも出せば心配になる。日本では感じない高速感である。

ちなみに、速度制限は60K〜100Kだが高速は守っているが低速の方はまめれないトラックが多い。また、日本のようにオービスはない。スピードチェッカーもない。低速でつかまるトラックはあるが、高速で捕まる車はない。

インドネシアで楽しく暮す 3−3★

旅をしよう 3 車を自分で運転してゆければ、近場で一泊程度や10時間くらいならスマラン(Sumarang)、ディエン(Dieng) 6時間半なら、パンガンダラン(Pangandaran)

やバトゥルラデン(Batueraden)2時間から4時間なら、アンニョールからタンジュンルスンそれからプラブハンラトゥ、へ、行くことができます。ジャティルフールやチパナス、チボダス、プンチャック、タンクバンプラフもそんなもので行けます。

思い切って、13時間ならジョクジャ、ボロブドゥール、チャンディプランバナンへ行けます。24時間でなら、途中一泊しますが、スラバヤ、スマトラのブンクルやパレンバンです。もう6時間タせば+すればバリ島まで行けます。また、パダンにも行けます。

しかし、一般的には車で10時間以上のところなら、列車か飛行機でしょう。

また、しかし、です。列車はお勧めできません。危険、汚い、臭い、本数が少ない、などなど、日本の列車からは想像がつかないほど、ひどいものです。それでも、列車で旅行マニアの人はどうしても、利用しなければ気がすまないでしょう。どうぞ、そういう人は仕方がありませんが、一般旅行者には難しいです。

その分、飛行機は日本より、アクセスは発展しています。家庭電話より携帯電話のほうが先に普及している状態と同じように、列車より飛行機の方が発展しているのです。航空会社の数はどんどん増えていて、私は数え切れません。価格もピンきりです。安全性は列車や車、バスに比べれば死亡率は断然少ないというより仕方がありません。インドネシアですから。

私は今年だけでも国内便で12回離着陸しています。一度も危険だと感じたことはありません。確立から言って当然です。ガルーダは高いので使いません。ムルパティ、アダム、ヴァタビヤ、ライオンだったでしょうか、行きと帰りが違う航空会社を使うことも多々あります。日本へ行く時はガルーダを使います。直行で一番安いからです。


パンガンダラン 4

海から半島を見る(旅)

西海岸の砂浜へ出れば、直ぐに写真アルバムをもった若者が、ボートに乗らないかと勧誘に来る。東海岸まで往復約二時間半10万ルピア程度、半島の先端、滝の辺りまで往復なら7万ルピアくらいです。船が海岸からスタートするとき、インド洋の2Mくらいの高い波を乗り越えなければならない、タイミングが難しい。舳先が上がり直後ドンと落下する、大変危険である、要注意。

 タマンラウト(Taman laut)(海の公園といわれているが、ちょっとした珊瑚の海岸を右に見てゆっくり通過。次第に三角波が大きくなってくる、流れに逆らって進むので、船は上下左右にかなりゆれる、海水を頭から何度もかぶる、びしょぬれは当たり前になる。遠くから見ていると、どの船も波間に見え隠れしながら進んでいる。普通でそうだから、天候次第ではひどい状態になる、私はそれほどでもないと思っているのですが、中には私をコンナ目に合わせて、ひどいやつと真剣に言った人もいた。また、雨がざんざん降る中、波をかぶり、一時間半ほど下を向いて耐えた人曰く、なんでもないよ、このくらい、といってくれた人もいる。人さまざまである。

 断崖に打ちつける波、大きな洞穴、すくっと直立している徳利のような岩、夕方なら森の一角から無数のコウモリ飛び立つ。滝の辺りまでが海が一番荒れる、過ぎて東側にまわれば波に乗るように進むので、ほとんど揺れなくなる。西海岸に戻る人はあまりいないようだ、東海岸で上陸して森の中に入ったり、海岸で泳ぐ。西海岸まで戻りたければ、200Mほど歩くだけである。

初めて来た時に経験しただけである。ヌサカンバンガン島へ行くときに西海岸から出れば、ほとんど半周して先端付近から島に向かうので、同じ風景は飽きるほど見ている。  Googleの衛星写真   http://www.kaminome.net/

で見るとよく分かるが、ジャワ島の中南部、半島全体がジャングルに成っている。

 

 

パンガンダラン 5

  ジャングル(旅)

Cagar Alam(チャガールアラム)という。国の自然保護地区、基本的には一般人は立ち入り禁止らしい。入り口は東西の二箇所、西は車は入れないひとり1900ルピア、東入場料(キジャン4000、一人1900ルピア)を払い誰でも入ることができるが、仕切られたほんのわずかなスペースを散策するだけである。

何種類かの石灰岩の洞穴(鍾乳洞)があり、名前がついている。日本軍が立てこもったという、ゴアジェパン(友達のガイドがこの辺りで待機し、お客さんに呼びかけている)というのがあり、其の前がちょっとした広場になっている。ここで、テレビドラマ(人間が空を飛ぶ不可解な時代劇?)の撮影現場に出会える。今でも真夜中に日本軍の亡霊が何かをしゃべりながら行進をするという。

野生の鹿、猿、牛(特に夕方)が目に付く、たまに、親指がやっと入りそうな小さな穴が地面に開いている、椰子の葉のヒゴ(何本かを束ねれば箒にる)を穴に差し込むと、黒光りをした10Cm程のサソリが釣れる。

一般の人は入れないジャングルに,ガイドを頼んで、分け入り、半島の先端近くにある滝を目指す。保護地区の手前は、森林が切り払われ、見通しが良くなっていて、見張り櫓が三つ立っていた。

年前は見張りがいた。其のときは見張りが見ていない時ちょっとした茂み伝いに入った。まるで達磨さんが転んだ状態でした。しかし、その後、10回ほど入ったが、見張りの人はいない。逆に見張り櫓に登って周囲を眺めながらくつろぐこともできる。これでは誰でも自由に入ることができる。切り払われた森林も今は背丈ほどの植物が生い茂り、人間が隠れることもできる。インドネシアらしい。

急な登りから、ジャングルに入る。普段運動をしていない人でも大丈夫。生い茂った木立は、雰囲気満点。これがジャングルだ。ターザンが出てきそう。

猿がまず出迎える、サルは物を奪うばかりでなく噛み付くので油断しないように。鹿、牛などの野生動物は夕方出会うことができる。運がよければオオトカゲやサソリにもあえる。毒蛇はミミズサイズのものでも一人前に飛び掛ってくるので、近づかない事。雨季が終わった頃は蝉がうるさい。オオムや啄木鳥は鳴き声はするが、なかなか見つけることはできない。島のいたるところでコオモリやツバメの姿は見られる。

ガイドがいなければ迷うだろう道を半島の先端近くの滝を目指す。部分的だが、入る度に道の状態は変化している。約1時間ほどで滝ノ上に着く。滝つぼまで蔓をつかんで降りると目の前にインド洋が広がる。ちょっと汗ばんだ体を滝壺で泳ぎながら流す。沖を漁船や半島観光の小船が通る、手を振れば答えてくれる。まったく贅沢な景観である。ここまでの疲れがいっぺんに吹き飛ぶ。西海岸の賑わいはうそのように、ここまで来る人はほんのわずかである。

ほぼ垂直に見える崖をのぼると、滝の上に出る。ここからも同じ景観を見ることができる、違った高さから見る景観はまた一興である。今まで一緒に来た日本人すべてが来てよかったといってくれた。誰も寄せ付けない、怒涛の波がごつごつした断崖の岩に押し寄せている、波頭が砕け散る。海からは上陸できない、遠巻きに眺めるだけである。

 ここからは入り口方面に別の道で向かう、途中運がよければラフレシアに会える。蕾には30%、開花した状態には30%の確立で会えた。7〜8月に会える確率が高いようだ。大きさは最大で50cmほど、それほど大きくない。ここの種類はこんなものらしい。地元の人は感じるというが、臭い匂いは私や他の日本人には感じられなかった。匂いで探すので、咲いていればどこにあるかすぐわかるという。

  咲いているのは三日程度、満開になると同時に腐食が始まる。最後は真っ黒になってしまう。その前に、小動物に食べられてしまう。すばらしい形のラフレシアに会えた人は本当に運がいい。

途中、沢歩きがあり、コケの石を歩くので、足元がふらつかないように注意が必要。分離地帯を通り、東の入り口に向かう。鍾乳洞を通り抜けたり、その水で洗った体の部分が改善されるという泉に寄ることもできる。女性は顔を丁寧に洗っているが効果はほとんどないように見える、それとも効果があって今の・・になっているのか。ジャングルから出てしまう前に、元気が残っていればちょっと一泳ぎすることもできる。大体、普通は4時間のコースである。

私は午前中ヌサカンバンガンで昼食後ジャングルにはいるが、明るいうちに戻ってくることができる。ちょっと慣れない人にはハードかなと思う。

いずれにしても天候しだいである。

                 http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.html

写真を十分堪能してください。

チラチャップ(Ciracap)とヌサカンバンガン(Nusakambangan)

チラチャップは中部ジャワの最南西部の小工業都市の印象、主要道路からかなり南に外れたインド洋に面するので、かなり行きにくい場所だ。ジャカルタからはパンガンダランへ行く道と途中Banjarで右折しないで直進する。(右折はパンガンダラン、直進はジョクジャカルタ方面))一時間後ほどで、南(右)方向へ、一路Cilacapへ行く。ジャカルタからは、10時間以上は充分掛かってしまう。私はジャワ島中部から東部の三分の二周した時、ジョクジャカルタのほうからだったが、ジョクジャから6時間かかった。途中道が非常に悪い、車のダッチロールは数キロにわたって続く、コンテナ車とすれ違う時怖い。多分、バスより船で行き来した方が便利ではないかなと思う。陸上では孤立した感があった。

ヌサカンバンガンはチラチャップの海岸から一番近いところは150mくらいしか離れていないのではないかという印象である。刑務所の塀の一部が見えるくらいだ。そこは東の端で、ここと、私がよく行く西の端では10Kmの距離は充分ある。

1 Cilacap
 観光地ではない。平面的な広い町、町へ入ると道は広いし、出会う人が少ない。インドネシアのごちゃごちゃした感じがない。広い道を真っ直ぐ、行くと、漁港にぶっつかった。良くある風景だが、違うところはもう目の前150m先に大きな島が横たわっている。それがヌサカンバンガン島だという事は直ぐにわかった
 海岸沿いに北に向かうと今度はおおきな規模の工場群が出てくる。製紙、製缶、食品などの工場が並ぶ、製品の積み出しの為の岸壁が広い道を隔てた目の前にある。立地的にはレイアウトを良く考えた新興工業地帯といえるでしょうか。
 島流しというには近いが、重罪犯の監獄島が目の前にあるとは知らなければ思いも寄らない、のどかな町である
 
2 Nusakambangan
 ヌサカンバンガン、ご存知ですか。インドネシアでは有名なスハルトの息子トミーや政商ボブ、ハッサンが収監されている、最近ではアムロジ(バリ爆弾事件の首班)が移送された監獄島、中部ジャワ、チラチャップに属する。そうとは知らずに、ガイドから無人島と聞かされ、行ってみたのが始まり。すでに10回以上行っている。一緒に行った日本人も10人になった。

 本当は上陸禁止なのかもしれないが、見張りや看守がいるわけでもなく、それらしき看板や柵などなく、誰でも自由に上陸できる様子である。しかし、観光客は誰もいない、私たちだけである。もっと広いパンガンダラン西海岸のあの芋の子を洗うような賑わいとは全くの対照的に人っ子一人いない、たまにロブスターの漁師に会うだけ。何かを恐れて誰も近づかないのでしょうか、でもそんな恐れるようなこともない。不思議である。

 
 その付近のどこからでも船さえあれば行けますが、一般の観光客が行くルートは三通りある。パンガンダラン西海岸から小船で半島を半周して先端から東に向かう。一時間半ほどで、ヌサカンバンガンの西海岸に着く。二番目のルートはパンガンダラン東海岸から東に向かう、1時間で着く、三番目はパンガンダランから車でバンジャール方向に戻って右折すると、30分ほどでPelabuhan Majingklak(マジンクラック港)に着く、そこから小船で、15分で着く。いずれも、自分で値段交渉しながらチャーターしなければならない。ヌサカンバンガン行きの定期便のようなものはない。
 

東西は、10kmほどはあろうか、島の東側は川のような狭い海を挟んでチラチャップの町である。監獄は島の東側である。西海岸は広大で真っ白、長さは4kmはあろうか、塩が引けが100m以上の幅になる。潮が満ちれば海岸は無くなる。振り返ればパンガンダランの半島が見える。左右で浜の状態が異なる。 

 向かって、浜辺が広い右側方面に上陸するが、こちら側に川(乾季は消滅)が流れ込んでいるし、満ち潮の時は逆流するが引き潮の時はすごい勢いで流れる。端の岩場からは清水が湧き出し、小さな滝が海に注いでいる。体を洗うのに最適、インドネシアでは珍しく、飲んでも問題ない。泳ぐには最適、ボディーサーフインにはうってつけの波。

 左方面は珊瑚の岩場が海岸付近ににあり、満ち潮の時でしか上陸できない。ダイビングやシュノーケリングに最適。引き潮の時、岩に張り付いた貝を剥ぎ取って焼いて食べるとおいしい。漁師が泊り込む椰子の葉の屋根だけの小屋が風景に溶け込んだかたちでぽつんと一軒だけある。

 海岸からすぐ後ろはジャングル、まだ入ったことはないが、入ってみる気にはなれない。道はないし、聞くところによると、野生のトラがいるという。時々海岸でも散歩をするという。これは、そこで、ロブスターを釣っている漁師の話、近くに寄ってきて魚をやると、くわえてジャングルの中に消えていくそうです。私は一度もあったことはない。

 その漁師から、ロブスター(伊勢えび、1kg5万ルピアほど)や他の魚を分けてもらい、枯れ木や葉を集め火を起こし、焼く。時間あれば自分で釣ったり銛で突いたりすることもできる。椰子の葉っぱを皿にして、食べるワイルドなバーベキューはちょっと他の日本人は経験できないと思う。まったく、爽快である。もともとないストレスが、もっとなくなる。幸せの極みである。バーベキューの道具を持っていくのは野暮である。ただし、水と万が一魚が取れない場合の予備に魚介類をパサールイカンで仕入れていったほうがいいかもしれません。

 戦後間もない、1950年ごろ小学校の2年生のとき、同級生のお父さんが、外国航路の船長さんをやっていて、椰子の実を土産に持ってきて、クラスのみんなに、遠い南の島の話とともに、見せてくれた。その時、想像した風景が50年後の今、現実に目の前に広がっていると感じた。

 アナッククラカタウ、カタウ(両方とも山頂まではいけない、上陸し中腹から見る景観も絶品、しかし、ここも本当は許可がいるらしい)やウジュンクロン(事前に許可を取るのが本当だが、上陸してから許可をもらうこともできる、ジャングルの中より海の色に感激)もすばらしいが、それ以上に感激である。今まで訪れたインドネシアのどこよりも好きだ。何度行ってもいいと思う。ダナウトバの焼畑の夜景、ディエンやブロモの日の出やパノラマ、コモドの海と島と空と雲と遠いスコールとのコントラスト、すばらしい、それぞれ感激だがここには風景プラス自分で行動し楽しめるというプラスαがある。

 ただし、どこもそうだが、天候により大きく印象は変わる、恵まれている人とそうでない人では雲泥の差がある。海はインド洋なので、海岸のひっくり返る波は大きい、船で沖へ出発するとき波に持ち上げられ、次に叩き落とされるので特に注意である。沖へ出ればうねりが高い、小船はうねりの間に見えなくなってしまう。天気が悪い時はもっと状態は過酷になる。一緒に行った日本人で、途中で悲鳴を上げてやむなく引き返した人もいた。私は、雨が降ろうが風が不幸が、平気なので、自分から止めた事はない。

