夜中の10時まで仕事

パニック障害者が仕事をしているのを自慢するわけではないが、発病する前と体の不都合状態が全く違うので、普通の状態ではないのでつらいことは確か。薬を飲み続けているので、だと思うが、(止めてないので確認できない)パニックにはならない。しかし、頭のどことは決った場所ではないが、ぴくっと来て、0.1秒ぐらいの一瞬、めまいをしそうになる、めまいはしない。クラックラッと繰り返す。ひどい時には5秒に一回くらいを10回以上である。そういう時は、じっとしているしかない。最初は気になったが今は気にしない。しかし、何かが止まる。また、薬の副作用なのか、パニック障害の症状の一つなのか分からないが、体や頭が重い、そして常に眠たい。油断すると大あくびをしてしまう。

その状態で、車も運転して遠出もするし、機械の側で、プロファイルのトライもする。フラフラしながら炎天下のゴルフもする。

なぜ、そうするか、動いていないと太ってしまうし、そうしなくても、状態は替わらないと思うから。家でごろごろしていれば、回復するという医者の助言があればそうするかもしれないが、医者も、適度に体は使うように、適度に運動をするように、ということなので、そうしている。しかし、疲れる。(+_+)

20〜40歳代の自分の体がうらやましい。

 

 命を削る? 1

本音と弱音と強がり。大げさだがそんな感じもしないでもない。毎日、疲れる。家に帰るとぐったりである。朝、目が覚めて、顔を洗ってもぐったりである。

今まで、こんなことはなかったが、今はしかたがない。慣れるしかない。だからと言って、ぶらぶら、ぐったりとばかりはしていたらまずい。煙草を吸わないし、大量には食べないが、それでもお腹が出てきてしまい、なお動けなくなると思い、普通に仕事をし、運動もする、コンピューターもいじる。

薬をいつまで飲み続ければいいのでしょうか。死ぬまで、飲み続けるのでしょうか。ずっと、疲れた状態でいなければならないのでしょうか。ずっと溜息をついたり、あくびをしたりしなければいけないのでしょうか。いやになってしまう。

くるっと、何かが頭の中を回る、其のたびに目まいがしたような気がする。それが、思い出したように頻繁になると、冷汗が出る。

眠る時間が一番ほっとする。眠ってしまえばなにも考えたい。そして、永久に目が覚めないという心配は全くないので、ただ、何も知らないうちに眠ってしまう。朝起きると、疲れが取れていれば良いが、と、思うが、それはいつも期待はずれである。

 

命を削る 2

炎天かでゴルフをしているとき、こうして何かを書いているとき、現場で仕事をしているとき、人と打ち合わせをしているとき、ふっと、意識が不明になってしまうかもしれないと思っている自分がいる。それは、その状態をパニック障害の症状で何度も経験しているからです。もう、恐怖は全くないから、パニックになることはないが、いつでも、そう思っている。でも、気が遠くはならないことも分かっている。

疲れる、以前に比べれば、はるかに疲れる。何をしていても疲れる。しかし、何かをすることはやめない。

人は、誰もが命を削って生きている。残りの人生は着実に短くなっている。寿命が延びたとか縮んだとかいうが、もともといつまで生きるのか決まっているわけではないから、どのくらい伸びたか、縮んだかは確認できない。もし決まっていても、本人が死んでからでないと決まらないので、本人は確認できない。だから、命が縮む、伸びる云々は意味がない。それでも、人はよく使う。

運がいい悪いも同じことで、死とは、話は別だが、運が良かったから、それだけで済んだかもしれないし、運が悪かったから、そうなったかもしれない。だから、運がいい悪いを云々も本当は意味がない。それでも、人はよく使う。

 

命を削る 3

前提は、この世にいて、できるだけ長い間、自分の生き方を客観的に観察していたいことです。日本には、インドネシアに比べると早くこの世から逃げたくなる人の比率が多いらしい。最近感じていることだが、私が生まれた時いくつまで生きるということになっていたのかはもちろん知らないが、確実に寿命はその決まっていた年より縮まっていると思う。どうすれば決まっている期間を減らさないですむか、方法を知らないからである。

現在、もう、快適に生きているという体の状態ではなくなっている。加齢が原因なのかパニック障害が原因なのかはっきりしない。薬の副作用かもわからない。これからも、こんな状態がいつまで続くか分からないし、だんだん、悪くなるかもしれない。いや、だんだん、悪くなっていくに決まっている。よくなるはずがない。問題は悪くなっていく速度である。何才まで自分自身で動くことができるか、また、アルツハイマーを何才くらいから自覚するのか、自覚しないで、急にある日から、自分が誰だか分らなくなるのかもしれないし、こういうことを考えると止めどがない。

命を削る 4

タイミングが良すぎるのか悪いのか、一昨日の夕方から、おなかの調子が悪くなり一晩中下痢と腹痛と吐き気と目まいに苦しめられた。下痢が連続で病院へ行くこともできず、昨日の05:00やっと下痢が一時止まって楽になったので、ジャバベカのハラパンインターナショナル病院へ駆け込んだ。入院している。点滴や薬でもなかなか楽にならない。そのうち熱も38℃近くまで上がって頭も体もボーっとしてきた。どうなる事かと苦しんだが、夕方になってやっと下痢は治まってきて腹痛も治ってきた。熱は下がらないまま、昨日は何となく眠った。

パニック障害の関係もあるのでしょうか、頻繁に脳のなかでなにかがくるくる回っていた。夜中に2回下痢で起こされたが前の日よりかなりほっとした状態だった。今朝になって熱も下がっていた。食事もだされたもの半分は食べることができた。確実に快方に向かって安心し、この文章を書いている。

原因ははっきりしない、いつもと同じ食事だった。余計なもの、味が変だったものは食べていない。

明後日土曜日からロンボックへ行く予定にしているので、明日、金曜日には退院しなければならない。

こんなことは何年間もインドネシアにいて初めてのことでした。

命を削る 5

タイミングがいいのでしょう、明日から、ロンボックのリンジャニ山(富士山より50低い)に登るために出発できる。運がよかったのでしょう、具合が悪くなったのが、水曜日以後だったら、キャンセルしなければならなかったでしょう。

しかし、多少、目まいは残っているし、万全の体調とは言えないので、無理をしないで、山の五合目くらいのスナルかスンバルン辺りまで登るか、多くの観光客が訪れるスンギギかギリの海岸でのんびりして体調を回復させるかマタラム(ロンボックの首都)についてから考えようと思う。

そこで、携帯電話の電波が届かなくなれば、何日か投稿を休むかもしれない。

命を削る 6

 昨日、退院し、当初計画したリンジャニ山の登山はキャンセルし、海岸を主体にのんびりすることにして、ここを選んだ。

今、ロンボックのギリ トゥラワンガンに来ている。命を削る速度を落とそうと思っている。天国に一番近い島はバリなのかどこなのか知らないが、この島も案外天国に近いのかもしれない。

 マタランからタクシーでギリ三島の対岸につき、小舟で、一番遠くて大きな島に着いた。ギリ アイルは以前来たことがあったが、この島は初めてである。海岸に船で突っ込んで上陸すると、カフェ通りというかレストラン通りが左右に続いている。欧米人がすべてだ。日本人や東洋人も来るが、まれだと言っていた。