再び旅先

 いま、現地時間19日5:25 

一昨日17日朝6時に家を出て、ジャカルタ発9:00のところ一時間半遅れてくれて、10:30出発、目的地マナド(Nanado)着が14:00だった。ここマナドはスラウェジ島の最北東端にある日本人にはダイビングで有名な土地である。着いたその日は、空港から南西にあるトンダノ(Danau Tondano)湖へ二時間ほどかけて行って、湖畔のレストランで食事をした。

 ということで、今、三日目の朝、まだ暗いが、今日 ダイビングで有名なブナケン島へいってシュノーケリングを楽しむ予定です。

 詳しくは帰ったらまた、ホームページで紹介します。

 昨日まで旅先

MANADO(マナド)充分堪能しました。行きはVATABIAで3時間直行、帰りはLIONで、MAKKASAR経由で4時間かかった。

マナドはトンダノ湖、タンココ自然国立公園、ブナケン島、その他の部落、サワンガン、スクールでお墓や彫刻の里、泊まったホテルの目の前のPadar Ikan(魚市場)なども、精力的に見て回った。

タンココの世界最小の猿、タルシウスを高い木の隙間からこちらを見ているのに出会った。夜行性なので、昼間は寝ているが、レンジャーがちょっと木を叩いて起こしてくれたのだ。ごめんなさいでした。歩きつかれた。

ブナケン島では3時間以上のシュノーケリングをエンジョイした。水は極めて透明、岸辺のさんご礁で充分熱帯魚の観賞が出来た。おかげで、背中を充分すぎるほど日焼けをし、ひりひり痛い。

今日は出勤、早速、1.6φ×2.1φという、極細チューブのトライが始まる。サイジングに通すだけでもほかの人では出来ない。

24日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−135

斜めからインドネシアを眺めよう 135

26日が、春節、チャイニーズ ニューイヤーでハリラヤ(ナショナルホリデー)です。今日から三連休です。この不景気、この三連休に仕事をする会社は皆無です。

今どこに来ているかと云いますと南北に長いスマトラ島の南西にある小さな島ブリトゥン(Belitung)に、来ています。何がこの島にあるかと云いますと、奇岩奇石が海岸のあちこちにあるということでインドネシアでは有名な島で、テレビドラマのロケ地としてよく登場する。

今朝、03:00起きで家を出発、06:20スリウイジャヤ航空でジャカルタを出発した。この航空会社を含めて三社がジャカルタから、一日一往復あるだけです。他に場所から来るにはジャカルタ経由になります。他に選ぶことはできません。

いつもの通り、まず、タクシーを頼んだ。ホテルを探し、ブッキングをした。そのまま、西海岸のいろいろな岬へよってもらった。奇岩も良かったが、海の色の美しさが印象的だった。白い砂と雲、緑色の海と青い空。

明日は東海岸へ行く。

旅行記,たくさんの写真は後日27〜28日頃ホームページに追加します。

 

島をめぐりながら感じたことは、景色がユニークでそれほど人が大勢いるわけではないので、南の島のモデル撮影には最適ではないか。近代的なものは目に入らないので邪魔な建造物はない。日本から来るにはジャカルタに一泊翌日早朝出発、二泊三日で島は十分堪能できる。写真撮影だけなら、日帰りでもOK、サンセットサンライズを撮影したいなら島で一泊だけでいい。昼過ぎのフライトでジャカルタに戻り、その日の夜のフライトで日本に戻る。出発から五日目の朝、成田に着く。バリばかり行っていないで、こんな場所も楽しむことを勧めます。旅行社の回しものではないので、純粋な印象でした。

25日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−136

斜めからインドネシアを眺めよう 136

二日目、今日が最大のハイライト、と、云っても、ゆったりと、潮の引くのを海岸で待った。刻一刻と変化する海岸の風景は時間を忘れて、半分、居眠りをしながら、満喫した。

どこか、他の旅行記に書いたこともあると思うが、このまま、永久に眠ってしまってもいいような、すいこまれるようなうとうと状態だった。インドネシア語にtermenung(物思いにふける、他人から見ると大丈夫かなと心配される状態)というのがあります。そのまま、トゥルムヌングでした。

泊まったホテル(HOTEL PONDOK IMPIAH)の前の海岸の潮が引くと見渡す限りの干潟になる。どのくらいの広さか広すぎて分からない。多くの近くの人があらわれて、潮干狩りがはじまる。日本のように入場料を取って、前に日の夕方に撒くのと違い、純粋に自然のままである。私も、皆さんと一緒に掘って、近くにいる家族つれの手伝いをした。何十年ぶりかの潮干狩りである。こしが痛くなったが、二時間ほど付き合った。あいにく、サンセットの状態は満足できなかったが、砂に隠れて息をしている三葉虫のおまけつきで、小さな男の子にあげたら大喜びではしゃぎまわっていた。

朝、二時間ほどかけて東海岸へいってみた。期待に反し、景色の奇麗なところはなかった。それでも、岩がごろごろしている海岸は多かった。海の色も西海岸ほどではなかったので、其処に止まるのは止めにして、西海岸のこの島の首都のTanjungpandanタンジュンパンダンで泊まることにしたのが正解だった。

昨日はハンドホーンの調子が悪く、コネクトできなかった。

三日目 春節 町の中心地へオジャック(バイクタクシー)で行ってみた。バロンサイに出会うことを期待しながら8:00ごろパサールに着いた。其のわきに中国寺があり、そこで始まるのかと聞いたら多分という。時間も分からない。しばらく、パサールを散策し、出ようとしたときに獅子を持った若者連中がトラックでやってきたのに出会った。08:30ごろでした。それは先ほど見た寺の境内に入っていった。私も付いていったが、竜がまだ来ていない。来なければ始まらないのは知っていたので、そのあいだに寺で中国流のお参りをした全く分からないので、そこにいる長老ふうの人に教えてくださいと頼んだら、喜んで教えてやるといってくれた。まず、ローソクと線香の大小と何やら書いてある黄色い紙十枚以上のセットを買った。いくらでも心づくしというので二万ルピア渡した。丁度いい金額だったらしい。初めに何箇所かある神様の内外の向かい側にある祠をお参りした。ローソクを二本ずつ合計五か所で十本立てる。それが悪と、今度は線香を7か所に刺すがその前で、前に掲げておき乗りをする。お王の皆さんなひざまずいてお祈るりしていたのでそれに従った。バロンサイ若者も一緒にお祈りをしていた。それが終わって、最後に外の祠の前で黄色い紙の火を着けて燃やす。それで、終わりかと思ったら、戻って寺の前の両脇に最後にお祈りをして終わりでした。順番が分からないし、何ずつ備えたらいいのか変わらないし、何やら、お酒のような油のような水のようなものをささげている人もいるし、まよったまま、あっと終わってしまったが、かなり、歩いたり座ったり立ったりして疲れてしまった。

町の人々が握手を誰彼ともなくしている。私も、多くの人に握手を求められた。

間もなく、竜のトラックが到着し、09:30に彼らの催しバロンサイ(獅と竜の舞)が始まった。15分くらいでした。外の町へ繰り出して行った。楽しい経験を始めてさせてもらった。

今は、チカランの家に戻っている。

2月18日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−158

斜めからインドネシアを眺めよう 158

HPの電波が届かないところへ行っていた。パンガンダランだったが、泊まったホテルの場所が悪かったようだ。密林の半島の近くのNyiur indahというホテルで昨晩は送信ができなかった。

昨日、今日は何の予定もなく、書類や電話待ちなので、旅に出た。一年ぶりのパンガンダランだったが、平日というのは多分初めてだったと思いう。ガラガラだった。広い海岸が一層ひろく感じられた。しかし、初めて泊ってみたこのホテルは欧米人のツアー客が多く、空きが三部屋しか残っていなかった。多分、バリスタイルなので、欧米におおく紹介されているのでしょう。価格の割に泊まり心地はよかった。西海岸のチャガールアラム入口駐車場の近くだった。

ところで、07:00に家を出て、13:00にはパンガンダランへ着いたが、タシクのバイパスに入る前にブレーキをかける度にがたがたと車が揺れ、ハンドルがバイブレーターになった、それでも走っていたら、チアミスへ入ってブレーキの効きが悪くなってしまい、サイドブレーキを使わなければ止まらない状態になってしまった。道端で、車の修理屋の場所を聞いて、目的地までの道からそれて、そろそろと走りながらたどりついた。ブレーキオイルが漏れて、空に近くなっていた。直ぐに分解してくれて漏れているゴムパッキンにテフロンテープ巻いてくれて、再セットしてくれた。30分くらいで治った。5万Rpだったが、7万Rp(500円)置いてきた。危なかった。助かった。

途中で給油しブレーキオイルを追加し、それでも6時間しかかからなかった。昔、13時間14時間かけていたことを思うとウソのようである。

道中でエイジェントから電話が入りシンガポールでVISAを受け取る手続きが完了したことを知らされた。20日シンガポール経由で、21日に日本到着が確定した。

3月7日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−174

斜めからインドネシアを眺めよう 174

03:00に家を出発06:15ジャカルタ発ムルパティヌサンタラでバリ、ウングラライへ、12:25バリ発でスンバ島へ、waingapu  到着は15:00頃だった。時間がかかったものである。今日は何もできない、疲れてホテルで休息しかなかった。バリから、ロンボク、スンバワ ブサール。フローレス、その間にコモド島を左に見ながら東進し、フローレスの途中から南進し、スンバ島へ向かった。

空港はフローレスのマウメレと同じくらいの小さな規模だった。申し訳ないが、ここの人たちの人相は怖い、女性の顔も怖い。

 

こういう会社がある。レポートを大量に出させる。それによって、日本人が品質や人物の評価をする。本人がやったものではなくても、自分が主体になってやったように報告をうまく書ける人の評価が高く、仕事をしているので、報告書を書く時間が少なかったり、面倒なので、大部分を省略してしまったりする人の評価は低くなる。日本人はほとんど会社に来ないし、来ても、其の報告書を眺めるだけで、現場には出ない。これでは、仕事ができる人はこの会社で仕事をしたくなくなるし、報告書に専念して、本来の仕事は置き去りになってしまう。

休日出勤や残業手当がつかないように名ばかり管理職にして、強制残業や休日出勤をさせる。応じないと評価を下げる。残業や休日出勤の仕事ぶりを何度も確認しているが、ほとんど仕事はしていない。会社にいるだけである。それでも、報告のうまい人はいかにも多くの結果を出したように書いてある。

 

 

 

3月8日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−175

斜めからインドネシアを眺めよう 175

07:30 ホテルから出て、スンバ島の西側のWaikabubakの方向に向かうが、途中観光地というか見どころに寄りながら行く。街を通り過ぎてなお、西へ向かい海に面したホテル(コテジ風)Resort Newaに泊まった。全く、携帯電話の電波が届いていない。このホテルの部屋にはテレビもない。何の情報も得られない、外部との接触が閉ざさされた世界に入ってしまった。一日タクシーを使い回して75万Rp約6千円である。Sri Kayaという果物を知っていないでしょう。これと似た果物は日本にはありません。説明が難しい。

報告は問題点と失敗についてさせればいいと私は思う。うまくいっているかいないかは自分の目で確認することにしている。しかし、この考えと逆の日本人が大勢いる。うまくいっていることだけ、うまくできている製品の報告だけをさせる。それを見て、満足げにサインをしている。余分な仕事をさせるだけで、なにも参考にならない。自分の目で確かめた方がいいと助言すると、逆切れされるので、そのままにしておく。

三交代の長の仕事として、全製品の断面図を投影機で十倍に拡大してなぞらせて書かせる。これも標準書がないので彼らはOK製品を選んで投影図を書く。それに指定された部分の寸法を書く。その寸法が公差に入っていようがいまいが、今までOKだったものはOKにしている。それを日本人が見て、OKのサインをしている。全く、不思議な世界を見ている。全く、意味がない世界を見せられている。

これで、クレームがなければすごいが、客先からのクレームは日常的にある。日本人は知らん顔をしている。直接、客先の日本人からその日本人にクレームの話が来ても本人は、その後、どうしたのか、連絡しない。すべてローカルスタッフに対応させる。これで、仕事がつながっているのが不思議である。よほど、日本人同士で分けありなのでしょう。

現状はどの会社も苦しいことは承知ですが、それでも、余裕のある会社と今にも倒産しそうな会社とある。もちろんその中間はいっぱいあるのですが、危ない会社はこのような会社です。

3月9日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−176

斜めからインドネシアを眺めよう 176

西の端近くから、東の端に向かってもらうために、07:00にホテルを出た。6〜7時間のドライブを予定していたが、昼食一時間をかけて、6時間で着いた。途中Waikabubakを通過したが、そのほかは、町らしい町はなく、景色も単調でほとんど眠っていた。目的地の東の端、PauRendeの伝統村を見たが、いずれも期待はずれで、伝統家屋は少ない上に、トタン板で修復されていたり、トタン板で作ってあったりでした。行ってみて初めて分かることでしたが、伝統的家屋の集落で一番それらしく印象深かったのは、Waikabubakの町はずれの丘の上にある集落でした。何も、わざわざ遠くへ行く必要はない、一番近くに一番印象的な場所があったのでした。Hotel Ervinに宿泊、三日間とも熱いお湯が出ない。二日は冷たい水で我慢したが、このホテルではバケツ一杯の熱湯をもらって、たらいを借りて、行水をした。三日間落ちなかった垢が、いっぺんに落ちた。

インドネシア人は水で体を洗うが、石鹸を使ってごしごし、磨いても、垢が落ちていないことを知っていない。その証拠に、お湯で体を洗わせると、本人がびっくりするほど,ほろほろ垢が落ちる。体が臭く思うのはそのせいでしょう。男も女も体臭を大変気にする。他人が臭いから自分も臭いのではないかという疑心暗鬼である。お湯につかるという習慣がないから仕方がない。

今日、記念すべきは、Rendeで、ピナンを出された。歓迎の印である。ジャヤプラ、パプアでは緑色の実と石灰を一緒に噛んでいたが、季節が旬でないからここでは乾燥して輪切りにしたものだった。せっかくなので食べてみた。ほんの少しだけだったが、目が回って、パニック障害の時の症状に似てきたので、あわてて、口にのこっているものを吐き捨てた。それでも、一時間程にわたってもうろうとしていた。酔っ払いのような症状になるがここの人は子供の時から食べているので、程よい気分になるらしい。もうこりごりである。

3月10日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−177

斜めからインドネシアを眺めよう 177

 06:30ホテルから出発。08:20テイクオフ09:40バリ着、15:30発まで時間がたっぷりあるので、土産物を買いにタクシーでキンタマニへ行く途中のジャランスカワティの土産物屋街へ行ってオランマルを仕入れた。一コというか、一体が5万Rpだった。もっと粘れば4万くらいになったと思う。四個買った。ゴルフ仲間への土産である。

 バリの空港でやっとフラッシュを使えるようになった。そして、待合室に唯一ある電源を使って、久ぶりにメールを眺めることができた。

 会社内の情報の収集が全体的に出なく、ほんの一部の気にいった幹部や通訳からしか得られない日本人が多い。自分が集めた情報ではないので、間接的であり、その人たちが扱いにくい、気に入らない、彼らに従わない、彼らに批判的な人達は彼らから批判的な情報しか伝わらない。また、噂を作って、あるいは誇張、歪曲して報告する。それを、信じてしまう。直截自分で確認することはしないし、できない人が多い。そこで、従業員の多くは、通訳など全く、本来の仕事ができない人のご機嫌をうかがうようになる。そういう会社はもう、お仕舞いである。本社はどういうことを早く察知し、交代させる技量がなければならないが、ない会社がおおいので、これも、仕方がない。

うまくいっている会社は、日本人と現地人従業員との直接会話がうまくいっている会社です。日本人の皆さん、ぜひ、直接会話をして、皆さんが何を望んでいるのか、何を考えているのか、自然体で把握してください。

私は、従業員全体の味方なので、経営者の日本人やその側近や通訳には批判的です。彼らは、日本人経営者に、私は批判していることや、ないうわさを作って報告する。日本人は、バカなことにそれを信じる。そして、私を眼の上のたんこぶにする。自分で自分の首を絞めてしまう。そういう無能な日本人が多い。

4月9日  インドネシアで 楽しく暮らす 15−206

斜めからインドネシアを眺めよう 206

日本から戻って、二日間家で寝て、四連休、気は焦るが、私にはこの期間、仕事関係は何も出来ない。家にいても会社にいてもすることがない。

03:30夜逃げのようにして家から出発。当然ながら道は空いている。記録的に早く空港に着いてしまった。04:00でした。06:40離陸。

同じ飛行機、同じ航空会社ではないので、ガルーダとムルパティ、鷲と鳩である。メダンからの乗継が心配で、朝早く、ジャカルタを出発し、メダンには8時過ぎに着いた。ニアス行きは12:40過ぎの発なので、メダン市内へベントール(バイクベチャと考えたらいい、オジェックより、二人乗りなので安い)。タクシーを使えば倍以上はする。メダンは三回目だったが、過去二回は目的地がトバ湖だったので、通過するだけだった。選挙当日で繁華街も全部シャッターは下りているし,閑散としていて、ニュピのバリのようでした。投票所の前に来ると人が集まっている。日本のような学校や公民館などの屋内ではなく、ちょっとした店の前の駐車場とか、公園に特設投票箱を並べて、町のあちこちでやっている。

メダンの空港に到着し、出てすぐ右に出発入口があることを確認して、町へ出て戻ってきて、其の入口に入ろうとしたらここはインターナショナルだという。ドメスティックは向こうの端だと、教えられた。私は7〜80m先にこのビルの端かとおもっていったら無い、おしえられた時は見えなかったが、まだ先に別の新しいビルがあった。そのビルまでは50mほどあった。そのビルについて出発口が見つからないので、聞いたら、このビルの向こうの端だという、100mはあった。その端へ着いておない。見回したら、其の端を左に回ってまた左にやっと見つけた。ビルの裏側というか中に入って戻る方向にまた、50mいって、荷物チェックの入口に着いた。ドメスティック用のビルが新しいので、案内板が不足している。到着は国際、国内便とも同じで出発ロビ−だけが、別なので、初めての人、特に外国人には悩ましい空港だと思う。そういえば、オジェックが近づいて来ては乗って行けといっていたのが不自然ではなかったのでした。

グヌンシトリには13:50到着早速、帰りの航空チケットを予約した。これで、一つほっとした。タクシーを決めた。あまりにも、衝動的にニアスと決めてしまったので、どこを、どう歩いていいのか事前のリサーチをしていない、今日は空港からホテルまで移動しただけで、無いもしていない。海岸の風景を撮影したが生憎の海岸工事中で台無しだった。

4月10日  インドネシアで 楽しく暮らす 15−207

斜めからインドネシアを眺めよう 207

 ホテルはMIGA BEACHという海岸に面したコテジ風の清々しい場所でした。30万Rp。夜中から一日中の雨、日本の梅雨のような、しとしとと降り続いた。こういう振り方はインドネシアでは経験したことがなかった。

 Hotel Nasionalへ移動した。Gunung Sitoriの中心だが海の近くだった。25万Rpでエアコン、テレビ付き、お湯もでた。フラッシュは、使えなかったがホテルのLANで接続ができた。

 ニアスは2005年の地震と津波で500人以上に犠牲者が出た。その前の年2004年には例のアチェの大地震と津波の時も近かったニアスも大きな被害を受けた。二度の災害で、大きな打撃を受けたが、現在はほとんどその跡がない。道路の凸凹はないし、十分な広さだし、申し分ない。 津波の後からだと聞いたが、国連機関の施設が目についた。また、意識的だと思うが、津波の跡をそのままにし、修復していない建物もあった。

ただし、雨降りでどこへも出られず、ホテルに缶詰めどうしようもなかった。せっかくニアスへ来ているのに、ニアスの感覚が全くなかった。残念。(_)!!

それでも、ベチャに乗って街を一周した。物価は安く、ブカシの半値以下、レストラン、ベチャとも満足である。

 

  

4月11日  インドネシアで 楽しく暮らす 15−208

斜めからインドネシアを眺めよう 208

桜満開の日本から、三日目にはこの地へ来てしまいました。朝からレンタカーで南の端のTELUK DALAMに向かう。途中、できるだけ多くの観光スポットへ立ち寄ってもらうことにした。とにかく、下調べがないので、ドライバーの知識に任せるしかなかった。地図を見ると石の彫刻像があちらこちらにあるはずだが、それらは、全部無視して、ひたすら、トゥルックダラムへ走る、そこを通過してしまって、北に曲がり山の中に入って行った。8:00に出発して11:30に最初のスポットに到着したようだ。その場所の名前はBabo mataluo(バボマタルオ)伝統的な集落である。例に石の跳び箱を飛んでみせる場所である。以前の何年か忘れたがお札に印刷されていた。飛んで見せるのが一人15万Rp。値切って三人で30万にして実演してもらった。そのあとサーフィンスポットのSorake Beach(ソラケ ビーチ)へ行った。こんな所を見ても仕方がないが食事をそこでとった。

サーファーは欧米人に交じって日本の若者も三人見かけた。どこにでもいるものです。

結局、求める伝統的集落は一か所だったし、他に何もなかった。

 

4月12日  インドネシアで 楽しく暮らす 15−209

斜めからインドネシアを眺めよう 209

 ソレカホテルのかわいい入社一か月のレセプショニストの手違いで、出発予定の時間になっても迎の車が来ない。実は全部断られて来ないという。どうするの?バイクで町まで頼みに行ってみてくれと頼んだら、行ってくれた。何とか一時間遅れで出発することができた。迎のバイクが行ったり来たり、橋が崩れていて、グヌンシトリまで行けないという情報がドライバーに入っていて、車を出せないという。しかし、昨日通ってきたのだから、なんとかなると言い聞かせて、やっと納得してくれた。実際に、交互通行だったが渡ることは出来た。昨日と同じ状態だった。

 西海岸に道があるはずだが、聞くところによると、津波の後の修復が、はかどっていなくて、グヌンシトリにまではたどりつけないという、ホテルの地図を見て、山の集落へ行ってくれと頼んだら、車は入れない、車を置いて最短でも往復6時間はかかるでしょうと言われた。仕方がないので、途中の山の中の伝統集落BOTOHIRITANO, HILIAMAETANIHAなどに寄ってもらいながら、昨日と同じ東海岸道を引き返すことにした。もっと下調べをしておけば、もっとたくさんの場所に寄れたかもしれないが、そんなに欲張っても仕方がない。程ほどで、良かったのかもしれない。また、グヌンシトリのナショナルホテルにいる。Wifiが無料で使えるのでマリアさんは大喜び、観光などどうでもいいらしい。チャットをしっぱなしでした。明日、この辺りを巡って、空港へ向かう。

  昨日のドライバーは時間どおりに出発できたが、見どころを知らなかった。

4月13日  インドネシアで 楽しく暮らす 15−210

斜めからインドネシアを眺めよう 210

メダン空港の出発ロビーからである。最終日にして、始めて、まともなドライバーと車に当たった。それが面白い、泊まったナショナルホテルの向かいにあるトカンギギ(入れ歯屋)が所有しているキジャンとドライバーだった。たまたま、ホテルの前で、そこにいる人に話しかけたら、私が案内してやるという。それでは、明日、空港へ行く前に、グヌンシトリの近所の伝統家屋を回ってもらいたいと頼んだら、OKした。その時はトカンギギとは知らなかったし、本人が運転手としてくると思っていた。翌朝、7:30に出発と約束したのに、その時間になっても本人が現れない。電話番号も聞いてなかったので、心配になった。すると目の前に突然彼が現れて、車のアイドリングをはじめた。年をとった、と云っても50歳位か、歯医者だと思った。しかし、違っていた。若い昨日話した男が歯医者で年をとった人が運転手だった。

 その歯医者がNias島のことをよく知っていて、ちゃんと、案内するように運転手に注意していた。

 朝、早くから出発して、山の中の伝統家屋を巡ってくれた。道が狭く、崩れ落ちている場所もあって、木で補強をしてある橋がいくつもあった。一度は、前輪を溝に落として、立ち往生したが、近所から若者が出てくるものです。大勢で持ち上げてもらって事なきを得たこともあった。

 歴史博物館(民族博物館)にも案内してもらった。館内写真撮影禁止だった。

三日目のトゥルックダラムへ行くときにこのトカンギギに会えていたら、今回の旅がもっと満足出来ただろうと思うと残念だった。Niasへ行く人はぜひナショナルホテルの向いにある歯医者の島の案内を頼むといいと思う。

 詳細は私のWEBSITE で楽しんでください。普通の人がツアーで行くには難しいでしょうが、秘境すき、伝統文化や習慣に興味がある方はぜひ一度訪れることをお勧めします。

 南の方と、北の方では家屋のスタイルがはっきり異なる。また、両方とも、どこの影響を受けていることもないし、独特の建築様式である。近代の建築設計士にも眼あたらしたとして参考になるのではないかと推測する。

5月21日   インドネシアで 楽しく暮らす 15−247

斜めからインドネシアを眺めよう 247

片側二車線の一般道のほとんどの区間で、片側の舗装をやり直しているので、残りの片側二車線を双方向に一車線ずつ使っていて、渋滞の連続だった。10時間を予定していたが12時間以上かかってしまった。

今、Dien高原のま南のWonosoboに来ている。この町最上級のKresna Gallery Hotelからの投稿です。このホテルもディエンも三回目です。大変気に入っている場所の一つです。一部屋45万Rp(4千円位)、後にフォトアルバムを見てもらえばいいと思いますが、大変な割安です。地方にしては珍しく貴重品用金庫もついています。NHKworldが鮮明にはいるのがいい。トイレットペーパーはあるし、お湯が出る。

夜は大変寒い。初めての時、あまりの寒さで、各部屋にエアコンはないがホテル全体が冷房されていると思って、レセプションにクレームの電話をしたら、エアコンは取りつけてないと言われて、ぎゃふんとさせられたことがあった。今回は、長ズボンと長いでのパジャマを持ってきたので、寒さはしのげた。

明日はポテトチップスを買いにディエン高原までいって、それから、Rosari  Caffee  Plantationへ行く予定です。

5月22日   インドネシアで 楽しく暮らす 15−248

斜めからインドネシアを眺めよう 248

忙しいですが、今日はDesa Losari Grabag ? MagelangLosari Coffee Plantation

Hotel and Spaにいる。 驚くほどの高級感のあるホテルで、値段も一人100万Rpで、13年間で泊まったホテルの価格の最高でした。泊まらないと旅行記を書くことができないので、仕方がない、近所に安いホテルはないし、コーヒー園やコーヒーを作る工程も見せてくれるというので、楽しみにしている。しかし、それはそれは、値段の価値はあります。写真をご覧ください。同じマンゲランでもブルブドゥールとはかなり離れていて、ヲノソボからはスマランンに戻る方向になる。ボロブドゥールは南のジョクジャに近い。

5月23日   インドネシアで 楽しく暮らす 15−249

斜めからインドネシアを眺めよう 249

昨日の続きで、現在のPT.MAKUTA BINA ARTAは私が投資しているのですから、650US$も実際には受け取っていません。会社への貸しにしています。バブル期に蓄えた自分の貯蓄と年金で生活しています。年金生活者の海外長期滞在と全く同じ条件です。インドネシアでの収入はゼロです。これで、充実した日々が送れるのです。

他の人には出来ないマジックや超能力を使っているのです。それを他人は理解できない。まだ、余裕しゃくしゃくです。一般の方々とはお金の使い方や自己満足の方法が違います。アルコールや女性やカラオケにお金を使いません。日本食レストランや日本食スーパーマーケットも全く使いません。ジャカルタに住みたいとは思いません。運転手を使いたいとは思いません。だから、我慢をしていません。その代わり、インドネシア内の旅行やドライブをする回数や工程距離は世界中の日本人でナンバーワンだと思います。

其のうえ、インドネシア人の多くの人に自立してもらおうと指導、援助をしています。また、適正価格でお客さんに押出製品を提供しています。

私利私欲のために活動していますが、私利私欲の内容は一般の多くの人とは異なることが、私の自己満足です。

今日はどこからかといいますと、スマランの東、プカロンガンという町のホテルからです。このホテルは帰る途中の道端にある云わばビジネスホテルです。過去何回か一挙にチカランまで帰れないときに泊まっています。この町はバティックで有名です。ユウメイバティック会社が沢山あり、インドネシア中から外国からバティック商人が買い付けに来る待ちです。この町のバティックはジョクジャより安く品質のいいものが手に入ると評判です。町のメイン道路の両脇にバティックの大きな看板が軒並み出ています。昼前まで、コーヒー園の中で、コーヒーについての説明を聞いたり、パームシュガーやコーヒーの製造過程を見学していました。その後スマラン方面へ向かい帰路に就きましたが、途中寄り道して、Candi Gedong Songo,Sumowono Semarang(9の建築物)遺跡が山の中腹に9か所にあります、そこへ立ち寄り、再度スマランのバイパスから西に向かって、現在地にいます。Sumowono,

9月19日   インドネシアで楽しく暮らす 15−370

斜めからインドネシアを眺めよう 370

なにもすることがありません。誰もいません。話し相手もいません。一人きりです。安心の保険として、昨日パニック障害の薬を手に入れたので、不安の度合いが大分少なくなったと思う。日本へ帰ってもすることはないし、お金はかかるし、飛行機を使ってインドネシア内の旅行もお金がかかるし、そこで、今朝、車で旅に出ることに決めた。そして、7時に家を出て、東に向かった。

 ところがである。Cikampekまではがらがらで順調だったが、出たところで、いきなり、海岸方面の道は渋滞だから、山の中Subanへまわり道の標識になっていた、そうするしかないので、右折してそちらに行った。これがまたいきなり渋滞、スバンに着くのが12時になりそう、とてもこのままではSemarangに夜中までには着かない。

 今日は引き上げることにした。また帰りが、大渋滞というより、Mudikの車やバイクが全車線一杯を占めていて、ジャカルタ方位面の車線が無くなっていて、路肩の舗装されていない部分をやっとすり抜ける程度の隙間しかない、それも、塞がれているときがあり、たびたび立ち往生、交通警官が来て道を開けてくれるがしばらく行くとまた、塞がっているこれのくり返しで、家に戻ったのが13:00を回っていた。

 もちろん、Mudikの連中は、もっとひどい中をひたすら、たまに、ちょっとずつ動くだけの車の中で耐えている。おそらく、今晩中、どの幹線道路も大渋滞でしょう。明日の朝には渋滞が解消していることを願う。

 結局、予定していた20日の出発になる。目が覚めたら、すぐ、出発しようと思う。

迂回したおかげで、広大なゴム園を通過することができた。

 20日にプアサ明けを宗教省から発表がされた。いかにもインドネアシア毎年、前日に発表になる。本当は何十年も何百年も先まで、わかっているはずであるが、不思議に、国民は前日発表をありがたく、納得している。天文科学者から、何のコメントも出ないというのも面白い。モハメッドさんが天動説を唱えなくてよかったと思う。もし、唱えていたら、今頃どうなっていたでしょうか。モハメッドさんは日の出日の入りの時間が地球上の場所によって大きく違うことを知らなかったし、四季があることも知らなかった。中東の砂漠しか体験していなかったのだから仕方がないし、支配を確立する大将としては知る必要もなかった。この事実はイスラムが習慣が季節的に矛盾していることからわかる。

 ゴムの木のアーチ スバン付近のプランテーション

9月20日   インドネシアで楽しく暮らす 15−371

斜めからインドネシアを眺めよう 371

20日Buka Puasaです。次第に経済力が重要ということを分ってくれば、生活水準が上がってくれば、いろいろなものを手に入れることができるようになってくれば、そういう国は宗教心が薄れてくる。いわゆる、幸福とか満足の基準とカ基本的考え変化してくるのです。勉強や仕事で日本に滞在しているインドネシア人のイスラムの人を見れば明らかです。彼らは日本人を見て、宗教とはなんなのか考えさせられてしまうらしい。頭の回転が良い人ほどそう思ってしまう。しかし、人心を支配するには便利な宗教とも感づく。このことは、もっと詳しく、いつか書こうと思う。

トイレットペーパー、アンティモスキート、目薬、パニック障害の薬、キタスやパスポートは当たり前、現金が一万円程度、支払いはカードでする。現金が足りなくなればATMがどこのでもあるので安心。

ガソリンスタンドで、どこへ行くのか。 一人かい、私にドライバーをやらせてくれ、などという人もいる。

朝、01:30に家を出た。真っ暗な中、渋滞などどこのこと?と、思うほど、閑散とした中、順調にチカンペックまで、今度は勿論北周りの道(左折)を使うことができた。Cirebonのバイパスを過ぎ、ガソリンを満タンにし、眠気覚ましにラップトップをいじろうとしたら、無い。全く意識をしていなかった。準備をして、ケースに入れた。しかし置いてきてしまった。05:30でした。そのまま、先へ進んでも、意味がないので、取りに引き返すしかなかった。途中、モスジッドに多くの人々が集まってお祈りをしていたため、道路が各所で通行止めになったり、一車線になったりしていて、引き返すのも時間どうりに行かなかった。家に着いたのが、08:30.眠くて、寝てしまった。10:30目が覚めるなり、すぐ再出発をした。そして、ひたすら走り続けた。Cirebon通過は15:00Semarang 通過が、19:00Kudusでホテルを探し出して部屋へ入ったのが、20;30でした。疲れた。Capekde~~,

撮った写真の大部分は運転をしながらである。

本場のSoto Kudus約100円でした。ちなみにホテル代金は3000円。

9月21日   インドネシアで楽しく暮らす 15−372

斜めからインドネシアを眺めよう 372

 昨日の走行距離は660km(無駄が250km)ガソリンスタンドとコンビニにちょっと酔っただけでした。メーターは410Kmでした。18:00丁度にSitubondoSan Sui  Hotelに到着した。テレビを点けたら、Laskar Pelangi(日本なら、文科省推薦映画である)をやっていた。Bulitunが舞台になった映画で、行った時にセットの学校跡や海岸の大岩を撮ってきた。私のフォトアルバムで紹介している。

 ところで、今日も、Sangat Capekde~~~.