 海岸は澄んでいて大変美しい、サンゴの白砂から次第に真っ青になっていくグラデーションが素晴らしいと思った。

 間もなくバリタイムと同じ17:00になる、今から島を半周して西海岸で、サンセットを拝んでこようと思う。

 命を削る 7

ここ、Gili Trawangangの朝はすがすがしい。波の音と鳥のさえずり、遠く聞こえるボートのエンジン音。乾期で空はあくまでも青い。

昨日の15:00頃から停電になり、結局回復したのが00:00だった。計画停電のようだった。

その間、自家発電で明かりを確保し、レストランやカフェが営業している。昨夜02:00頃まで、けたたましいディスコミュージックが鳴り響き、眠れなかった。

今朝は、その喧騒がうそのように全く静かな世界である。昨晩、騒いでいた連中は睡眠中だろう。

 5時半前に起きて東海岸を散歩してきた。すぐ目の前にGili Manuそして、Lombokの象徴、Gunung Rinjaniがそびえている。その右側からサンライズである。日の出の瞬間、神々しく空を赤く染めた。

 ここにいる、自分は何者かと思う。

昼過ぎにSengigiへ直接、ボートで行く予定だ。

命を削る 8 

昨日、夕方、休養先のロンボクから自宅に戻った。十分に体力を回復し、今朝は、完全に発病以前の体調に戻っている。

Lombokについては私のホームページに写真とともに詳しき記載します。

南の島の青い海と青い空と、静かな波音と、おいしい海産物料理と、降るような夜空の星と南十字星。癒されないはずがありません。退院時2kg痩せていたが、三日で元に戻ってしまった。

出勤し仕事に戻っているが、皆さんから、もう大丈夫かと、声をかけられ、心配していてくれた様子がわかった感謝である。もう大丈夫。

多分、今回も命を削ったでしょう。しかし、何日分かは、わからないし、当たり前だが、わかることはこれからもない。

命を削る 9

子供のころ住んでいた家の便所の大便をするときに座るまん前の木の壁に鉛筆で、“この世に中”と書いてあった。物心付く前から書いてあったと思う。おふくろや親父にそのことについてだれが書いたか何度も聞いた。どちらかに違いないし、それぞれが知っていたはずである。両親とも達筆だったから、文字では判別できない。そのトイレを使った約40年間消えかかれば誰かがなぞって修復していたので、消えることはなかった。まだ、その木造の屋外便所は残っているので、今住んでいる人たちが使っているはずだ。私が使わなくなって20年過ぎた。まだ、残っていると思う。

この世の中は何なのか、意味深長でわからない。何十年も便座に座るたびに思った。おもわされた。書いた本人はどんな狙いだったのか、とにかく、眺め、続けさせられた。高校まではほとんど毎日、大学へ入ってからは家に帰る度にであった。

体力的には不満だが、まだ、その、この世の中にいる。

命を削る 10

 

目の能力も落ちてきた。製品の厚さを0.1mmの違いが何十年も見ただけでわかったし、20mm以内の寸法なら、0.1mm単位で言い当てることができた。しかし、今はできない、ぼやけて見えないからである。焦点が合っていて見えればわかるが、合わなくなっている。眼鏡をしても、焦点が合わない、自分の目が自動的に焦点を合わせることができなくなっているのだ。顔の距離を調整して焦点を合わすしかない。

仕事をしていて、歯がゆい。以前なら一瞥してOKかNGか分かったものが、判断に時間がかかる。重要でないと思うといい加減になってしまう。

不思議に遠くはみるようになった。テレビを見るときは眼鏡が必要ない。車の運転も必要ないが、免許証の写真は眼鏡をしているので、日本で運転する時は眼鏡をする。200m以上飛んでいるほかに人のゴルフボールもはっきり見える。

それと、目が乾くようになった。涙の分泌量が少なくなっているのだと思う。60歳位を境に、目が乾いて痛むようになった。車の冷房の風向きが気になるようになった。目薬をいつも持っていて、機会があるごとに、使っている。その時はすっきりするが、また、しばらくすると、まばたきを自分で意識してやるようになる。コンピューターをいじっている時と運転しているとき、現場で、溶融樹脂を冷却金型の通すとき、特に感じる。

 

命を削る 11 

唾液の分泌が少なくなってきた。喉が渇く、口の中がいつもネバネバする。話をしたり、歌ったりするとたちまち口の中が乾いてしまう。会議中や人と話しているときには必ず水を用意しておく。飲みながら話さないと、舌が絡まったり、口の両端から粘度が高くなった液体がはみ出てきて、話しにくくなる。

これも、加齢が原因だと思うのだが、手や足や腹筋がつる頻度が多くなった。運動をした後や運転を長時間した時は当然だが、何もしていないときでも、足の裏や太ももがつってしまう。年のことを考えろよという、警告だと、他人は言うが、納得がいかない。

それにしても、パニック障害と診断した医者、曰く、何十年もひた走りに走ってきた、それも、他人より多くのことをやってきた。いったん休憩しなさいとの警告と考えて、一年や二年ゆっくり、休養しなさいということですよ。と。

体全体が、若い時と比べ物にならないほど不自由になっていり事をつうかんしながらも、一年半弱の休養で、また、若干ハードな仕事の世界に戻ってしまった。

 

命を削る 12       

削る命がある限り、削り続けなければならない。当たり前の話である。まだまだ、当分はこの地で仕事をしなければならないと思っている。責任がある限り、目標がある限り、それらを一つ一つこなしていく必要がある。

元気ではないが、他人から見ればまだまだ元気に見えるでしょう。見栄をはって、できるだけ意識して猫背を伸ばして歩きたいと思う。

それにしても、若者から見れば、私は年老いた人間に見えるに決まっている。会社の従業員も私が直接、金型をセットしようとすると、私がやるという。私は、彼らのセットでは心配だから、肝心なところと思った場合には自分でやってしまいたい。しかし、そういう場合は、私が引っ込まなければならない。口は出させてくれるが、手を出させてくれない。

最近、この会社に来てそういう場面が多くなった。やはり、外見も年相応になっているのかなと思う。KITAGAWAの人間が移ってくれば、なお、手出しができなくなるだろう。口も出させてくれなくなるかもしれない。8月末の予定らしい。

それが、世の流れだろうと納得しようと思っているが、(_)!!

 昨日、NHKで山梨大学の渡辺政廣君が燃料電池の話をしていた。ファイトが湧いた。

命を削る 13(終回)

“その時は彼によろしく“という長澤まさみの映画をインドネシア語の字幕付きで鑑賞した。お手伝いさんのマリアさんが泣いてしまった。

来週、土曜日には孫たちに会いにドイツへ行く。ファミリーでスイスの山歩きを楽しんでこようと思う。インドネシアの国内旅行だけでは、物足りない。

孫を連れて、時にはおんぶし、時にはだっこし、ユングフラウ辺りを歩き回る予定だ。今回で三回目になるが、天気に恵まれることを期待する。

ここで、命が削れる速度が、ゆっくりになるかもしれない。何もかも現実から離れ、人間関係や仕事のことを忘れ、ゆったりと自然の中に溶け込みたいと思っている。

ジャカルタからフランクフルト経由でミュンヘン、17時間のフライトである。しかし、往来可能な、天国への旅だと思うので、何でもないことだと思う。

インドネシアで楽しく暮らす 15−57

斜めからインドネシアを眺めよう 57

 どこかに書いたが、日本人の多くは、インドネシア人のだめなところを強調する。確かに、教育レベルは低いと思う。算数などのレベルは特にひどいと思う。

しかし、程度が高い人も多い。若者の人口は多いので、上位10%くらいの人数だけでも膨大な人数である。テストをしてインタビューをして選べば、程度の高い人に当たる。

優秀な人を育てることにすればその会社は日本人がイライラしなくてすむ。それをうまくやっているかやっていないかで、日本人も評価される。

これも、どこかに書いたが、“弘法は筆を選ばず”でなくて、“弘法は、筆を選ぶのが上手だった”のです。字体や大きさによって筆を選んだのです。

インドネシア人も筆と同じ、使いやすく、その仕事に合った能力を持った人を選びだすことが上手な人は楽をして、上手に経営することができる。

これも、その人が持っている才能次第です。仕事を本人ができることが大前提ですが。

人を選ぶ才能と、その仕事が出来る才能は比例します。これは逆もまた真ありです。インドネシア語に関しては、仕事ができ人は覚えが早い。このことは、逆も真とは限りません。

30日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−84

斜めからインドネシアを眺めよう 84

眠い。先ほどジャカルタから戻った。日本からのお客様、Sさんとインターコンチネンタルで食事を一緒にさせていただいた。重要な会談であった。今は明らかにできないが、来年早々には、内容がはっきりするでしょう。ちょっと、大きな話です。

この間に、私の身の回りの状況がはっきりしてきている。今後何をすべきか、何をしてはならないかがはっきりしてきた。時期を待つ。

1日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−85

斜めからインドネシアを眺めよう 85

装置はまだ来ない。今度は、いつ来るという見通しもつかなくなったらしい。こうなると“狼と少年”の少年も尻尾を巻いて逃げだしそう。

装置がないのに、K社時代の教え子たちだけがやってきた。会社の方針で、私の役割を彼らに紹介することはなかった。彼らがどんな部署に配置されるかも紹介はなかった。要は、私はこの会社に表面立っては存在しないことになっているのです。

多分、今日という日は、さまざまな点で分岐になるでしょう。A社は大きな問題を自ら招いて、難しい局面が次々に現れるでしょう。本社の方もこの不景気を乗りきること、絶えることを強いられるでしょう。できないかもしれない。

移ってきた従業員は、各種の仕事について、復帰を待ったら良いと思う。船頭次第ですが、乗り切れば大発展をするでしょう。

K社は今日、ある人の訪問を受けて、何かが具体的に始まり、何かの終わりが始めるでしょう。前回の仲介が失敗したが、今回は交渉する人が高度な知識と良識を持っておられる方なので、客先にとってもインドネシア人従業員にとっても満足が出来る結果になる可能性が高い。期待します。

私といえば、行動はまださきです。二社の成り行きをしばらく眺めて、態度を決めようと思っていることにしておきましょう。こういうことを眺める機会が目の前にあることは恵まれていると思う。

実際には、決まっています。65才、まだまだ、これからやらなければならないことが山ほどあります。目標ははっきりしています。

28日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−109

斜めからインドネシアを眺めよう 109

間もなく行動に出る会社の設立は、インドネシア製の設備で揃えようと考えている。インドネシア人によるインドネシア人のための押出成型工場の設備である。元気なうちに、96年来の目的をかなえることが目的である。邪魔な日本人はもういらない。日本人で技術を分かっている人はインドネシアには私以外いない。わかっていない日本人が、分かっているインドネシア人を評価したり、命令したりする会社はもういらない。彼らに任せることができる日本人もいない。

エコ設備のため、何台かの設備を送ってもらうよう、ある人たちにお願いした。中古設備だが、どこかの会社の設備よりはるかに最近のものである。磨けば新品に見えるし、各種コントロールもデジタルでできる。日本から中古を安い価格で輸入するにはベアチュカイ(税務署、税関)のハードルを越えなければならない。そこは、その関係の友人がいるので、簡単に超えることはできる。

今、PT.Kから、PT.Aへの設備移転がストップしているのはベアチュカイのOKをいつまでも得られないからです。なぜ、得られないか?私は分かっている。それは、友人からの情報である。税関への最初の申告の仕方が間違っていたことをきっかけに、PT.Kからの内部告発によって、今まで何年か分の申告状況を調査されだしたのです。よくある話です。これで、多くの日系企業は、アンダーテーブルをふんだくられているのです。しかし、KPKとう、汚職取締組織が目を光らせているので、袖の下で済ましてしまうことが簡単にできなくなっている。そこで、形式通りに査定しなければならないので、時間がかかるのです。いつまでかかるという返事はもらえないほど、長くかかるのです。

インドネシア人が経営する小企業なら、審査などしても取れるお金はないので、審査をされることはない。

私の老後の生活費まで使いこんでしまわないように、資金節約で設備をしなければならない。それでも、一番肝心な部分は私デザインの新品を調達する、インドネシアで作る。日本での新品の三分の一の価格で手に入れられる。

年末年始のテレビ番組に飽きたら、趣を変えて、

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/から、インドネシアの旅と生活を満喫してください。

8日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−119

斜めからインドネシアを眺めよう 119

派遣村 非正規労働者 現在日本で話題になっていますね。長期化すれば、早すぎますが年末の流行語大賞の候補になるかもしれません。

インドネシアには仕事からあぶれた人達の面倒をみようなどという考えは全くありません。寒さをしのぐという言葉はありません。住む場所はどうにでもなります。雨が降ったとき濡れなければいいだけです。竹とヤシの葉があれば済む場所はどこにでも作ることができます。土地の所有者がわからない森や野原はいくらでもあります。住んでしまえば、網それで、居住権が確保されたようなもの、それを、集団でやれば、もう、絶対安心です。

トイレや下水などはいりません。そこらあたりの小川に目隠し囲いを作れば、そこは公衆トイレです。そんな風景はいくらでもありますし、子店を出そうと思えば、空いている道端にやはり、竹とヤシに葉で店を作ります。そこはまた、寝泊まりができるようになっています。というより、屋根があるのですから、商品の後ろで立って店番をしていた場所に、夜になったら、横になるだけです。

行政はジャカルタの中心街でない限りは見ないふりをします。保護や援助をしたくないからです。切りがないからです。民衆も行政に助けを求めません。ボランティアもいません。ボランティアの意味を知っている人は1%もいないでしょう。

3月3日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−170

斜めからインドネシアを眺めよう 170

PT.A社に契約社員として雇われたPT.K社からのオペレーター6人が昨日(2日)から、出勤していない(自主的にやめてしまった)という知らせが入った。根耳に水の出来事でびっくりである。早いうちに、PT,Aの仕事がなくなってくるので、それに伴ってPT.MAKUTAの仕事が増える。その程度にそって、順次、引き取るつもりでいた。そのことは彼らに明言していなかった。しかし、私がPT.Aを辞めて、日本へ帰っている間に、彼らと会社とで何があったのでしょうか。穏健な彼らが仕事を投げ出してしまうとは、何か相当に彼らを憤慨せせることがあったに違いない。

彼らが、これからどうするのか、PT.MAKUTAはまだ準備ができていないので、押しかけられてもいる場所はないし、仕事もない。二週間ほど、休憩してもらって、3月中旬に彼らを引き取ろうと思うが、それにしても、彼らの決心が早すぎた。私も困惑している。PT.A社の製造に大きな影響を与える。できない製品がでてくるし、できてもロスが多くなるはずである。N社長は何を考えているのでしょうか。体も声も驚くほど大きいが、気は驚くほど小さい彼は、既に、相当、頭の中がパニックになっているはずである。自業自得のようなものでしょう。

この出来事を踏まえて、なお、私の方は準備を急がなければならない、また、ディッキ君にしわ寄せがかなり行くと思う。PT.Aに移った日勤者の5人の内1人だけ、二月一杯で辞めているので、残っているのは日勤者4人だけとなる。彼らはどちらかというと製造に向かない人達なので、辞めたオペレーターの代役はできない。

 

3月4日 インドネシアで 楽しく暮らす 15−171

斜めからインドネシアを眺めよう 171

問題は単純である。知らない人が知っている人を、できない人ができる人を評価したり、使ったりすることである。おだてて任せれば、何もかもうまくいくのに、任せることができない、そして、自分の思うようにやらない人の評価を下げる。A社もK社も失敗の原因はそこにある。そのうえなお、まずいことに、どちらも評価する人間が切れやすい、ということで、共通でした。日系企業としては失敗する会社の見本の二社です。

会社や従業員や客先のことより自分の立場を優先しようとする、心が貧しい人が経営をする会社は上司より仕事ができる人はその会社にいられないように処遇される。悲しいサラリーマンの世界である。