07:30ホテル(Notosari Permai)から出発て、間もなく、09:00まえ。東ジャワに入った。まだ、Mudikの車やバイクが下り方面へ向かっているが、もう、邪魔になるほどではない。むしろ、一緒に前後しているので、なんとなく、親しみを感じる。

 11:30Surabayaへ入ったが、直接Tanjun Perak方面に向かい、そこから、SURAMADUへ向かった。できて間もない、SurabayaMadura島を結ぶ橋である。東南アジア一の橋だそうで、どの部分が一なのか聞いていませんが、話の種として、渡ってみた。高速道路の終点から、案内板が出ていて、それを追いながら行った。迷うことなく、着いたが、道はくねくね、方角が全く分からなくなってしまう道順だった。案内板を見失ったら、途中で、何度も、聞かないと分からなくなると感じた。

 橋は、なるほど、少なくても私が訪れた東南アジアの国々の橋で、一番,塔の高いつり橋だった。東南アジア一と云っているのが可愛い。日本にはこの程度の橋は山ほどあるからです。

 Surabayaは高速道路で脇を通過し、やはり、まだ、高速はSidoarjoまで途切れていた。直ぐ、泥海の土手に着きあたる。四年前より、5m以上は高くなっていた。ここも観光地化しているが、す通りした。しばらく南下Malangへ向かい、左折してProbolinggoに向かった。

 Kudusを出てから、すぐに道の両側に広大な塩田が広がり始めた、これは、Surabayaに入る高速道路の両脇まで続いていた。一か所によって、其処の人と話をし、塩を頂いた。ゴルフで迷惑を掛けている方たちへの安い土産とする。

 走行メーターは850Kmである。まだ、三回目の15万Rpのガソリンが残っている。

 http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

の“オランウータン”はインドネシアで仕事をする方の人間関係に関し、大変参考になります。

 もうひとつ、公開質問をしておきます。言われたこと、意味不明なことが山ほどありました。その時、質問すればよかったのですが、口から出まかせで、論理的裏付けを用意して無かったでしょうから、ただ、感情的に怒り狂わせることを心配し、反撃はしなかった。

 今は、あの時云ったことを冷静に振り返って大人の答えができるでしょう。それも、多くの中の一つに絞りました。ぜひ、他人を通じてでもいいですから。理解が早い私に答えを出してください。ぜひ、この話の根拠はなんだったのですか。本社の社長か私の何を知っていて、早く帰れ、いったのでしょうか。最後に、医者との話で、気持ちが反対になったのはなぜですか。自分で、云っていたことに矛盾を感じませんか。

 以上です。ぜひ、自分が納得いくようにしてからお答えください。

私が分けの分からない病にかかった時。「悪いことを言わないから、早く日本へ帰った方がいい」といった。私は、メディカロカの日本人医師に「飛行機に乗るのは危険です、どんな迷惑をかけるか分かりません。私は責任を持てない」といわれたと、話した。その後、また、「変えた方がいい」と繰り返した。おまけに、「日本の社長も帰った方がいいといっている」と、付け加えた。

 メディカロカの日本人医師に直接会って話したあと、急に反対に、「勝手に日本へ帰らないように」といって、私が入院するまで見張っていた。

 

9月22日   インドネシアで楽しく暮らす 15−373

斜めからインドネシアを眺めよう 373

07:00にホテルからでて、Banyuwangiの北にあるKetapang港から、09:30出帆でBaliiGilimanukへついた。95000Rp前回は北から回ったが今回は時間を節約するために南から、Denpasar方面に向かい、Sanurの東30kmくらいのPadang港から15:30Lombokへ向けフェリーで出港、20:00に到着した。

 今日の行程はGilimanuからは全く未経験でした。Baliの道は、大体一周道路と南北のの道路が主要で、後は、あみだくじの横線のような東西の道が南北道路を繋いでいる。一本で、東西を貫いている道路はない。行き先は、分かっていたので、とにかく東の端近くに行かなければならなかった。南東に広い道があるはずだと思って、Denpasarの北を通過して、其の道を目指したのが正解でした。割合、あっさり、Pangangは見つかった。実際、フェリーが出ているのか、出ているとしたら、何時なのか全く知らなかったが、14:00に到着して、聞いたら、フェリーこうだと云ってくれたのでほっとした。料金がキジャンクラスで、なんと、555.000Rp(5千5百円)高い!!しかし、引き返すわけにはいかない。

 Lombokの港Rembanに着いたのが19:00(Lombokタイム20:00)を過ぎていた、そこからMataramまで、30分ホテルLOMBOK RAYAに飛び込んだのが現地時間21:00を過ぎていた。三千円です。

 Sangat Capek Bangat Gitulo!!!

やっと、たどりついたという感じで、頭はパニックではないがぼーっとしているし、目が疲れた。

 こんなことは一人でなければできない。連れがいたのでは、一緒に連れ回せないし、食事やホテルのいいところを選ばなければならない。

 夕食は先ほど23時まえ、ソプアヤムとナナスサラダ、テーマニスがついて奮発して、450円

9月23日   インドネシアで楽しく暮らす 15−374

斜めからインドネシアを眺めよう 374

キジャンオートマ2Lの燃費について。

 一人が気楽で楽しい、誰に気を使う必要がない。自分のペースで何でもできる。今回も今までのところ、90点です。10点不足は、連れがいないので、話したいことを話せないからです。しかし、連れがいるとマイナス面が多い、節約旅行やがんがん前進力ができない。ペースが合わないのでこちらがあわせる。どうしても、マイナスが30点ほど着いてしまう。インドネシアには10点を増やして100点にする連れはいない。日本に一人いたが、もう、できないでしょう。

 私と一緒に仕事をしましょうと云った方と、もし、一緒に旅行したら、きっと、私が予定を組んで、必要な予約をし、行程の了解を取って、迎え、送りもして何日が一緒に旅をして、お金も私の方が多く使って、帰ってきて、暫くすると、他人から、あの人が、あの旅行はつまらなかったと云っていたよと、聞かされるでしょう。まっぴら御免です。仕事もそういうことになりますから、まっぴら御免です。

 ところで、今は、Lombokの東側の山の中1100mのSembalun Lawangという部落に来ています。Lembah Rinjaniというロッジに泊まっています。1700円です。大変寒い、インドネシアとは思えない。

 なぜでしょう。明日早朝から、登山を始めます。山の名前はRinjaniインドネシア人ならほとんどの人が知っている活火山です。3726mと聞いていますが、現在は頂上までの登山は禁止です。火口湖の外輪山で、頂上の反対側へ登ります。2700mです。富士山と違って、かなり、下から、歩きですから、二泊三日かかります。ですから、ラップトップは持って行きますが、長時間はつかえないので、グログを送れるかどうか分かりません。

 カメラがデジカメとHPのカメラですが、これもバッテリーの予備がないので心配です。

ガイドとポーターと私の三人で登ります。

 パニック障害が落ち着いてすぐ、決行するつもりで、Lombokに来たことがあったのですが、その時は体力的に無理と判断し、ギリアイル、ギリトゥラワンガン辺りで、静養しましただけになった。今回はBekasiから一人で、1500km近く運転してきたのですから、体力的には大丈夫だろうと思い、多分無事に戻ってこられると思い、ちょっとした、思いきった決断です。登山者名簿はしっかり書きました。

 明日登る山です。Gn Rinjani(リンジャニ山)

9月24日   インドネシアで楽しく暮らす 15−375

斜めからインドネシアを眺めよう 375

07:00前にホテルから出発した。ガイドとポーターの三人ずれである。最初のい時間はほとんど横歩き、目的にやまになかなか近づかない。しかし、いったん山に向けて歩き出すと急激な登りが待っていた。ここから想像以上の難行苦行が始まった。11:00頃昼食を取ったが、ポーターが持ってきてくれた食材で、クンタンゴレンや野菜炒めに温かい紅茶つきである。休憩とその効果があってまた元気を取り戻した。

12:00から、登り始め、どんどん急坂になる。胸突き八丁のれんぞくである。日本の山ならジグザグに登るところを一直線にのぼる。一時間も登れば、足も頭も疲れのピークになり、もう歩けない。休憩をする。また、しばらく歩く、また休憩。段々その頻度が多くなり休憩が長くなる。ガイドがこのちょうしでは、今日、目的地に着かないかもしれないと心配していたくらいに私の疲れぐいあいは酷かったのだと思う。それれも、リタイヤをせず、とにかく、ちょっと休んでは歩き続けた。インドネシア人と欧州人だけであるが、レバランの長期休暇中なので、大勢の人が登っていた。皆さんとは冗談を云いながら、途中で休憩するときには皆さんの出身地を聞いたり、そこへ行ったことがあるとか話に花が咲いた。オランダ人がおおかったが英語で冗談を云いながら相前後して登った。疲れは皆さん共通です。

ポーターも人がいいとばかりで、気は優しくて力持ち、平均25Kgくらいの荷物を担いで私たちのペースに気を使いながら登っている。

火口湖が見下ろせる場所が目的地だった。他の多くの人はそこから後1000m高い頂上を目指して登って行った。湖まで降りてボートで遊ぶという人たちもいた。インドネシアに高いことを楽しむ階級もいることを知った。

19:00を回ったところで、真っ暗になって眠るしかなかったが、テントは防寒だし、寝袋まであるので大変あたたかい。大雪山の事故は考えられない、至れり尽くせりの状態でした。ただ、私の足が至っていない。明日の朝回復していることを期待する。

HPの電波がなく、no network状態で、今日はブログを発信できなかった。

とにかく、知っていれば、こんな困難には挑戦しなかったと思われるほどきつかった。ただし、景色はインドネシアの今までの中ではほとんど一番でした。

今度くるなら、SBYが登ると云いだして、エスカレーターでも出来れば来たい。他の日本人にお勧めしませんが、自分に弱さ、根性無しを感じている人は是非挑戦し、完登できれば大きな自信が付くでしょう。

ガイド、ポーター付きで1.6ジュタです。

9月25日   インドネシアで楽しく暮らす 15−376

斜めからインドネシアを眺めよう 376

 本当は二時か三時ごろ元気に降りて来て、直接マタラムにホテルへ行くつもりだったが、とんでもないことになってしまった。下山を始めて二時間ほど過ぎたあたりから、膝ががくがくし始めそのまま降りていったら途中から、勝手に膝が曲がってしまい、座り込んでしまうようになった。立ち上がることも、難しくなってしまった。杖を麓のホテルの人が作ってくれて、これを、持って行きなさいと、くれた。その意味が行きには役に立ったが、邪魔だとも思った。しかし、下山には絶対必要だった。転ばぬ先の杖、とは、よく言ったもので、完全に膝が壊れてしまった私には必需品となった。

 下り道は一歩も歩けなくなってしまった。平坦と登りは問題なかったのが不思議である。しかし、もう、どうしようもないので、ポーターが気を利かせて、おぶって降りてくれるというので、お言葉に甘えて下りだけは、お世話になった。予定の時間を大幅に超過し、ホテルまで、四キロのところで、ホテルに電話し、バイク(オジェック)を頼んだ。その時がもう、17:00を回っていた。ホテルにたどり着いたのが、18:00ちょっと前で、サンセットの時間だった。暗くなる前ぎりぎりに着いたので、もう、Matawramに行く元気はないし、運転も多分できない状態までダメージが大きかったと思う。

 GnRijaniに挑戦して良かった。登りの途中、何回も後悔した。下りの途中では立ち止まるたびに後悔した。66年生きていて、こんな足の状態は経験したことがなかった。どうなっているのか分からないが、一度座ってしまうともう、自力で立ちあがれない。こんな悔しいことはない。挙句に40kgのポーターに70kgの私がおんぶしてもらって、下山など、最後には比較的平坦な4kmをバイクに迎えに来てもらった。屈辱出るが、どうしようもないので、皆さまに手伝ってもらって、もっと迷惑が大きくならないようにするしかなかった。

 ところで、活火山のこの山の湖の南側から、様さまなガスを吹き上げていた。夜は赤い噴煙も見えた。今日、聞いた話では、四人の若者とポーターがガスを吸って動けなくなってしまったという、情報がホテルに入ったそうです。私はとてもではないが、そっちの方へ行く元気はなかった。

 とにもかくにも、景色は最高、サンセットもサンライズも最高。最低は私の体力でした。こんな筈ではなかった、パニック障害が原因なのか、体力の衰えをつくづく感じた。それでもやり遂げた。

 明日の朝起きたら膝関節が治っていることを願う。

 サンライズです。東隣の島、Sumbawa島からです。

9月26日   インドネシアで楽しく暮らす 15−377

斜めからインドネシアを眺めよう 377

  今回の旅行のPhoto Albumを追加し始めましたがまだまだしばらく追加中の状態になります。旅行記は帰ってからですから、29日過ぎでしょう。

今は、先日泊まった、ホテルLOMBOK RAYAにいる。08:00にSembalun LawangLembah Rinjaniを出発し、北へ向かって山を下り、島の北の海岸についた。そこから、左折し、海岸沿いにGiri三島の船乗り場を通過し,しばらく行くと、Mataram方面とSenggigiに分かれる。マタラム方面は近道ですが山の中、海岸沿いに、Senggigiに向かった。途中、何度も車を止めて写真を撮った。この辺りは三度目である。一回目二回目と今回、私の状態が全く違う。レンタカーではこうはいかない。運転手も一緒にレンタルしなければならないからです。Bナンバーの運転手は私ですから。

 14:00にはホテルに着いた。そのまま、フェリーに乗ってBaliへ渡ってしまおうかとも思ったが、体が悲鳴をあげていることが分かるし、この時間にフェリーに乗ったら、Bali到着が20:00を回ってしまう。それから、安宿を探すのは、辛すぎると感じた。今日まで、かなり無理をしてきたのだから休養日とすることにした。

 四日ぶりにお湯が出るシャワーを使い、全身を洗った。茶色い排水がしばらく続いた。体中が小さな傷だらけ、用意してあったが、帽子を持っていくのを忘れ、日焼けで、おでこがひりひりする。首のまわりもである。手の甲も真っ赤である。ゴルフ焼でないことは左手を見れば明らかである。両腕の筋肉も痛む、自分の体を起こすためや転ばないために両腕の力で支えなければならなかったからです。年寄りは三日以上後から、痛みを感じるようになるというが、既に相当痛いのだから、明日はどうなってしまうことだろうと思う。

 今は、自力で立てるが立てなかったときは一体どうなってしまうかと思った。老人が杖を使わなければ歩けないとはこういうことかと思った。

 一人旅は楽しい、と書いたが、今回は一人でよかったと思う、マリアさんでも他の日本人とでも一緒だったら、決行できなかったし、もし決行したら、非常に厳しい状態になっていただろうし恨まれることになったでしょう。誰も誘わなくてよかったと思う。

後ろの島はギリ トゥラワンガンです。今回の旅行のスタイルです。日本人とはにわかには思われない。国籍不明人間です。ありがとう、とか、こんにちは、といって何となく言わなくても分かってもらえるようにする。山で、相前後していた欧州人の中には日本語が少しできる人もいて、盛んに日本語で話しかけてくる。

地元のマタラム大学の学生たちの五六人のグループとも休憩所一緒に休む時、私に日本の状況を聞いてくる。インドネシアからの留学生の状況を知りたがっていたようです。

9月27日   インドネシアで楽しく暮らす 15−378

斜めからインドネシアを眺めよう 378

 何が目的のブログ?LombokからBaliへの船の中で、書いている。外の写真はまっ暗い中で到着したので、港あたりの写真がないので、出発時だけにしようと思い、そうした。

 一応、毎日書いて、アップしている。日本にもドイツにも、私の安否を気にしてくれている人が何人かいる。だから、送れないことを予想される日には、理由を付けて書くようにしている。インドネシアの中の日本人も楽しみにしていてくださる方が何人かいます。その他にも、どんなことが書かれているか大変興味を持っている方もいます。仕事のこと、会社の状態のこと、予定のことなどです。これからも、一日置きくらいにはチェックしてみてください。

 山を下った時は膝が勝手に折れてしまって歩きけなくなったが、平坦と登りは問題なかった。痛みはまったくなった。しかし、体全体の痛みは昨日からで、今日は昨日より増している。

一時間,間隔でフェリーは出ていると聞いて、07:30にホテルを出た。30分でLembarに着いたが08:00発の船が出帆するところだった。次は10:00だといわれてがっくり、インドネシアである。

 Mataramの南20Kmにある、Lombok唯一の港で貨物船もここにしか接岸できない。入り組んだ湾の奥にあって、港としては条件がいい。

 出帆すると、いくなり山間に高い独立峰が遠くに見える。RinjaniではなくAgunである。少しの時間船は最初南西に向かったのでした。直ぐ北西に方向を変えるとRinjaniが目に入った。一時間も過ぎると両方の山が均一にすっきり見えるようになった。飛行機を使ってきたのではこういう景色を堪能することはできない。Baliからちょっと時間はかかるが、お金と時間に余裕のある方は、お勧めです。航行時間は6時間です。

日本人、欧米人は私以外にいない。トラックやバスの運ちゃんは2mmぐらいの太さ乗大物狙いの釣り糸を垂れて、そのままにしてある。20本以上は引いていたと思う。しかし、結局、誰一人として,小物さえ釣れなかった。

 Pandang港へ5時間で着いた。15:00でした。そこから、ノンストップでPulah Baliを横断、最初はAAナンバー(ジョクジャカルタナンバー)の観光バスについて行ったら、さすが、観光バス、しっかり、Gilimanukまでの幹線道路を知っていた。私はなにも迷うことなくフェーリー港へ到着、18:00丁度だから3時間でBali島を横断したことになる。ここまでで、2824Kmの表示でした。Lombokのときと大違い、今度は私を待っていたかのように、そのまま、ティケットを買って、船に案内された、私が入ったところで、鉄板の橋が上がって、すぐ、出航した。

港までの道、東ジャワから戻ってきた。車やバイクやバスで渋滞していた。それに引き換えバリ側からの渋滞は全くなかった。バリで仕事をしているジャワ住民が多いことが分かる。職がバリの方があるのでしょう。

BaliiGilimanuk港から、18:10出帆でKetapang港に到着。すぐ近くに、ホテルが沢山、あるのを知っていた。Banyuwangiとは反対の方向である。

今日で長期休暇は終わりである。だから、今日中のUターン(Alus LebaranあるいはLiputan Lebaran)渋滞が終わっていなければならない。しかし、そういうわけにはいかない。職場復帰も明日からであるが、そうもいかない。私自身。まだ、ジャワ島の端にいる。多分、29日中にデルタマスへ戻ることができるでしょう。30日から、現実に戻ります。

Baliが目の前に広がるジャワ島の東端のHotel Baru dua Beachに宿泊した。1600円である。しかし、Flashの電波が届いていなかった。

LombokBaliのフェリーの壁に残っていた日本語の一例です。インドネシアのフェリーはほとんど日本からの中古です。

9月28日   インドネシアで楽しく暮らす 15−379

斜めからインドネシアを眺めよう 379

今日から、PT.MAKUTAは仕事再開のはずですが、皆さん、揃うでしょうか。ttレバラン休暇が終わった今日から、JABOTEBEK高速道路の料金が大幅にあがったらしい。

インドネシアのMudik(里帰り)

ご存じ、世界最大のイスラム国のレバラン帰省、たぶん世界有数の民族大移動だろうと思う。二回目の体験ですが、前回は、運転手が三人いて交代で東の端に近い、ブリタールまで行った。パニックになる前だったし、疲れた覚えはなかった。今回も山に登らなければそれほどでもなかったような気がする。まだまだ、行けると思った。

 今回は、一人旅でした。そして、LOMBOKまで行こうとなんとなく思った。何となく思って、行くのが私です。何となくです。そして何となく通り過ぎるのです。今回の旅行は今日で終わったと思う。明日はMariaさんがスラバヤから一緒にチカランへ行くが、彼女が大半を運転してくれるからだ。

今日は、来た道をたどっても知恵がないので、Banyuwangiを通過し、東ジャワの中央部を西に向かい、Malang経由Surabayaコースを辿った。ということで順調にいくつもりだったが、Banyuwangiに入ったところで突然、車の下部でカラカラと音がしたと思ったら、車が動かなくなった。シャフトの連結部が外れてしまったようだ。路肩に止まったら、その音に驚いた近所の人がまだ、朝、06:30だというのに集まってきた。荷物を追って行かれたらまずいと思い、ロックして周りの人に説明したが、勿論、分かる人はいない。とにかく、車をBengkel(修理所)を牽引してくれる人はいないかと聞いたら、すぐ、手伝ってやるよという人がいて、自分の車を持ってきて、鎖でオートドゥアリブまで送ってくれた。まだ開いていなかったが、やがて、エンジニアーが出勤してきて、チェックし始めた・やはり、メインシャフトのユニバーサルジョイントが摩耗して、外れてしまっていた。パーツショップから部品が入ったのが、09:30ころ。それから、セッティングが始められたが、これば、経験がない人ばかりで、時間がかかった。12:30過ぎに直って、無事出発できた。

それにしても、運がよかった。北周りの道を選んでいたら、山の中なので、どうなってしまったことでしょうか、また、町の中だったから、人々が集まってきて、いろいろ頼んだりはなしができたし、1km以内にTOYOTA  AUTO 2000があった。長期休暇明けの月曜日で、8時に全員が出勤してきて、直ぐに点検のための解体が始められた。また、部品もすぐに手に入った。

実を言うと、今回、ロンボクのBCAATMでお金をひく出したあとカードが出てこない。装置の内側に持っていかれてしまったのです。どうにもならない。お金が足りない。しょうがないから、緊急用に持っている円の内二万円をSenggigiの両替所で、Rpに交換した.

また車の修理でお金がかかる。持っていた日本からのマスターカードでATMを試した。こん度はカードを取られないようにカードがちょっとでも出てきたら直ぐ引っ張った。大丈夫、持って行かれなかったし、修理代にチップを添えて払うことができた。これで、Bekasiまで再出発できる。

今日は、山の姿が美しい場所を通過したが、生憎の曇りで、それほどくっきりというわけにはいかなかった。それでもSurabayaの空港、Juanda近くのHotel  Bandaraに22:00前に飛び込んだ。八時間の間ガソリン補給とトイレのため10分車から降りただけだった。

車の修理

9月29日   インドネシアで楽しく暮らす 15−380

斜めからインドネシアを眺めよう 380

 途中で一泊して、Cikarangへ戻るので、ここまでくれば、二日で余裕である。08:30にホテルを出る。今日からMariaさんが一緒である。というより、Mariaさんが70%以上は運転してくれるでしょう。実際、今日もほとんどマリアさんが運転でした。

 昨日の晩、使えなくなっていた、Flashがまた使えるようになった。場所の問題だろうかインドネシアならどこでも、というわけにはいかないようだ。通信ができないときは、ストレスが溜まるし。心配もかける。

 順調に道程をこなし、来るとき泊まったKudusを過ぎ、Semarangのバイパス的高速道路を過ぎ、KendalHotel  Anugrahに入った。18:00を回っていた。お湯は出ないが、1100円です。

 北道(来た道)を戻っただけなので,道中、印象に残ることはない。半分眠っていた。もう、ほとんど旅は終わっています。緊張感が、もう、無くなっている。

 昼食は、途中の海岸沿いの小屋レストランでサテカンビンを頼んで食べた。マリアさんの分は当たり前に辛くていいのだが、私のは、辛いのは食べられないから唐辛子無しにしてほしいと頼んだ。ところが、唐辛子をマリアさんの10分の1くらい入っていて、食べてみたら、辛くて食べられない。唐辛子はなしでと頼んだでしょ、といって、作り直させた。今度は見た目に唐辛子はない。食べてみたら、やはり、辛くて食べられない。付けて焼く時の“垂”が辛いのです。今度は、其のたれを付けないで焼くだけにしてと、頼んだ。

やっと、辛さから解放された山羊の焼肉を食べることができた。

 インドネシアの人は、フライに上げる油自体が、すでに、辛いことを全く意識していないし、焼く時の垂が辛くなっていることも、意識していない。辛のが苦手なインドネシア人でもその位の辛さなら、文句を言わないで、食べることができるのでしょう。

 しかし、私は、辛いものは食べられないので、辛くないものを必ず頼む。”Jangang Pedas”

と、必ず言います。二度以上は云い。註文を聞いた人に繰り返してもらいます。それでも、料理人は、垂れや油に浸みこんで、増幅している辛さをまったく気にしてくれない。

9月30日   インドネシアで楽しく暮らす 15−381

斜めからインドネシアを眺めよう 381

Kendar07:00出発。既にUターン渋滞は終わっていると思っていたのが、予想外、まだ、かなり、激しい渋滞にそこかしこでハマった。TYegal Cirebon辺りになるとますます、バイクの数が増え全てのガソリンスタンドにはバイクの長蛇の列、そして、ポンパベンシンの敷地へ入れないバイクが前後の路肩に駐車している。若い夫婦と子供一人か二人が大部分である。道が混んでいるのでのろのろの上に、車の隙間を縫うようにすり抜けながら前進しなければならない。相当の疲労ではないかと思う。ぐったりとして、休んでいる。まだ、ジャカルタまで三時間以上はかかる地点だし、満タンでも、もぷ一階は給油しなければならない地点である。

 交通事故や故障で道路の一部を塞いでいる車も多い。既に、月曜日から、仕事が始まっているので、大形のトラックの数が日常に戻り、その上、Uターンラッシュのバイクである。状況はMudik渋滞よリ、厳しいかもしれない。とにかく、

17:00前にデルタマスの自宅に到着した。一先ず、今回の双六の上がりである。単純にいろいろな事態に遭遇しましたが、とにかく、上がりです。自分の運の良さを再確認しました。 といっても、体のあちこちが痛む。原因はわかっているし、時間が解決をしてくれることも、分かっている。右の上の方のろっ骨にひびが入ったようだ、日増しに痛む。しかし、これも治療のしようがない。自然に、直るのを待つばかりです。一度や二度目の事ではないので、Biasaです。

とにかく,十日間、宿賃は平均2千円で、2万円ぐらい。一番の出費はLombok-Bali間のフェリーボートで往復1万2千円でした。Gn,Rnjaniのガイド、ポーター食料、テントや寝袋全部込みで、1万6千円、ガソリンが4400Km440L×45円=2万円、ここまでで、6万8千円、途中や夜の食事代はどう考えても合計1万円以下、車の修理代や部品代とチップは4千円でした。高速代や雑費を計1万円とみて、総支出は九万二千円くらいでした。十万円以下で収まった。

 これで、十分自己満足です。10月1日から、現実の世界に復帰です。

10月10日 インドネシアで楽しく暮らす 15−391

斜めからインドネシアを眺めよう 391

インドネシア各地では完全に雨季になっていて、洪水のニュースが日常化してきた。

先週はろっ骨の痛みに堪えながら、ゴルフをやったが、今週はろっ骨の痛みも和らいで、気にならなくなっている。ロンボクへ行った時の後遺症は左足の親指が死んでしまって真黒になっているだけで、痛みは全くない。これは、はえ変わるまで、半年以上はかかるので何もしないでほっておくしかない。

大事を取ってゴルフはなし。そこで、今日はどこにいるかというと、インドネシアで一番くつろげる場所、Pangandaranに来ています。Pangandaran Beach Hotelといって、ここではかなり古い方で17年前に作られたという、一見、オランダ時代のホテルではないかと思わせる、西洋建築風である。ジャングルへ入る入口一番近く、ジャングルへ入るには車はホテルに置いたままでいいので便利です。ただし、25万Rpでお湯は、出ない。

設備も古くて、老朽化しており、何かと使い勝手が悪い。トイレットペーパーはない。

05:00に家を出て、6時間半かけて、昼前に西海岸に到着、午後は、船をチャーターして、西河岸から、半島に近い場所を東海岸へグルと回ってもらった。往復で25万Rpでした。今日は、風が比較的強く、うねりが大きく、三角波の上に白波もあった。初めて、ライフジャケットを装着させられた。

インド洋の大波が周りの切り立った崖へ打ちつけていて、危険なので、通常は200mほど沖を遠廻りして、半島を海から眺める。しかし、いつも遠景しか撮れないので、危険を承知で、近距離で操縦してもらった。

お陰で、岩に当る大きな飛沫とそれが引いて岩肌に白い筋ができる姿を満喫することができた。リンジャニの山と同じで、他の日本人を誘うことができないほどの大波で、ボートのへ先が目の前を塞ぐように立ち上がり、そのあと、何もない空間にドスンと落ち水面を打ちつける。3mくらいは、すとんと落ちるような気がする。それが、不規則に何度も繰り返される。それを、気にせず、写真を撮る。お尻が痛い。

10月11日 インドネシアで楽しく暮らす 15−392

斜めからインドネシアを眺めよう 392

また、家に戻っている。パンガンダランの半島の中(チャガールアラム)へ午前中、入って、ラフレシアに会いに行った。今度は、サーファーを紹介する為の撮影会をした。インストラクターのラシッド君に頼まれて、私のウェブサイトに乗せるためである。日本人のサーファーがたまに来るが、英語もインドネシア語もできないので、コミニケーションが大変で困っているらしい。雨季なので、当たり前かもしれないが、夜明け前から、大雨と風、まいった。楽しみにしていた、サンネットもサンライズも全く無し。いままで雨季のときでも、何十回も来ているが、こんなに、何も行動できなかったことはなかった。それでも、07:00からジャングルへ強行した。入場料は7000Rpになっていた。土砂降りで、一般観光客は誰も、まだいない、知り合いのガイド連中も手持ち無沙汰である。