それに、彼らが纏まって辞めると決めた時には、勿論、引き金があるわけだが、その前に、何かといろいろあって、ついに耐えきれなくなったとうことを、経営者は知らなければならないが、それらのことは意識にないのが普通で、引き金になったことを聞いて、そのことで、謝ったとしても、意味がないことも意識していないので、謝って解決しようとする。もう、こういう人に効く薬はない。

今回のことで、もし、彼らが止めることを撤回しても、多分、3月一杯と持たないでしょう。それほど、社長も社長に慣らされた上位の生え抜きの正社員も、技術が無いのに威張る人間が多いのです。10何年も怒鳴られ続けていれば、その人たちも怒鳴る人間になってしまう。怖いことです。

今朝の知らせでは、本人たちからではないが、5人は辞表を出したそうです。二人、首になっているので、7人になる。三交代6人のほかに日勤者も一人辞めたのか?そして、PT.MAKUTAからの誘いを待つことにするらしい。彼らが私にブログを読めるわけではないし、K社のHもA社のNも私がそそのかしたと思うのは大間違いである。自分達がNGであることに気が付かなければならない。

話は飛ぶが、昔の日本軍はこういうものだったと想像する。

 3月25日  インドネシアで 楽しく暮らす 15−192

 斜めからインドネシアを眺めよう 192

 技術をもっていない人でも、いい加減なことを云って、お客さんを納得させてしまうことができてしまうことです。私からすると、間違ったことを納得してしまっている人を、それは違うと、言って、納得させることが非常に難しい。

 たとえば、安い価格を提出すると、何故安くできるのか疑問が生まれる。高く売りたい人は、指定された原料が高いとか、スピードがこれくらいでしかできないとか、原料を使いやすくするのに手間がかかるとか、言って、納得させようとする。知らないお客さんはそれで納得せざるを得ない。

 それより、安い価格を出すには原料を指定されたものでなく、いい加減な原料を使うしかないといって、安い値段を出す、私を牽制する。お客さんも不審に思う。

 私が原料は安く入手できる、スピードを上げることができる、原料はそのまま使えるものを要求し入手するから、安くできると、説明しても、なかなか、納得してもらえない。

 とにかく、私がやることは、一般の人から見るとマジックのようなものですし、いろいろなものを簡単に作ってしまう能力はほとんど一種の超能力に近いと思っている。ですから、一般の人はなかなか私の言うことを理解できないのです。できるはずがない、だから、私が与えた技術を使い、私の掌の上で、私の出した価格には、ごまかしがあると中傷するひとがいる。気の毒に思うがやむ負えない、分かってもらえないのですから。

 もうひとつ、分かってもらえないことがあります。それは、奉仕の精神です。利益を上げることは重要ではないと考えていることです。私の技術を役立ててもらえばいいと思うことと、仕事があればその技術をインドネシア人に伝えることだできる機会が与えられるということです。これこそ、一般サラリーマン的経営者にはまったく別の世界です。

月17日  インドネシアで 楽しく暮らす 15−214

斜めからインドネシアを眺めよう 214

 あなたはこういうときどこを選びますか。三人で横に並んで歩いているとき、中央ですか、それとも、どちらかの脇ですか。私が気にしたのは高校生になってからでした。

 インドネシアでも勿論ですが、私は、大勢で行動することが好きではない。ましてや、人に、着いていって行動することは全く不可能です。連れの人に気を使わないで、自分で好きなように行動をしたい。

 子供のころから、列の先頭で、後ろの人の行動に気を使いながら歩くことが多かったし、集合時間にはいつも私が先にそこへ行って皆さんを待っていなければならなかった。高校でも、大学でもそういう役目を自然に押し付けられていた。他にやってくれる人がいないから、断れない私がそういう役目になってしまう。

 だから、他人に気を使いながら行動することは、大変、自分が損をしていると考えるようになった。

 サラリーマンができない私は、やむを得ず、会社の社長に自分でなったが、どうしても、従業員のことに気を使う。他の会社の人より、少しでも、満足が多くなるように気を使っていた。インドネシアでは、アドバイザーとしてやっていたが、私のアドバイスがどうも難しすぎるのでしょうか、アドバイスを受ける側が能力が著しく不足していると言うことに気がつかず、逆に、怒ってしまう、という状態で、やはり,自分でやらなければ、従業員や客先が気の毒だと思ってしまう。私に怒りを感じた人たちは、気が合うようで、能力が同程度なので、意見が一致するようです。

 三人以上の時は、役目がない限り、皆さんから不自然でない程度に離れて一緒にあるく。真ん中になってしまったら、何気なくその状態を解消する。

4月18日  インドネシアで 楽しく暮らす 15−215

斜めからインドネシアを眺めよう 215

記録的な暑さだと思うが、今日にカラワンゴルフ場には、またっく、まいってしまった。アクラブ会コンペなので、カートは使えない。ポカリスウェット500mlを四本飲みほした。それでも、途中、何度も目が回りそうになった。よく最後まで出来たと思うが、スコアーはさいていだった。途中、つかえて、5分くらい待つことがあるが、その時、何故こんな大変なめをして、ゴルフをやっているのか、なぜインドネシアにいるのか考えてしまう。

16:00頃から、M社の前に何となく多くの人が集まってくる。ここへ来れば、世間話をする仲間のようなものがいると思うのでしょうか。K社とA社の生え抜きの社員二人ずつ、K社からA社に移っていてまだ辞めてない人が一人、K社からA社に移ったが辞めてしまった人が三人、マクタの社長と私で、情報交換というか世間話に花が咲く。K社とA社の現況が、オープンにされる。

K社はもうほとんど仕事がない上に日本人は何もすることがないのになぜ、早く、閉めてしまわないのか不思議だということで、意見が一致した。クローズが遅れれば遅れるほど損を増やしているのに、日本人は帰っても居場所がないから、ただ、知らん顔をして伸ばしているのでしょう、といのが、皆さんの意見でした。

A社は、生産のロスが多く、納品した製品もロットアウトを食らって返品になることが多いとか、ここも、日本人が何の役割もはたしていない。

生え抜きの人事のマネージャーが例の社長の逆鱗に触れて、減給の上、現場のQC担当に格下げされたとか。聞くところによると、社長の無知識が原因だと意見は一致した。

生え抜きの製造マネージャーの友人が、PVCのチューブ、インドカルロ向けの生産をブカシティムールで始めた。その、マネージャーの技術指導で始めたという。本人は、私が、マクタから引き揚げたとき、私についていきたいと言っていた。

全員が私についてくると言ってくれる。責任が重大である。

K社の使える人、A社の使える人、MAKUTAの全員をなんとか活かせるように仕事を集めなければならない、そうすれば、自然に、N社の事業計画に則った仕事ができるはずである。

 カラワン オーキッドの8番、ショートホール、池越えの打ちおろし、私はパニック障害になってから、一度も、ドライバーで一度も池を越したことがない。毎回、水へ入れて、三打目をグリーンの横から売っている。今日も、ダブルパーだった。

5月2日  インドネシアで 楽しく暮らす 15−228

斜めからインドネシアを眺めよう 228

日本にいれば、年金生活者で、孫や娘たちに渡航費の援助もできる。蓄えもあり、奥さんも元気でかなりの年金を受け取っているし、何の不自由もない。ボランティアをしたり、囲碁仲間と馬鹿を云いながらザル碁をやる機会は沢山あるし、町内会の世話役をやってもいいし、書や絵画の趣味をやってもいいし、太田化工で邪魔にならない程度に研究開発をしてもいいし、N社の研究所へ行って何か、変わったことをやってもいいし、それでも暇ならゴルフに付き合ってもいいし、ダイビングのなかまに入ってもいいし、年に一回はドイツへ一か月ほど行ったりすることもできるし、他人から見れば多分恵まれた生活がある。