ずぶ濡れになりながら、ラフレシア探しを急いだ、何度も滑りながら、尻もちをつきながら沢を歩いた。その甲斐あって、いくつかの咲いているラフレシアアルノルディに会うことができた。09:30には出てきた。その時も土砂降りで、インドネシアの観光客が、私のずぶ濡れの姿をじろじろ見ていた。変な日本人がいると思ったに違いない。

これも、一人でよかった。とても、強行する状態ではなかった。もし、一緒に他の日本人を誘っていたら、HPやデジカメが濡れて使えなくなってしまうとか、滑って転んで怪我をさせてしまうとか、それでなくても、上り下りに土砂降りでは、散々な状態になるし、もし、それで、ラフレシアに会えなかったとしたら、何を後で言われるか分からない。そんなリスクを冒しては、パンガンガランへ同行したとしても、ジャングルへは誘わない。

やっぱり他の日本人を誘わなくてよかったと思う。はるばる、何をしに来たのか分からなくなってしまう。もし、連れていていたら、慰め様がなかったでしょう。

2005年の津波の災害の後、西海岸にあった飲食テント店は全滅した。その場所に地方行政は、店を作らせないように公園風に囲いをつくって、車の駐車もできないようにした。しかし、それでは、せっかく訪れた観光客が飲み食いする場所がない。駐車場も遠い。観光客は津波の前の状態に戻らなかった。

行政は店ができるのを黙認した。電気も引っ張ってくることを認めた。西海岸は数年前の活気を取り戻した。地元の人たちも収入源を取り戻すことができて安堵していた。先日お国会議員選挙や大統領選挙運動のころには、盛んに運動員が訪れて、このまま、商売が続けられるようにするから我が党にと、云ってきたという。その仕切られた公園の中で、昨晩はダンドゥットゥのコンテストのようなものが開催されていて遅くまでやかましかった。

10月25日 インドネシアで楽しく暮らす 15−406

斜めからインドネシアを眺めよう 406

ジャワ島のことに関して、問い合わせが、メールで入ってきます。以下は、こんな感じで、答えているという一例です。

「こんにちは

ブロモは下の町のどこでもいいですからホテルへ泊って、朝、03:00(距離によって違う)ごろ、ホテルD予約したレンタカー(ガイド付き)で出発するのが一般的です。

日の出を待つ場所があります。そこから、大勢に現地人と一緒に見ます。車から降りて、最長でも10分、暗い、緩やかな道を登るだけです。気温が15くらいですから、防寒服装を準備してください。登山と云う程のことはありません。其処で、写真を撮って、下の砂の海へ車でおります。ブロモの下から、馬を借りて,階段の下まで行き、そこから、階段をおぼって、火口のまわりへ登ります。

私のブロモの写真に全部のっています。参考にしてください。私は66歳になりますが、駆け足でも登れます。

LAWANGにはホテルが沢山ありますし、其処のこだわらなくても、その辺りの町にはどこででもホテルを見つけることができます。

 どちらの方から近づくのか知りませんが、スラバヤからならマラン方面に向かい途中左折してパスルアンへ向かい、パスルアンから右折、ブロモ方面へ向かう。トサリという部落がバスや普通車の終点です。そこに、立派なホテルが何軒かあります。

四駆の車をチャーターし、翌朝暗い内に出発します。この、コースが私はお勧めです。

しかし、ブロモ展望台まで、何時間かかるかの問題ですから、下のどの町のどのホテルからでも、展望台へ行く車はチャーターできます。値段と、出発時間が違うだけです。私は、MalangからとTosariからとSidoarjoから行ったことがあります。

 http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0404.html東部ジャワ地図です。その他、ジャワ島西部、中部の地図は、http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/ 表紙の下の方に在ります。 参考にしてください。

楽しい旅をどうぞ。」

 Essey集( http://www.ab.auone-net.jp/~bekasi/ )として私のウェブサイトのトップページからアクセスできるようにした。大まかに項目別に分けたので、興味や必要に合せて、ページを選べるような一冊の本の感じにしました。

11月3日 インドネシアで楽しく暮らす 15−415

斜めからインドネシアを眺めよう 415

 Cibitungのレンタル工場を見てきたが、中を見たとたんに、こりゃだめだと思った。余りにも、ダメージがひどい、全部壊して、作り直さなければ使いようがないと感じた。そこで、すぐ、断念した。環境は気に入っていたのに残念。

 PT.MAKUTAの扱いについて、ノタリスとエージェントに相談をしたところ、会社はそのまま今の場所に残し、次の場所の準備ができれば、分工場として、実態もそちらに移して問題はないという。いつでも、どこにでも、移せることを確認した。

 東ジャワの海岸沿いということは北回りのスラバヤ方面へ行くしかありません。

しかし、北側は波が穏やかでサーフィンには不向きです。ジャワ島の北側のジャワ海はすべて波は、穏やかです。海水浴には適しています。

 南側(インド洋)は全ての海岸でサーフィン向きです。しかし、南海岸沿いの道は在りません。

中央の道を西に向かって、目指す海岸(例えばMalangのずっと南の海岸Sundang Bilu)を決めておいて、途中で南下して海岸へ行き、また、元の中央の道へ戻らなければなりません。バスや他の車で移動するなら、そういう方法しかありません。

 ジョクジャカルタの南の海岸Parangtritisパラントゥリティス、バンジャールの南Pangandaranパンガンダラン、スカブミの南Pelabuhanratuプラブハンラトゥがサーフィンスポットとして有名です。

パンガンダランのサーフィンについて、

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0212.html

その他のスポットについて

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.htmlこれら参考にしてください。

 治安については、まったく、問題はありませんが、貴重品は常にあることを確認するなど、海外旅行に必要な一般的な注意は常にしていることが肝心です。

 楽しい旅を!!!

11月27日 インドネシアで楽しく暮らす 15−439

斜めからインドネシアを眺めよう 439

 今日最初にびっくりしたことはスカルのハッタの国内便ターミナルにコーヒーをジュースの二種類の自動販売機が有ったこと、外の二台はいつ設置したのかもう故障していて使えないという張り紙がしてあった。ボーディングパスカウンターの前の各一台は使えた。インドネシアで無人の自動販売機で人が買っているのを見たのは初めてである。韓国製で、コーヒーの価格が5000と10000Rpで全種類で12種類あった全部ホットでアイスコーヒーはない。紙コップに注がれるのを皆さん、今か今かと待っていた。もうひとつ面白いのはコインで買うことができるらしい、コインを入れるところもある。しかし、インドネシアには現在500Rpコインが最高(今は発行していないが、1000Rpコインを非常にたまに見ることがある)ですから、10枚入れなければならないことになる。

 お札も、5000Rp札を持っていれば問題ないが、1000と2000Rp札でいくつかの組合せがあるが、大丈夫なのでしょうか、心配になりますが、確認はしてありません。こにかく、町中では絶対に設置出来ない自動販売機です。故障しないで、長く、皆さまに浸透し続けてほしいものです。次に国内便ターミナルを使うのはいつになるか分かりませんが、次まで、無事でいてほしい。

 

バンカ(Bangka)島(スマトラ島の南東の島、ブリトゥン島の北)

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0405.html

ビンタン島にも近いといえば近い、先日、船が沈没した場所に近いといえば近い。そこに来ている。バタビアエアー10:00発が、パンカルピナン(Pangkal-pinang)の空港が雲のため閉鎖になっていて、ジャカルタへ向かう飛行機が出発していないし、ジャカルタから出発した他の便がジャカルタへ引き返したという。11:00に空港は再開されたが、私たちの出発は向こうから到着を待ってからだったので、12:30発になってしまった。インドネシアです、それも、雨季です。ビアサ(biasa,普通)である。13:30に到着、到着前,急降下を繰り返したので、機内で、お祈りしている人が多かった。

島の東側から西の海岸の町Muntokまで、空港からのミニバスで向った。景色が良い海岸にホテルがあるかと思い、来てみたら、何もない。ホテルもない、ロスメンだけでした。それも一か所(Penginapan Arwana)でした。そのうえ、食事をするところが全部休み、夕食抜きである。今日は、見るものは何もなかった、明日に期待です。

ところで、今日はイドゥルアドゥハといって、イスラムの犠牲祭である。なんだか、印象としては年中やっているようです。牛やヤギが道端で売られ始められる、10日前くらいから、あまり、いい感じはしない。自分も食べているのだが、実際に殺すのを見たことは全くない。残酷な風景を見ることはできない。この、お祭りだけをとっても、どんな理屈があるにしても、イスラムのこの習慣は好きになれない。

 

 

11月28日 インドネシアで楽しく暮らす 15−440

斜めからインドネシアを眺めよう 440

夜が明ける前から、雷交じりの大雨、昨日の晩もビスケット今朝もビスケットだけ、食事をする場所が、全部閉まっている。とんでもなく、何もないところへきてしまった。コアシもベチャもない、オジェックもない。一応、町だが、外部から訪れた人にとっては大変不便な町である。昨晩、ホテルで車と運転手を紹介してもらったので、08:00出発と約束をした。

今月末に私が支払いをして、工場を借りる段取りにした。押出用の排水、給水の工事はそれからになるので、どうしても、全面移転は1月になってしまうが、とにかく、現在すでに、購入したり、作ってあったりで、先方に預かって置いて貰っている装置の引き取りができることになった。

 今日の成果はどうだったかというと、スマトラ辺りの雨季は昨日と云い、今日と云い、こんな状態なのかと思わされた。もう、どうしようもないので、このままの状態が一日中続くことを覚悟した。

  今は、P.Bangkaの北東に位置するKota Sungai liatの南、Tanjung Pesona beach resort Hotelに泊まっている。昨日は島の山の中を通って、Pangkal PinangからMuntok、東から西に移動したが、今日は、北の海岸沿いの道を遠廻りして、Tanjung KelianBelinyu Pelabuhan港、海岸Tanjung Remodong海岸Tanjung Samak海岸に寄って景観を楽しんだ。10:00頃まで、大雨が続いたが、それから、以後は天気が急激に回復し、澄んだ空気の中の暑い日差しがきつくなった。

 他のビーチもそうだったが、ホテルのプライベートビーチの状態は、ブリトゥン島にそっくりというか、逆か。同じ起源の島だということが分かる。それともうひとつの共通点は、島中、白っぽい小石を掘り起こした後が広だっていて。今でも、その所々で、何かを採掘している様子がうかがえる。何かというと、鉛Tambang timahを掘った後が広がっているのです。飛行機が島の上に来たとき、その白い土地の広がりは何かと思う。オランダ領時代大変重要な島だったことが想像される。至る所に、オランダ人が住んでいた高級住宅地と家屋が残っていて、インドネシア人の金持ちの別荘として使われているそうです。

  インドネシアで楽しく暮らす 15−463(旅行記へ)

斜めからインドネシアを眺めよう 463

私の気持は、インドネシアではなく、既に日本へ行ってしまっている。ニュールンベルグから静岡へ昨晩無事到着したと情報が入った。暮れ正月は全員集合である。家族四人で36万円位だとか、円で見ると安いように思えるが、若い彼らにとっては、かなりの負担だと思う。お年玉を弾まなければならない。一時160円以上だったのが今は120円台/ユーロになっている。

 自分で投稿をしている http://4travel.jp/traveler/enplaind/のMyページを見ることはないので、気が付かなかったが、何気なく開けて下へ移動したら、赤い矢印で示されていた旅行記別アクセス数というのがあることを知った。

早速チェックしてみた。ダントツでスマトラのダナウトバ(トバ湖)へのアクセスが多い。バリやパンガンダランはほどほど来ることは分かるが、何故、トバ湖なのでしょうか。マレーシアやタイから近いからでしょうか。

 私としては、ニアスやスンバやブリトゥンをお勧めですが、やはり、知られていないのでしょうね。また、本当に行って見るには、ちょっと、旅慣れた人で、英語の日常会話ができる人でないと、満喫をしにくいと思う場所でもありますが。

 これとは違う話だが、アクセス数個人でダントツは、Pさんです。今143回目です。2007年6月が最初の投稿ですから、約900日の間、6.3日毎にアクセスしていただいていることになります。二番目以下は30数回以下ですから、飛びぬけて、すごい回数だと思います。これからも、よろしく、です。

 今年も、インドネシアの各地へ行って見たが、レバラン休暇中に、一人で運転して、ロンボク島へ行ったこと、そしてリンジャニ山に挑戦したことが一番印象に残っている。もう、あんな無茶はできないと思う。

12月23日 インドネシアで楽しく暮らす 15−465(日本の休日)

斜めからインドネシアを眺めよう 465

 今日が天皇誕生日で休みだということを全く知らなかった。失礼しました。日本の会社、何箇所かに電話したのですが、呼び出しはしているのだが、電話を取らない。日本はどうなっちゃっているの?水曜日だし、クリスマスには早いし、変だ、変だと思っていたが、日本からの出張者に聞いたら天皇誕生日だと聞かされた。納得した。

 

スカルノハッタ空港からである。富士山静岡空港へは24日10:45着の予定だ。昼前に家に着くでしょう。

 この年になっても、いろいろなことがあるなかに、自分を置いているのだから、当然いろいろなことがある。いろいろなことがあるということは、存在感があるということである。とにかく、今年のインドネシアは終了した。

12月24日 インドネシアで楽しく暮らす 15−466(surga駿河)

斜めからインドネシアを眺めよう 466

 06:50インチョン空港に到着、全表示が日本語でも書かれているので、迷うことはないし、広々としているがそう沢山ゲートがあるわけではないので、大変、分かりやすい。今回は08:25登場なので時間も十分すぎるくらいあった。植民地時代の名残でしょうか、電源は110V、差し込みの形状はインドネシアと同じ、Cだった。時間も日本と時差がなく同じ明石を標準時としている。

コリアンエアーラインは初めてのことだった。さぞかし、飛行機の中は賑やかいことだろうと思っていたが、さすがに、ナイトフライト、皆さん、眠ってしまって静かなもの、私も、おかげで、目を覚まされたのは、到着40分前の点灯でした。困ったのは、キャビンアテンダントを始め、誰からも、韓国人としか見られなかったこと、全く、何を言っているのか分からない、食事も鳥の空揚げと何とかという韓国料理のどちらかを選ぶらしかったが、分からなくて、指さしたら、韓国料理の方で、辛くて食べられなかった。見渡す限りでは、日本人は私だけのようだった。韓国人以外がどこに座っているかをチェックしてくれていないようだった。

富士山静岡空港は生憎富士山が見えなかった。一年に何日見えるのでしょうか、冬に多く見ることができるでしょうが、距離的に100日以下だと思う。空港の規模は田舎の地方空港である、こんなものでしょう。インドネシアの中でも50番目の規模くらいでしょう。

 孫たちが迎えてくれたが、すぐに、近所の女の子の家へ遊びに行ってしまって暗くなっても帰ってこない。近所の子も、彼女がドイツから戻ってくるのが楽しみらしい。なかなか放さない。

12月25日 インドネシアで楽しく暮らす 15−467(さまざまある)

斜めからインドネシアを眺めよう 467

 使ってみなければ比較ができないから、一度試そうと思ってコリアンエアーを使ってみた。値段は1350US$だったが空港から家まで、往復で4000円、JALは成田着で1000US$程度、家まで、往復18000円位、明らかにコリアンの方が高い。時間はどうか、インチオン(仁川)でも待ち時間を含めて家に着くのが13:00過ぎだが、成田からなら、12:00前に家に着く。

 も一つ雰囲気が違う。ガルーダもJALも日本人がほとんどと、コリアンの韓国人が殆どでは、気分が大違い。

 だから、もう、富士山静岡空港は使わない。値段が10万円以下なら使ってもいいが、インドネシアからではそうはならないと思う。価格だけで言うなら、マレーシアエアーラインがダントツに安い。

 富士山静岡空港は、いずれは、立ちいかなくなると思う。計画の段階から、無駄だと思っている人のほうが多かったと思うが、当時の知事が強引に推し進めた。だれが、賛同したというのか、開港までこぎつけてしまった。