なのに なぜか、パニック障害でふらふらしながら、その人たちの手伝いをしようとしているのに、私から見れば評価がかなり低い能力の人たちから、逆切れされて、文句を言われて、なおかつ、また自分で、インドネシア人の若者が経営する会社の手伝いをして、顧客にもメリットが出るように奉仕をし出した。

人はなぜそこまで、と、思う人がいると思いますが、できるということが、重要な理由です。やろうと思わない人は、まず、出来ないからです。技術を持っているし、資金は持っているし、優秀なインドネシア人スタッフをもっているし、私が提示する見積もりを待っている、顧客は大勢いるし、趣味と実益と幸福感が纏めて得られるからです。

これが、性分だから、許せないことは許せない。実践して、証明するしか、選ぶ道はない。何年かかるか分からないが、自分が納得いくまでやるしかない。やられっぱなし、という言葉は私のインドネシア語でも日本語でも英語でも、辞書にないし、すごすごと引き揚げるなどという、気持ちを味わうなどは、100%出来ない。

 5月24日   インドネシアで 楽しく暮らす 15−250

 斜めからインドネシアを眺めよう 250

 デルタマスの家に戻っている。旅は好きだからあちこちへ出かけて家を留守にすることは多いが、帰ってくる度にやっぱり家が一番と思うから可笑しい。

 この世の中に人間国宝とか技能オリンピックで金賞とか、技能テストで一級とか、名工の称号など、その人を顕彰する方法、社会的、公的に評価をする方法があります。

 いつも、思うのですが、勲何等や何とか勲章はどなたがどんな基準で評価するのでしょうか、ノーベル賞のような委員会があるのでしょうか、厳正な審査が行われているのでしょうか。

 ある会社の表彰が面白かった。会社のトップがある人をISO習得の責任者にした、その人は事務所にいて生産管理をもともと任されていた。其の会社は設立時にISOすぐ収得したというより、買った。

 インドネシアはいろいろな資格や免許はテストや審査をへて、一定以上の成績が取れて初めて収得を認められるものは大変少なく、買うのが普通です。卒業証書も買うことが普通にできます。というより、私立の学校は卒業証書を売る営業担当がいるのです。高卒や大卒の証明書が必要だが、何かの理由で中途退学をしたとかで、証書がない人を探し出し、売るのです。そういうエージェントがいて、本人が欲しい学校の卒業証書を仲介,斡旋するのです。

 それはそれとして、本社の指令でISOの更新はしなかった。そこへ、別の社長が来て、なぜ、更新しないのだと、怒って、すぐ、収得の手続きをするよう先の担当者を責任者にしたのです。彼は、もう、前回ISOを買っているので、すべての書類は整っている。エージェントももちろん知っていて、知らぬは新社長だけである。時間稼ぎをして半年も過ぎないうちに9001と14000を買ってしまった。

 新社長、自分が取ったかのように喜び、自画自賛をし、その担当者を、ISO習得の最高功労者として表彰をした。本人、私の顔を見て舌を出しながら笑った。表彰はこういったものが多い。評価をする人に問題があるのです。国でも地方でも同じことです。

6月12日   インドネシアで楽しく暮らす 15−270

斜めからインドネシアを眺めよう 270

毎書きたいことがいっぱいあって困る。大体、一日5〜10分で書いて22:00に投稿している。“浜の真砂は尽きるとも世に書くことのタネは尽きまじ”石川五右衛門、ってね!!

斜めからインドネシアを眺めよう 261で書いた会社と対照的な会社について、ここで書きます。セットで読むと分かりやすい。

やはり、日本からの仕事で十分な利益を上げていた。日本への製品の価格は日本が決め、利益が十分上がるように設定したのです。それが失敗。利益を上げさせ過ぎて、値下げを指令したが、税務署から利益調整と指摘され、元の価格に戻されてしまった上に、ペナルティまで取られてしまった。無借金の優良企業に二三年でなってしまい、蓄積をどんどん増やしていった。現地社長さん何もしなくていい。なにもするなと指令されていたのです。ところが、事情がかわって、価格の下げでなく、日本からの注文が減らされ、インドネシア国内売りに力を注ぐように指令が切り替えられた。そして、製造と営業の専門家といわれていた人が送られてきた。これが、また、大間違いだった。自分が動く人達ではなかった、商品知識もゼロだった。日本ではプロモーションの専門家集団がマーケティング主役で、営業の人は呼ばれた客先へカタログをもって訪問し、その中から選んでもらうだけだった。

インドネシアでは技術営業ができなければ相手にされないし、大体、見積もりの方法も知らないではどうにもならない。動きようがない、というより、もともと、動く人ではなかった。やっと受けた製品の見積もりも大間違いで客先を大喜びさせる安値でだして、儲けていると思いこみ、注文が増えるほど赤字が増える上に、赤字でも売り上げが若干増える。それにも気づいていない。本社からの注文がなくなり輸出がなくなる。10あった売り上げが0.5になってしまって、その0.5がドメスティック売りではEPTEの規定に違反する。ペナルティをふんだくられる。それも知らないで、本社に頼むこともせず。違反のまま二三か月過ぎたところで、見かねて、私が本社にアドバイスして、本社はあわてて、EPTEの規定内の金額の注文をだした。今は、だから、1.5の仕事をしている。

  日本人二人はすることがない、一か月100万円ほどの無駄使いをしているだけである。十三年間の蓄積を食いつぶしている。日本へ帰っても居場所がないので、できるだけ、伸ばしたい。本社は早く閉めてしまいたい。組合も早く閉めてほしいと思っている。蓄積が減るばかりなので早いうちに退職金の交渉をしたいと思っている。

本社No、2と思いこんでいる常務は、彼の指令で、国内売りをするなと言い続けた手前、クローズを伸ばしたい方なので、話は複雑でなお始末が悪い。

 

6月13日   インドネシアで楽しく暮らす 15−271

斜めからインドネシアを眺めよう 271

 

分からず屋のおじさま方(しかし、私より十分若い)にもう一度押出成形について簡単に解説しておきます。

インドネシア全土の地図を作ったのは1943年11月1日 私が生まれた日の前日でした。

 押出成形品で、何でも引き受けることが出来る人はインドネシアに一人しかいません。インドネシアで始めてエンプラの押出成形をしたのは、それが私です。

押出成形品で、何でも引き受けることが出来る人はインドネシアに一人しかいません。それが私です。

そして、何でもできる応用がきく、私が作った製造ラインは現在インドネシアに10ライン在ります。内、3ラインがPT.MAKUTAに在ります。その他の7ラインは、他の会社にあります。また、7ラインは日本製の一級品です。内の3ラインはインドネシア製ですが、自分達で部品を買ってきて組み立てたものが多い。日本製は1ライン1千万円ですが、インドネシア製は200万円です。そのことを踏まえて、押出成形は装置を持っていればだれでも一級品ができるというわけではありません。人間が作るのです。契約社員の入れ替わり立ち替わりではどうにもなりません。其のうえ、PVC押出は押出成形ではありません。

私のWeb siteをじっくり読んでください。くわしく解説してあります。PVCしか成形していない人が押出の専門家というのは、身の程知らず、です。認識として全く無知の人のセリフです。

押出は人が宝です。しかし、人はいらないと豪語して、経験者を追い出してしまった会社にその7台がある。全くの“猫に小判“ブタに真珠”の例え通り、私が作った装置が、こんな装置は使えない、改造しなければだめだといわれている。その装置で10年以上も、今までインドネシアではできなかった製品を作りクレーム無しで客先に供給してきたのに、其の会社へ来てから、NGは繰り返されるし、供給価格はびっくりするほど値上げしたし、まったくの、駄々っこに装置を渡したようなもので、私の“一生の不覚”でした。素人さんから、この装置ではできないと批判されるし、どうしようもない。私が作った装置が泣いている声が聞こえます。

インドネシア製の、見るからに不完全そうな装置を使いこなして、サンプルを提供し始めた。価格も適正さを保っている。サンプルを見た客先は、あまりの製品の違いに、びっくりする。明らかに寸法は安定しているし、外観も良い。二社購買はとてもできない違いがあることを知る。

人を重視しないで押出成形の専門家という人は押出しの経験がない人で、結局は全てを失います。このことは肝に銘じてください。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

7月4日   インドネシアで楽しく暮らす 15−292

斜めからインドネシアを眺めよう 292

休日出勤でした。試作品を月曜日に客先に見せなければならないからです。

頼まないのに、夜勤以外の連中は全員、会社に来た。休日出勤手当はないよ。といったが、ニコッと笑って仕事を続けていた。

また、私の教え子の最後の一人が、昨日で会社を辞めたので、遊びに来たといって、来ていた。13日から、入社すると云っていた。私がOKといってないが、13日から、いるでしょう。10年前からの仲間である。私はスマトラのトバ湖の真ん中にあるサモシール島の彼の実家を二度訪ねたことがあるほどの仲である。

一般の日本人は従業員とこれほど親しくするでしょうか。食事会、バス旅行、ジャカルタへ行って、アイススケートやボーリングを体験させたり、何人かずつ、家に呼んで、車の運転実習をさせたり、である。ですから、私がインドネシアにいる限り、着いてきてしまうでしょう。

昨日、マリアさんを故郷のブリタールへ帰した。夫のアリ君はスラバヤの空港近くに住んでいて、宅配便の配達員をしている。コス(kost)という下宿のような所を借りて住んでいる。単身赴任のようなもので、土日だけブリタールのマリアさんの家に泊まりに行く、しかし、普段は、マリアさんは私と住んでいるので、ブリタールへ行くことはない。私が日本へ一時帰国するとき年三回ぐらい10日間前後には帰す。毎日何度も電話をしているだけである。

今回、大統領選挙の投票のため、ということがきっかけだが、8月初旬には夫のアリさん側の披露宴をするらしい、8月20日頃からプアサ(断食月)で、9月20日ころレバラン休暇になるので、最短でも9月の末まで、約、3か月ブリタールにいて、こちらには来ない。

私は一人きりになって、身の回りの事やいざという時の心配はある。パニック障害がでたらどうしようかと不安である。半分だった運転も昔のように全部しなければならい。

他の女性に臨時で一緒に住んでもらうこともできるが、マリアさんにばれると、すぐ飛んで来てしまいそうなのでできない。お手伝いさんに週二階一日二時間、洗濯、掃除にきてもらうことは許可が出た。

帰した本当の理由は妊娠してもらうことです。妊娠したら、こちらに来ても良いと云ってある。だから、いつ、戻るか分からない。

7月5日   インドネシアで楽しく暮らす 15−293

斜めからインドネシアを眺めよう 293

今日も休日出勤だった。電気、水、事務所関連の工事費の見積もりを現地で説明しながら、お願いした。9日にはその概算見積を戴ける。契約書のメールもお願いた。方向転換すれば動かない人を待つ必要はない。どんどん状態は進行する。私が、会社を首になって、インドネシアで押出成形を出来るようにしたのは二ヶ月しかかからなかった。4ヶ月後には、もう、十分、利益が上がり出した。そして、狭くなってしまったので、生産をしながら、次の手を打つことにしたのです。方法で二週間ほど迷いましたが、決定しました。約、900平方メートルの工場を借りることにした。

今まで迷っていたもうひとつの方法は、諦めた。ですから、関係者で私に聞きにきたインドネシア人にはそのことを伝え、もう、誰も待っていいない。急ぐ必要ないどころか、いつまでも、とことん頑張ってほしいと伝えた。5倍などといったことはないが、今の4,5で頑張ってほしい。しかし、これも言ってはいない。

また、私はインドネシア人従業員を増やすつもりはないので、だれかに頼ってはいけない、後のことで私に期待しても、約束できることは何もないと伝えた。

 現在あるもの、やっていることは事実です。見ていただければ確認していただけますが、これから、やろうとしていることは、計画を実行しようとしていることで、目で見て確認していただくわけにいきません。しかし、計画を現実にするのは早いです。予定では遅くてもレバラン明け(9月20日前後)には工場を移転したいと思っています。

新規の話が目白押しです。ジャバラチューブ(灯油の汲み上げポンプのような)や医療用PVCチューブ(クリーンルーム必要)は未だに大量に輸入しています。私にぜひやってほしいと頼まれています。お客さんと従業員の期待にこたえるために私は急ぎます。このように書いて、自分にプレッシャーを掛けます。そして、実現させます。これが私のやり方(cara saya, my way)です。

7月25日   インドネシアで楽しく暮らす 15−313

斜めからインドネシアを眺めよう 313

出発時間が変わって、14:10逆算して、成田エクスプレス東京発11;03、静岡発新幹線09:00、家から08:30出発でした。ガルーダの時は06:20にタクシーを予約していたので、ずいぶんゆっくりである。到着もバリ経由ではないので、ジャカルタタイム19;50で、ずいぶん早く到着する。の、つもりだったが、ジャカルタからの到着遅れで、13:30に到着した。どういうことだったのでしょうか、07:30には到着するはずが、6時間も遅れたことになる。

とんぼ返りでの出発も1時間近く遅れた、さすがJALである。

今、インドネシアの自宅に戻る高速道路上にいる。明日から、また、ジャカルタタイム22時、日本時間0時過ぎの投稿になります。豚フルにはかからなかったようです。よかった。出迎えのディッキ君がマスクをしていた。風か、と聞いたら、太田さんが豚フルに書かっで、来るかも知れないから用心した、といっていた。

 

日本の一週間ちょっとは、毎日、雨にみまわれた。太陽を見る機会は全くなかった。梅雨明けはしていたらしいが、梅雨に戻ってしまったようでした。日本自体の雰囲気も何となく、うっとうしく感じた。

 

JALのジャカルタ便の機内の乗客の雰囲気は暗い、それでも、キャビンアテンダントは一昔前に比べると若い子が多くなった。顔は日本人だが、名札を見ると日本人ではない。日本語は日本人のようにうまかった。経費節減の外国採用だと思う。

 

 

 良く分からないが、搭乗時間は14:30になっていた。多くの乗客は、知っているのでしょうか13:40になっても搭乗口ラウンジに来ていない。知らずに普通に来て、一時間余計に待たされるというのが普通だと思うのだが、きっちり、14:20頃、現れる人が多いのはどういうわけでしょうか。私は、13:00には来ていたので、十分待たされた。

ジャカルタを発つ時は、ベバスフィスカルの窓口で、納税番号カードのコピーをあらかじめ準備しておき、それと、ボーディングパスを渡せば、コピーは取り上げられ、ボーディングハパスにスタンプを押してくれる、それを、イミグレの前のチェックカウターで提示すればOK。以前のような1.5ジュタ払いの交渉をしなくて済む。

7月26日1   インドネシアで楽しく暮らす 15−314

斜めからインドネシアを眺めよう 314

日本でNHKを見ていたら、こんな病気のことを特集していた。インドネシアでこういう人に沢山出会った。会いたくて会ったのではなく、一緒に仕事をするように与えられた人達です。私が選んだ人ではないし、私の仕事には向いていないからといって、追い払うこともできない関係の人達でした。