 始めて、バゲジを開けせられて、中身のチェックをされた。若い職員の体験のようなものだったのしょう。インドネシアで長期、仕事をしている人がこの空港へ向かえたのは初めてだったのでしょう。中身は、インスタントラーメンと蜂蜜だった。袋を開けて、ラーメンを確認し、蜂蜜のボトルのふたを取って、匂いを確認した。それで終わりだったが、ラーメンの粉にドラッグを混ぜてないのか、蜂蜜にしゃぶしゃぶが混ざっていないのか、確認できたのでしょうか。大丈夫かなと思う。

疲れて帰ってきた日に、いきなり、孫たちが、時差の関係でしょうか、23:00過ぎても寝ない。

 前、二日間で懲りた妻が、二人に私と寝るように言った。彼女たちもその気になって、夜中過ぎに寝たが、彼女らの寝相が見事に悪い。眠りながら動き回る、其のたびにどちらかが痛いとか、重いとか言って、また、大きく動く。私も布団の中で移動しなければならないし、掛け布団も彼女たちから奪わないと私も眠れない。とんでもない一番でした。彼女たちに両親はどこかの古城巡りをしていて、もう一日、私が孫たちと一緒に寝なければならないらしい。

 約、5カ月ぶりに、県立静岡病院で処方してもらって、パニック障害の薬を三ヶ月分買ってきた。インドネシアで処方してもらった、二つの病院の薬を、効きはちょっと良くないようだと、説明しながら、チェックしてもらったが、それらは、万国共通の薬で、妥当だという。ただし、量が半分ぐらいなので、次にもらうときには一日一錠でなく二錠で処方してもらえばいいでしょうと、アドバイスを受けた。

 太田化工へ行って、私が以前、保証人をしていた女性と結婚した社員にインドネシアからの食糧品を渡した。私が結びの神でもある彼らには、子供も生まれ、幸福に暮らしている。自己満足の世界である。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

インドネシアで楽しく暮らす 15−530(パレムバン)

斜めからインドネシアを眺めよう 530

 朝、03:00起き04:00出発、スカルノハッタから07:00離陸、パレンバンには08:00到着、新しい、斬新なデザインのターミナルでまだ、汚れていない。大都市の予感がする。タクシー紹介のシステムも、場所は違うが、ウングラライやスカルノハッタのようにタクシー会社のカウンターで申し込むことになる。空港でホテルを紹介してもらい、そのまま、街の中心にあるホテルへ直行した。30分ほどで、7万5千Rpでした。

そんなことで、今どこにいるかというと、スマトラ島の南東、パレンバンです。先日紹介したバンカ島の西です。戦時中、日本の落下傘部隊が降下した作戦は、当時、大きく戦果を報道されたとか、父親から、聞いたことがありました。早速,博物館(Sultan Mahmud Badaruddin UMuseum)行くと、そこの管理人が、インドネシア人の観光客が入れないように扉を閉めてしまって、管内の明かりも全部点灯し、私を案内してくれた。日本人の兵隊が私の親と一緒に独立戦争を戦ってくれたとかで、“真白き富士の気高さ・・・”と、歌いながら、得意げに案内してくれた。インドネシアでは大変珍しく、管理人の住処のようになっていないで、また、陳列品の手入れも良く、埃がかぶっていることはなかった。次に行った博物館(Bala Putra Desa Museum)は受付がいなくて、大声で読んだら出てきたが、どうも、奥の扉の後ろで、何か食べながら、テレビを見ていたらしい。全く、案内もせず、展示品も、ところどころ、隙間があって名札だけがあって、展示品が無い。

 その管理人が家に良いものをしまってあるので、良かったら見ていって欲しいと言われて、すぐ隣の家までくっついて行った。見せられたのは、日本軍が占領時代の軍票である。大日本帝国政府と書いてある。10Rp札を買わされた、1千円で買った。記念品である。私が今まで見たことが無いものだった。

 

 町中に織物をしていて直売している店が並んでいる通りがあった。Songket(ソンケット)

言って、バティックとは別物、バティックはロウケツ染めでが、ソンケットは様々な色の糸を編みこんで、繊細な模様を出すのです。織っている作業場を見学したが、大変複雑で、何をしているのか分からなかった。

 

 昼間も、其のあたりを通り、近くから遠くから眺めた、インドネシアでは有名なSungai  Musi(ムシ川)にかかるJembatan Ampera(アムペラ橋)のライトアップの風景を見に夜出かけた。月がきれいだった。Palembangの人たちの誇の橋であり、憩いの場所である。

 ホテルはその橋の近く、ベチャで8000Rpの距離、Hotel Awarna Dwipaです。ツインデッドルーム40万Rpです。

 

 しばし、現実から逃避して、エンジョイしようと思う、

Jembatan Ampera(アムペラ橋)のライトアップと月。

藤、ロタン?ラタン?の作品、近い将来、プラスチックのイミテーションを作ろうと思っている。

 

 

 

 

2月27日 インドネシアで楽しく暮らす 15−531(何しに行った?)

斜めからインドネシアを眺めよう 531

 一日、ほとんど車の中、失敗だった。パレンバンから西南西方面の山を目指した。そこには、美しい滝とか渓谷とか、ヒンドゥーの遺跡などがあるはずで、それらに出会うはずだった。それというのも、地図を眺めると、この県の海岸方面の半分は湿地帯ということになっていて、地図上に町は全くないしリゾート地もなし、大体、道がないバンカ島の海岸からは、スマトラが見えたが、スマトラのこのあたりは海岸へ行けないことが分かった。

 さて、ドライバーの話によると、朝、7時に出れば目的地全部に行って、17:00過ぎにはホテルへ戻ってくることができることになっていた。

 ところが実際にはガイドもドラーバーもその方面のことは何も知らなかった。行ったこともないし、聞いたこともないことが、車に乗って2時間ほどして分かった。これは、とんでもないここになると予感した。事実、地図上でその遺跡や名所がある町へ入っても、彼らは、食事をまず、しようと、レスオランを探し始めた。レストランは後にして、其の場所を聞いてくれと頼んで、聞いてもあったら、その地点から、もっと先60kmだとか、もう一ッ箇所は通り過ぎて30kmほど手前だとかで、どうしようもない。12時過ぎて、戻る途中で食事をし、通りすいたという、遺跡へ寄って、パレンバンは帰ることにした。

 その遺跡に行けなかった。というのは、30km手前で左に曲がれば行けるということだったので、実際、遺跡の名前の看板が出ていた。しばらく行って、いくつか交差点があったので方向が間違っていないことを確認してもらった。そこで、また、がっくりした。道は間違っていなかったが、そこから60km先だという。その上、そこら辺から舗装が無いでおぼこ道に変わっていた。ずっと、道の状態はこのままかと聞いたら、もっと狭く、でこぼこになると聞かされた。やーめた。さっきの、左へ曲がった地点に戻って、ホテルへ向かわせた。そこから、何時間かかるか聞いたら、二時間だという。実際には三時間かかった。

 今日の一番のハイライトはなんといっても、広範囲の洪水地帯を見物した事でした。Musi川という大河がこの辺一帯を右往左往しながらとうとうと流れている。そして、その両岸には堤防が無い。川のどこかで大雨が降れば、どこかの水位が上がり、両岸にじわじわと水が溢れだす。一本の国道と一本の線路は1〜2m土を盛って作ってあるので冠水していない。だから、洪水の深さは最大で1m前後ということになる。そして、何年も同じことを繰り返しているのでしょう、家は1mほどの高床式になっている。道の両脇ぎりぎりまで水か来ていて、家から道まで狭い木の橋を掛けてある。勿論遠いところは小舟を使っている。慣れたものだと思うが、何とかしようとしていていないようでもある。

 家の前で、釣りをしている人多数。水遊びをしている子供、うん子やおしっこをしている小さな子供、などなど、悲壮感はない。

 ホテルの道を隔てて反対側のレストランのオープンテラスから、こういう風景を見ると、インドネシアも、変わったなと思う。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。三月一日にPT.NANBUで押出の成形が始まります。佐々木会長を迎えて、押出だけのささやかなスイッチオンを行う予定です。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page123.html/

援助したが閉じる会社。今は解散して実存しないPT.KITAGAWA INDUSTRIES INDONESIA1996年から、今でも、インドネシアで関わっている。解雇になった多くの従業員の再就職について頼りにされている。

二年以上前から閉じようとして、解散はしたが、まだ、売りに出せる状態になっていない。いつになるかも分からない。EPTE解消に手間取っているという原因ははっきりしているが、それを急いでいないように感じる。

2月28日 インドネシアで楽しく暮らす 15−532(豊富な天然資源)

斜めからインドネシアを眺めよう 532

昨日とはうって替わって目的地に行くことができた。それも、アンペラ橋のたもとから、ポンポン船をチャーターして、Puleu Kemarao へいった。Musi川の川幅はこのパレンバンの街を通過する場所では500mはありそうで数千トンともわれるフリーや貨物船が行き交っている。石炭、天然ガス、小麦やコメ、その他、ガソリンや灯油、軽油を積んでいる船も往来している。正に大動脈である。100km以上下流のバンカ海峡にそそいでいて、マラッカ海峡に出てジャカルタなど向かう。ジャカルタ発の大型フェリーがぎりぎりの状態でJembatan Ampera(アムペラ橋)の真ん中を通過していた。私は思わず頭を下げてしまった。

 両岸にはプルタミナのガスステーションやプルタミニが水の上に浮いた状態で作られていた。タンクローリー風の給油船も当然行き来している。その状態は、カリマンタンのバリトー川やマカカム川でもみられた。

 大変活気がある資源搬出基地という感じで、嘗て、日本がこの土地を手に入れたかった理由が分かった。化石燃料資源が殆どない日本は南方に向かい、スマトラやボレネオ(カリマンタン北部)を先ず、手に入れたかったのでした。

 

 30分ほど河口に向かうと目的の中華系のけばけばしい何重かの塔が見えてきた。直径は100mほどでしょうか、川幅の五分の一位でした。昨日の夜まで三日間、この島のお祭りがあって、お賑わいだったそうで、その名残で、ゴミだらけ、それを燃やす煙が行くぐるしくさせてくれた。塔は九重でした。上ることはできず。他にも、日本のお寺や陣所のようにお百度参りのようなものをしている風景も見られた。私も他の場所で、やったことがあるが、めんどくさいし、いちいち、紙を焼くのが嫌で、二度とインドネシアのブッディストの祈り方はしない。今回も、簡単に賽銭を投げて手を合わせただけだった。

 それにしても、ここは裏切り観光地の候補に立候補させたい。

土産物を買って、空港に向かった。otak-otakpempekCANDYという店で買った。Otak-otakは空港へ着く前に10本全部食べてしまった。Pempekの味はotak-otakと同じであるが、バナナの葉っぱに包まれていない。インドネシア人はいずれも、大変からいサンバルを着けておいしいおいしいと言って食べる。私は、辛いだけでおいしくも何ともない、何もつけないでそのまま立出た方がおいしい、ワサビ醤油で食べれば、なおおいしいはずである。私の、メールアドレスはotakatsuootak-otakを掛けてある。

 

 装置の移転は終わり、電気などの接続も終わった。明日は、スイッチオンセレモニーが行われる。

 Jembatan Ampera(アムペラ橋)をくぐる大型フェリーその名もJembatan Musi 1 Jakartaと言います。ご存知かた焼きそばIfu Mieです。リバーサイド レストランで食べた。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

援助する会社、始まる会社PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの仮ウェブサイトです。先ほどPT.NANBUで押出の成形が始まりました。佐々木会長を迎えて、押出だけのささやかなスイッチオンを行いました。

 インドネシアの押出成形業界の中心になります。

インドネシアで楽しく暮らす 15−565(再び旅先から)

斜めからインドネシアを眺めよう 565

ジャカルタタイムと同じ時間です。Palangkaraya(パランカラヤ)という町、KalimantanBanjarmasinの西、200kmに位置する。この町の名前を聞いたことがある人は非常に少ないと思うし、場所を知っている人は日本人では殆どゼロだと思う。インドネシア人にクイズで島の名前を問題にしても、殆ど正解する人はいないともう。それはど、紹介されていない。何故行ってみたくなったかというと、なんとなくと言うしかない。いつも、航空券をお願いしている旅行社へ行って、三連休に行く先を決める。旅行社の人より私の方が、インドネシアの各地のことは良く知っているので、地図を見ながら、ここにしようと決めて、その場で、直行便がある航空会社を探してもらい、時間と値段で一番気に入った飛行機を選ぶことにしている。

こちらのメディアで紹介されている観光地やリゾート地には行ってしまったので、分けのからない、中小都市で一応ジャカルタカから飛行機で行けるところへ行ってみるしかない。行ってから、空港で、その土地の人に聞いて、どんなところがいいか確認し、行く手段や泊る場所を決める。それが、今回は、パランカラヤになっただけのことです。

 ないかは予想がつかないが、必ず、なにかがある。そして、そのことを書くことができる。全く何もないということはない。

 この町は海から250kmほど離れているが、水の町である。Kahayan川が蛇行しているし、その支流が縦横無尽に流れている。その両岸に家が並んでいる。川岸生活者というのでしょうか、家が川に浮いている。その家の前(川に向かった方向)に筏を組んで、その下で、魚を養殖している。どうも、女の子や奥さんが魚にえさを与える係りになっているようで、坐りこんで、筏の中へ餌をばら撒いている風景が多くみられた。男は、どうしているかというと、其の近所で、魚釣りをしている。

 今日のところは、この町は何があって人が大勢住んでいるのか、まだ、分かっていないが、第一印象は、人々が穏健だということでした。まず、空港の雰囲気が客取り争うが全くなく、珍しいと感じた。今までのどこの空港も、タクシーの運転手がしつこく、付きまとってくるし、中には、無理やり、荷物をとり上げようとすることも、珍しくない、彼らが喧嘩を始めてしまう事もあった。しかし、ここはタクシーの申込所の指示に従って順番に客を貰うことになっている。料金は、その申込所に払うだけで、本人は全く、チップを要求しなかった。また、明日の予約をしたが、料金がどこからどこまではいくらと決まっているらしく、決して、意外な高さを要求されない。

 Kahayan川の川上り川下りを、小さなボートを借りて、カハヤン橋を中央に二時間ほど、した。料金は最初30分ほどで、6万Rpと言われた、安い。2時間ほどでは幾らかと聞いたら、10万Rpだという。両岸の写真を十分撮ることができたので、15万Rp渡した。

 

 私が泊ったホテルの名前はAquarius Boutique Hotelで55万Rp、街の中心地で、一番高い、新しい四つ星ホテルです。ここで、夕食、ソプブントゥットゥゴレンを食べた。オックステールスープだが、オックステールを揚げてある。

 カハヤン橋と夕焼け

 

4月3日 インドネシアで楽しく暮らす 15−566(ジャングルクルーズ)

斜めからインドネシアを眺めよう 566

 まだ、雨季は終わっていない、朝からカミナリがなる大雨、いかにも、熱帯雨林湿地帯という雰囲気。ジャングルをうねって流れる川のクルーズを楽しんだ。しかし、国立自然公園に指定されている。地元の大学が管理していて、その許可を取らないとジャングルへは入れないことを船の持ち主から知られた。雨が降る中、大学まで行って許可を取ろうとしたが、そこの責任者がいない、研究者もいない。どうしようもないので、一旦、町中のホテルへ戻った。昼過ぎに雨がやんだので、再び、大学まで行ってみた。今度は、研究員がいて、私が行けば上陸できるから、私についてくるような形にしましょうと、案内を名乗り出てくれた。早速、朝行った船着き場まで行って、朝、許可が必要だと言った、船の持ち主と小さなボートで国立公園まで行った。途中は、湖の様で、そうでもない、川の水かさが増して、一帯が水の下になっているという、水の下にトロッコの線路があって、乾季には其のトロッコを使って、荷物や人をジャングルの入り口まで運ぶという。なるほど、上陸できる場所へ到着すると道ではなく、桟橋でもなく、線路が水からあげってきた処に船を着けるのです。そこから、線路の真ん中に板を敷いてあり、其の板の上を歩いて奥へ入る。800m位歩くと線路も終わっていた。その向こうは水に中に道らしいものがあり、木は払われていた。水の中を進めばもっと奥へ行けるが、そこまでで、引き返した。結局、何もなかった、何にも出会わなかった。

 時期が、間違っていたのです。雨季にはほとんどが水の下、歩く処もない。もっと奥地へ行けば水の上になるが、線路が無くなったあたりから見ても、水から出た道はない。入口のノッティンガム大学の研究所付近にあるこのあたりの地図を見ると、今、船で渡ってきた湖の底に大部分の道があった。遊歩道は乾季の川に沿ってある。それが、今は湖の底ということらしい。3月4月はこんな状態で、8月9月が一番水が少ない、というより、水不足になるのだそうで、その時期に、ジャングルの動物たちが、人里というか水辺にやってくるそうです。鳥も食虫植物もその水辺で見ることができるし、オランウタンや各種蛇、豹にも頻繁に会えるとか、案内してくれた研究員から、今年の9月に待ってますと言われてしまった。

 水が、赤い。真っ赤かである。乾季は水が無くなり、地べたは真っ黒になるそうです。不思議というか、不気味な色です。血の様なコカコーラの様な色です。味が塩辛いそうです。

ここから、海までは250km位ある。しかし、パランカラヤの地面は珊瑚の砂で出来上がっている。インドネシア語でパシールプティである。そして、道を歩けば其の砂が足の裏に着く、家に入る時に、どうしても、其の砂を持ち込んでしまう。

土曜の夜(マラームミングー)は、いつまでも賑やか、中心地の広い歩道にオープンテラスのカフェが突然現れる。大容量のスピーカーでガンガン、ディスコミュージックを流す。うるさくて仕方が無い、其の歩道のオープンテラスは真っ暗、目が慣れてくると、カップルが車道の方に向いて、並んで座って、何かをしている。食事をしているような、飲み物を飲んでいるような、話をしているような、肩を抱き合っているような、もっと、ギュッと抱き合っているような様子が、暗い中に浮かび上がってくる。皆でやれば怖くないという、そういう場所のようでした。イスラムでしょと、言いたい。

其の直ぐそばのキリスト教会(グレジャ)では、昇天祭から復活祭にかけての土曜の夜のお祈りをしているのでしょう。教会の外まで椅子を敷き詰めて、多くの人が集まっていた。これほど極端な情景をここではじめて見た。

パスポートにマルチリエントリーパーミットを貰った。有効が一年になっていた。以前は半年だった。どちらが、延長を忘れる確率が高いのでしょうか。ヴィザと同じで一年というのは助かる。料金は二回分架かっていると思う。ブクビルも届いた。初めての報酬も入ったようです。

4月4日 インドネシアで楽しく暮らす 15−567(カリマンタン)

斜めからインドネシアを眺めよう 567

 昨日の私の夕食は旅先でいつものように食べている、道端テントのpecer rereから戻って家にいる。午前中は、まだ、カリマンタンにいた。空港へ入る前、午前中は、二か所の自然動物公園に連れて行ってもらった。どちらも、今一今二でワニを見たりオランウタンを見たりしたが、環境の保存が全く、継続していなくて、荒れ放題、ゴミの捨て放題、いかにも、インドネシアの田舎の自然公園である。その中にひときわ目立つ環境省の建物があるが、そこに人がいて、自然環境について、ないか、手を打っている様子が感じられない。こんなところにいる動物たちは可哀そうである。オランウタンの保護状態もなっていないと思う。大きな檻に集団で閉じ込められている。自然の中で放し飼いというには程遠い。そこの、係り員の数は、はるかにオランウタンの数より多い。彼らは、手持無沙汰で、なにもしていない。

 ジャカルタ近郊のタマンサファリやラグナンの動物たちの方が、数段恵まれている。カリカンタン(Kaliとは川、Mantanはマウンテンからきている)というくらいだから、水と山の土地である。未開のジャングルに覆われたそこかしこはオランウタン等の動物にとっては、天国である。捕まえて、保護しようとするのは、人間のエゴである。自然保護地区があるのだから、それを拡張し、放したらいいと思う。悪いやつはいるものだから、それら人間からをショッタウトする人間を増やせばいい。インドネシアだから、その、レンジャーみたいな人が、手引きをして、動物を捕まえさせる可能性があるので、二重三重の警戒は必要だと思う。

 とにかく、自然保護の精神というか、必要性をインドネシアの多くの人たちは、感じていないように思う。

 出来れば、乾季また、行ってみたいとおもう。

 ナマズの唐揚げ(ペチェルレレ)とバクソと言って、色々な肉をすりつぶして団子にしたもの。サンバルを着けて食べるのが、一般的。

5月28日  (^_-)-南北の地球に跨る

斜めからインドネシアを眺めよう 621

 今どこにいるかというと、西カリマンタンのポンティアナックにいる。朝、03:00起きでスカルノハッタに向かい、05:00着06:00出発のはずが、07:15発になってしまった。バタビアでした。インドネシアでは、どの会社でも同じこと、一時間や二時間の遅れは常識の範囲内です。いちいち、腹を立てていたら、インドネシアでは暮らせません。

 何の事前調査もしていなかった、だだ、まだ、行ったことがなかったので来てみた。何がどこにあるのか全く知らないで、行きあたりばったり立ったが、一応、空港の観光案内所でパンフレットを貰った。

09:30に到着、すぐに北に向かいシンカワンへ行った。何もないところで、西の海岸を見ただけで、ポンティアナックへ戻った。この地帯も、雨季になれば至る所が水浸しになるのでしょう、どの家も、30Cm以上床を地面から上げていて、所要道路までその高さの板敷きの橋が渡してある。

 Sn.Kapuasカプアスという100m以上の幅がある川が街を縦横無尽に流れている。典型的な扇状地というのでしょうか、いくつもの川に次から次へと出会い、それを渡って移動した。その川の名前が全て、カプアスと言うらしい。何々カプアスという言い方をしている。ホテルも、カプアスの名前が付いているものが多いが、やはり、カプアス何々という名前になっている。ドライバーにカプアスホテルといっただけではどこか分からないようだ。

 思いもよらず、不思議な場所に出会った。またこの町の北に赤道の記念塔というか、北半球と南半球をまたがるようにムニュメントが作られている。北と南にまたがって西に向かい、左足は南、右足が北半球という状態で写真を撮った。こんな経験ははじめてだった。赤道の通過は数え切れないほどしているが、飛行機で通り過ぎていることが殆どで、地上で超えたのは多分初めてだと思うし、もし、今まであったとしても、川を船で通過したか、車で、街の中ではなく、森や林や田舎の道を通過している時で、気がつくことは無いし、それを、意識したこともなかった。今回は大都市の郊外ということで、立派な記念碑があり、名所にもなっている。欧米人も何人か来ていた。地元のデートスポットになっているようだ。

 ジャワでは今でも毎日、スコールがある。異常気象で雨季が終わっていない感じがするが、ここは、完全に乾季になっているようで、入道雲が低い位置を覆っていて、流石に赤道直下、頭の真上からじりじりと太陽光が暑い。パラボラアンテナが完全に真上を向いている。

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 仕事のことが頭から抜けない、心からエンジョイ出来ない。それを、見ていたら、閃いた。月曜日に早速やってみることが二つ浮んだ。

 Singkawangへ行く途中の海岸で。

 暑い  赤道  川の町

 

   5月29日  (^_-)-ここはどこ?私は?

斜めからインドネシアを眺めよう 622

ポンティアナック市内にとどまる。旅の疲れと睡眠不足で、体が自分の間のではないように、筋肉がぴくぴく勝手に動くし、脳の中のここかしこで、クラックラとなにかが動いている、眠りにつくのか、意識を失うのか自分では判断できない変な状態になって,はっとして正気になるのか、目が覚めてしまうのか、これも分からずに自分に戻る。こんな状態を一日中繰り返しながら、何ヵ所か、めぼしいところを訪問した。夢の中で一日が過ぎたような気がするが、今は、正気に戻って書いている。

 東へ向かって内陸に入るとイスラムの影は薄くなってクリスチャンの雰囲気になってくる。ルマーパンジャンといって長屋の伝統的な家屋が多くなってくる。完全にダヤック族の集団家屋で、私が訪問した家屋はそこの長のような人が出迎えて、説明してくれたが、200年前から6世代が住み続けているという、この長屋には250人住んでいて、結婚もこの中同志で結ばれると言う。全員が親戚関係になっているという。近親結婚で弊害は無いのでしょうか。その長屋の道を挟んで向かい側に一戸建てや二三軒がくっついた家があるが、これらの家の人たちも親戚関係らしい。本当に、山の中の部落というより、孤立した集団の長屋で、住む家が足りなくなれば継ぎ足していったという。緩やかな坂道に沿って立っているので、どこから立て始めたのか知らないが、高床式の床の高さが殆どないところから、3mくらいまでの高さまである。弥生時代の遺跡の高床式倉庫の丸木をくり抜いて作った梯子と同じ梯子で家の前の廊下のような処へ上るとそこは下が見える隙間が空いている板敷きの道のようになっていてどこの梯子を上ってもその家の前の廊下を通ってどの家にも行ける。長屋の入口がいくつもあって、どこでも入ると、また、3mくらいの廊下がある、其の廊下に各家の人が出てきていて、あちらこちらで話をしている。そこから、各家々の扉が等間隔であるのが見える。

 その端の部屋が図書館と民芸品の展示場所になっていてそこに案内された。子供たちがぞろぞろ付いてくる。こういう現象は、昔のままの家を訪問するとどこでも同じである。誰もが人懐こい。

同じダヤックでもマハカム川沿いの、観光省の援助を受けて近年作り返したロングハウスに比べると本当に何の観光援助もなく自分たちだけで作ったようで、 本当に200年過ぎているとはこんな貧弱な建物で、とても思えない、せいぜい5〜60年だと思う、また、釘が使われていた。外の廊下は、朽ちかけていて、怖くて歩けなかった。これらの多くは数年も使い続けられないと思うが、最近修復したような新しい材料を使っている場所も見当たらなかったのが不思議である。

こういう場所を訪問すると、自分の生活や仕事や人との係わりあいは何の意味があるのかと考えさせられる。生き方を考えさせられる。10年くらい前からの訪問者の記帳を見せてもらったが、日本人は一人も来ていない。ここの責任者も日本人に初めて会ったと言っていた。観光ツアーなどあるはずがない場所です。

 Sehaという峠の茶屋の風景。

ロングハウスの外の廊下と家の中の廊下

近親  閉鎖  森の中

 

5月30日  (^_-)-空の上の上の空

斜めからインドネシアを眺めよう 623

KUCHING KOTAKINABALU  BRUNEIからのバスが来ていた。マレーシア領まで近いところは300Kmくらいです。一番近いマレーシアの町はクチンと言います。多くの欧米人観光客はコタキナバルとクチンをセットで訪れるそうです。私は時間が無くて国境を超えることはしなかった。

 最終日、ポンティアナックの町を縦横に流れているカプアス川から街の様子を観光しようと思っていたが、生憎の大雨、屋根付きの大型ボートを見つけることができずに断念した。フェリーボートの発着場所はそこかしこにあるし、大型の貨物船が横付けされる港も沢山ある。観光船の港は少ない、そこへ行くアクセス道がまた目立たない狭い。地元の人が遊覧船や納涼船を楽しむという習慣は内容で、場所も船も少ないから外部からの観光客もその機会を探すことが難しいようです。在りそうな岸辺に行ってそこら辺の人に聞いても、あるかないか、あってもどこなのか知らない人がほとんどである。

市内観光をすることにしたが、それも、美術館や博物館もなく、車を使って巡るところもないときき、することが無くなってしまった。ショッピンギセンターでも行ってみるかと思ったが、時間が早く、開店していない。

そこで、その辺りにある土産物の店を見て回ることにした。アロエ関係の飲み物やお菓子、薬、が氾濫していた。アロエの形が似ているのでしょう。リダー、ビヤワッといって、トカゲの舌、という意味です。その他はインドドネシアならどこにでもあるクルプック(上げ煎餅)、乾燥魚、乾燥果物などが並んでいる。煎じ薬の元になる植物や木を乾燥したものも売っている。蜂蜜もどこでも売っている。

私が求める土産物というか記念品はTシャツです。その土地の名前が入っていて、その町の有名な建造物の写真がプリントされている物を必ず手に入れることにしている。今回は、赤道を表すモニュメントとポンティアナックが印刷されている物を買った。三万から五万Rpが相場です。サイズや生地の厚さで値段が変わるようです。Tシャツは何枚たまったでしょうか、数えたことが無いので沢山だということだけです。

 

今回の旅は、気分転換と新しいひらめきを求めようとしていて、旅そのものは殆ど上の空だった。こんな旅は初めてであった。

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それでも、ゴムの木から採取したゴムを板状にして天日干しにし、ある程度水分を抜いてからゴム工場に出荷するということを、道端に広げて、天日干しをしていた人から聞いた。得も言われぬ臭さで二度とかぎたくない臭さだった。

イカンサルジュといってまっ白い肉の淡水魚、価格はこれで1500円くらいする。かなり高い。15Cmくらいの厚さで胴体を輪切りにしてホットプレートのような状態で出てきた。タイを柔らかく似たような感じで皮の内側にこってりと脂が乗っていて、大変おいしかった。綺麗に平らげた。このポンティアナックのカプアス川にしかいないという魚。

20:00に家に戻っている。

熱帯大魚  土産物  Tシャツ

6月1日  (^_-)-後世に伝わる

斜めからインドネシアを眺めよう 625

衝撃的でショックでした。インドネシア中あちこちへ行っていますが、こんな場所に遭遇したのは初めてでした。

インドネシア人から見た日本や日本人は目標にする最大の手本です。インドネシア人の日本人に対する印象は大変良好です。どの外国より良いと思います。ただし、例外はあります。分けのわからないことを言って困らせたり、直ぐに何でも怒鳴りつけたりする日本人も多いことは確かである。しかし、日本人の全体の印象はやはり良である。それを裏切らないようにしなければならないと思う。

第二次世界大戦のときに約二年間インドネシアを占領した。200年余り続いたオランダの植民地では無くなったのです。そのことをインドネシア人の多くは日本が植民地から解放したという気持ちを持っているし、日本の敗戦によってまたオランダに取り返されようとした時に日本軍の一部が、インドネシアの独立戦争を影で支えたということもあって、なお印象をよくしているようです。もう殆ど、その頃、インドネシア人と共に戦った日本人は亡くなってしまっていますが、たまに、そういう人を紹介されるときがある。ですから、生き残っている人がいるのです。

Mantorというところだったのでした。そこには日本軍のとった行為とやがてはカリマンタンの人たちが日本軍を撃退したという話をモニュメントにして後世に伝えようとしているのです。日本軍人の目つきがいかにも憎たらしくしてある。最後にぺこぺこ許しを請うている姿も情けなく描かれている。事実かどうかは別にしても、そういう印象がそこには残されているのです。日本人として恥ずかしくなるような光景が標されていて直視できない。ここの人たちはこれをずっと見続けると思うと残念で仕方が無い。

もし軍隊なら、その残虐の方になる可能性が高い日本人が企業戦士としてこちらに来ていることも事実です。こんな人が多分占領当時に来ていたら、かなりの残虐行為をしただろうな、また、部下たちにそれを命令しただろうなと思う人が大勢いる。インドネシア人のこと、インドネシア人従業員を馬鹿扱い、バカ呼ばわりをしている日本人も多い。そのモニュメントの軍人の目つきと同じような目つきをする日本人に多く出会っている。私から見れば、自分の方があほだと思うのに。

先日ブンガワンソロの作詞作曲社のグサンさんが亡くなって、日本大使が弔問に訪れたくらいの当時の親しさであったのと比べると落差が大きすぎる。

モニュメントの一部、今作ろうとしている製品、まだOKになっていない。

残忍  印象  永久


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