私がやっている仕事には、全くふさわしくない人です。一つの仕事をまじめにこつこつやる、という人は駄目です。与えられ仕事から、いつもはみでようとする人でなければなりません。臨機応変でなければなりません。作業標準を疑問に思う人でなければなりません。以下、引用したものです。こういう人同士が同じ職場だと、私のようにどんどん仕事をしてしまう人間は阻害される。こういう病気の人がいるということを理解してほしいと、締めくくっていたが、冷たいようだが、私にしてみれば、本人達が自覚してほしいと思う。また、自覚してもらって、人を使う立場になれないことをはっきりさせなければならないと思う。使う人の立場、使われる人の立場を考えれば、当然だと考える。経験させられた私の切実な思いです。

こういう人を、一定の仕事に安く使って、利益を上げようという会社は、使うが、一般的に創意工夫が命の日本企業では、使えない。もし、気がつかずに雇ってしまった会社は使い道に困る。そういう人だけ集めて、単純作業をさせるしかない。

大人のはずのあなた、心当たりはありませんか。心当たりがあるなら自覚してください。

以下はネットで公開されている説明から抜粋したものです。

コミュニケーションの問題

アスペルガー症候群の人の話し方はちょっと変わっています。話すことができないわけではありません。おしゃべりなアスペルガー症候群の子どもも沢山います。でも話し方が少し変わっています。一言でいえば会話のやり取りが長続きしないのです。

話し方が回りくどい、曖昧が苦手、細かいところにこだわる

アスペルガー症候群の子どもは話し方がとても回りくどいことがあります。「今日はどうやってここに来ましたか?」の質問に対して「朝8時3分に家を出ました。それから市営バスの10番に、バス停から乗りました。ちなみにそのバスは低床型の青いバスでした。10番のバスを__駅前でおりて、そこから__線の準急に乗りました。×駅で急行に乗り換えて__駅の3番線の後方のホームでおりて云々」といった具合です。どれが大事な情報でどれが枝葉末節かうまく選べないのが一つの理由と思われます。あまりくどくど言われると、言われる方はからかわれているのかと思いがちですが、そうではなく本人は一生懸命なのです。

曖昧な聞き方をされると意味がつかめないようです。久しぶりにあったので「最近どう?」と何気なく聞くと「どうって、何のことですか?元気かという意味ですか?勉強のことですか?友人関係のことですか、それとも家族との関係を聞いているのですか?」などと細かく聞き返されることがあります。その場で何が話題になっているか、言外の意味を汲み取ることが苦手なのでどうとでもとれる曖昧な質問には答えることが難しいのです。問いかけはなるべく具体的にする必要があります。

 人びた難しい言葉、場にそぐわないほどの丁寧語を使う

子どもなのに「ちなみに」「ところで」「逆にいえば」「おそらくは」などといった大人びた言葉を使うことがあります。今日の昼ごはんは何を食べましたか?と聞かれて「米飯と魚肉それと緑黄色野菜」と答えたり、手伝って欲しいという意味で「援助が必要です」と言う子どももいました。クラスで配布されたプリントを集めるときに「没収します」と言うなど間違った言葉の使い方もみられます。家族や同級生に対しても「ですます調」の丁寧語や文章体で話したり、テレビのアナウンサーのように正確すぎる話し方をすることもあります。丁寧語の中に不自然なほど乱暴な若者言葉が交じりこむ小学生もいました。兄の影響で乱暴な言葉を覚えたのですが、全体は丁寧語でしゃべるので非常な違和感があります。本人はあまり違和感を感じていないのです。基本的にアスペルガー症候群の子どもは友人同士の会話よりも、テレビや本などから会話を学ぶことの方が得意のようです。そのために、こういった現象が生じるのだと考えられます。辞典で覚えた難しい熟語やことわざを不自然なほど頻繁に使うこともあります。「やめて」という意味で「それは言語道断だから断固拒否します」とか「せいてはことを仕損ずると言いますから、そんなことをしたら弱り目にたたり目です」といった具合です。男の子なのに女の子のようなしゃべり方をしてからかわれる子どももいます。先生に指されて答えられず「あら、私こまっちゃったわ」といったようにです。母親と一緒にいることが多いため、母の言い方をそのまま模倣しているのかもしれません。大抵の子どもは男女の言葉の相違を理解してそれぞれの性別にあった言葉使いをするのですが、アスペルガー症候群の子どもはそういった使い分けが苦手です。

一方的でわかりにくい話し方

アスペルガー症候群の人は自分の関心があることを、相手の興味におかまいなしに一方的に話す傾向があります。自分の関心のあること(機関車やコレクションなどの趣味のこと)で頭が一杯だったり、関心のあることは他の人より知識が豊富なので話しやすい、相手の反応をモニターせず相手が迷惑そうな表情をしていても気がつかないことなどが関係しているのでしょう。話が飛びやすいのもアスペルガー症候群の人の話し方の特徴ですが、これも相手に理解しやすいようにという配慮が苦手なために、自分の関心の赴くままに話題が変わっていくのかもしれません。話し相手の予備知識を考慮していないため唐突な印象を受けがちです。

 言外の意味を汲み取ることが苦手

言葉の裏の意味を理解することが難しいことが多いです。家に電話がかかってきて「お母さんいますか?」と聞かれ「はい、います」と答えます。そのままだったので相手が「お母さんを電話に出してください」と言うと「お母さんはいますが、今家にはいません」と答えました。最初の質問に対して子どもは母がいるかどうかについて答えたつもりなのです。慣用表現も混乱の一因になります。「先生に叱られてお母さんは耳が痛かった」と言われて、親切にも鎮痛剤を持ってきてくれたりします。「今日のご飯はお鍋にするね」と伝えると、あわてて「スパゲティがいい」と言った子どももいます。その子は実際に料理が出されるとおいしそうに食べて、食後に「これが鍋を食べたっていうことなの?」と確認をしました。

皮肉やほのめかしの理解も難しいようです。よく学校の先生が「そんなことしたら幼稚園の子だよ」と注意しますが、本当に幼稚園にいくのだと思って不安になったり、幼稚園にいけるんだと思って喜んでしまったりします。「そんな子はうちの子じゃありません」と叱られて戸籍を調べようとした子どももいます。困った行動をしているときに「それはちょっとね・・・」と言われて、ちょっと、後の言葉を延々と待っていたりしがちです。

言葉の間違った使い方

アスペルガー症候群の子どもは一見正しく話しているようにみえても、よく聞くと微妙な文法的に間違った話し方をすることがあります。助詞がところどころ抜けたり不正確な使い方だったり、受身文で混乱したり、「そこ、ここ」「もらう、あげる」「いく、くる」など視点の違いで異なった言葉を使う表現を間違えたりしがちです。あるアスペルガー症候群の子どもは良いことを聞いても悪いことを聞いても「なあんだ」とつまらなそうな表情で受け答えをしていました。「なあんだ」という相槌はどのような場合でも使える表現だと覚え間違いしていたようです。

 思考を言葉に出す

 小さな声でひとり言を言ったり、考えていることを声に出して言うことがあります。また相手の言ったことを小声で繰り返した後に返事をする人もいます。

 分かりにくい話し方,訥々とした話し方,駄洒落を好む

 会話の内容よりも「音声」の方に関心があって、やたらと語呂合わせの駄洒落をいう人もいます。

 しゃべるほどには理解していない

 アスペルガー症候群の子どもはよくしゃべるし、難しい言葉も知っているので、言葉を理解する能力も高いのだろうと思われがちです。でも、話すことより人の話を理解することの方が苦手な子どもも多いのです。子どもの理解力の範囲内で話しかけるように注意しないと、本当はよくわかっていないのにわかったつもりになってしまう子どもがいます。言葉そのものの理解が乏しいことも多いのですが、相手の話以外のことに気がそれてしまい、話の筋が追えないこともあります。注意が相手の言葉よりも、相手の身に付けているアクセサリーとか相手の髪型などといった、その場では本質的でないことに気がとらわれたりしがちなことも一因です。また、相手の話が「見えなく」なったときに聞きなおしたり、さりげなく確認したりといった「会話の技術」も未熟なことが多いのです。

 ジェスチャーや表情、距離のとり方などの言葉以外のコミュニケーションの問題

これまで主に言葉を使ったコミュニケーションの特徴について述べました。でもコミュニケーションは言葉だけで行うわけではありません。何気ない仕草やジェスチャー、表情、視線の向け方、相手との距離など言葉以外の要素もコミュニケーションに重要な役割を果たします。このような言語以外のコミュニケーションを非言語性コミュニケーションといいますが、アスペルガー症候群の人は非言語性のコミュニケーションも独特のことが多いのです。

  私たちはしゃべりながら自然に体を使ってジェスチャーでも表現しています。幼児期や小学生くらいの子どもで言葉でコミュニケーションできるようになると、言葉だけでコミュニケーションをはかり、自然な体の動きがみられないことがあります。また視線の合い方も独特で、相手の顔をみないで話したり、逆に相手の顔をしげしげと見つめすぎて奇異に思われたりします。思春期以降になるとジェスチャーが大げさすぎて目立ってしまうこともあります。ある若い女性は質問に答えた後で、「ウッフ」とまるで字を読むかのように声を出して笑った後で首を横に傾げます。自然に出ると可愛らしい振る舞いなのですが、あまりに芝居じみてとってつけたようなので不自然に感じてしまいます。またある青年は家で料理を作る時の様子を聞かれて、「パンがこげないようにトースターを見張ってます」と言いながら、強い日差しの中で遠くを見るように、てのひらを目の上にかざしました。思わず笑ってしまったのですが、なにがおかしいのか本人はよくわからない様子でした。

 

コミュニケーションというキャッチボール

 人と人とが会話をする様子は、言葉や仕草、視線などをボールにみたて、ボールを受け取っては投げるキャッチボールの場面にたとえられます。アスペルガー症候群の子どもはコミュニケーションのキャッチボールが苦手です。言葉はあるので投げることも受けることもできなくはないのですが、相手とキャッチボールを楽しむことが苦手なのです。キャッチボールができない時に、周囲が「ふざけている」「やる気がない」とか、「協調性がない」といった視点で判断するのは全く不適切です。相手の意図を推測したり、相手の反応に応じてこちらの動きを調節していくといったコミュニケーション能力の障害なのです。もともとコミュニケーションが苦手なのですから、緊張した情況だとふだんのようにはしゃべれなくなったり、逆に自分の関心のある分野の話題を饒舌に話したりします。このような場合もおおもとにあるのはコミュニケーションの障害なのです。

8月11日   インドネシアで楽しく暮らす 15−331

斜めからインドネシアを眺めよう 331

PT.MAKUTAの押出機やその他の装置はどこ製ですかと、聞かれる。どこ製でもありません、PT.MAKUTA製です。押出機はシリンダーとスクリューを買ってきて、センタ−の高さにする台を鉄材で作って、下に置くモーターやプーリーやVベルト、ヒーター、計器類、コントロール装置、パネルなども買ってきて自分達で組み立てて作ったのです。水槽、金型、引取機、カッターも殆ど全部自分達で作った。新しく私の設計で作らせた、装置も望みどおり働きをしないので、自分達で手直しをした。だから、私たちのノウハウが多く含まれているし、私たちの労賃、技術量も含まれている。

そして、日本製と遜色、いや、それ以上の品質の製品を作っている。

 

 駿河湾の地震による私の家の被害はなかった。会社は夏休みで電話しても誰も出なかった。地震でのダメージより、各地での大雨による被害や海水浴で多くの人が亡くなっている方がニュースとしては深刻でしょう。

 せっかくの夏休み、地震による通行止めや運休で、出かけられない人が多くなり、いろいろな予約のキャンセルが発生し、経済的影響が大きくなることでしょう。

 面白いのは、いつものことだが、30年以上前から、いつ起きてもおかしくないと、歴史的周期から推測して?予想しされているが、一向に、これが想定された地震でしたとか、起きるだろうというデータからの予測でこない。その間に神戸や奥尻や最近では中越や大地震が各地で起きて大きな被害を出している。結局、地震の予測はできないのです。気象庁の記者会見などを聞いていると馬鹿らしくなる。地震予知委員会?霊能者(私は信じません)、第六感が鋭い人を集めて、予測させた方が、当たる確率は高いと思う。予測が当たる確率を明らかにしてほしい。各所で10年以内がなん%、5年以内がなん%、1年以内がなん%半年いない一か月以内1ッ週間以内、何時間以内なん%といった具合に、です。

 そういう予想ができるという予知委員会の人がなん%いるのか、できないという人がなん%いるのかも明らかにしてほしい。

 これによって、各地域のお金(予算)の使い方が大いに変わるのです。

インドネシアのように起きた時に救済にお金を使えばいいじゃないの、どうせ、予測はできないし、防げないし、止めることもできないのだから。救済や復旧を早くする備えをしたらいいと思う。自衛隊ではなく消防隊ではなく、自衛隊は縮小し、大規模なレスキュー隊を自衛隊並に作ったらいいと思う。

8月31日   インドネシアで楽しく暮らす 15−351

斜めからインドネシアを眺めよう 351

民主党自身がびっくりするくらいの思いがけない大勝に戸惑っているのではないか、奢りは大敵です。批判は素直に聞くような余裕を持てると良いが、批判やアドバイスに耳を傾けることができない権力者がその場を台無しにしてしまう。どの世界にもありがちなことである。

日本の豚フルのワクチンの製造が思ったとおり、遅れている。近冬に大流行するであろうことを予想すると、1000万人分が不足するという。そこで、その分を輸入で賄うと、簡単に、云ってのけるのは、いかにも日本の官僚だし、政治家も同じこと。外国で生活している私から見ると、自分勝手な金持ちの行動丸出しである。大変、みっともないと思う。

新興国のワクチン不足をどう意識しているのでしょうか。大多数の国はワクチンを作る能力がない。それらの国々は輸入するしかない。其処へ日本が高値で、購入すれば、それらの国々がどれだけ迷惑をこうむるのか、考えてのことなのでしょうか。それとも、そんなことには構っていられないということでしょうか。

国内の対策が遅れたことの反省は全くなし、輸入して間に合わせれば問題ないだろうという態度は、横暴の一ことである。

以前、コメ不足になって、緊急輸入をしたことがある。開発途上国に大きな迷惑をかけた、国際コメ価格が急騰したのだ。結局、日本人はそれをおいしくないと云って、食べなかった。その翌年には大量に余ってしまい。家畜の飼料にしたり、北朝鮮に送ったりした。

こういう、やりかたが、日本の官僚のやり方です。

意識しないで、弱者を困らせている場合がある。これも、どの世界にも在りがちなことです。上に立っているという意識があるなら、下からの気持ちや意見も取り入れなけば、そう、時間がかからないうちに、上でいられなくなるでしょう。

9月1日   インドネシアで楽しく暮らす 15−352

斜めからインドネシアを眺めよう 352

半年過ぎた会社は、勿論、日々変化をしているが,半年間、人を経営能力という視点から眺めてきた。しかし、残念ながら、一人もいない。経営を任せられるという、総合知識と能力を待っている人は一人もいない。犠牲的精神と行動をもって、会社を引っ張ろうとする人は一人いるが、知識や能力が不足している。だから、現場は任せらけるが、経営を任せることはまだできない。

吉川英治の“私本太平記”になぜか出てくる架空?の人物、バサラ婆娑羅侍、歴史上の人物の中で、私が子供のころ大尊敬をしていた“足利尊氏”の話といって良いが、いろいろな人物、楠正成や新田義貞、後醍醐天皇などが登場した,南北朝から室町初期の歴史小説である。その中に、居てもいなくても、あまり重要ではないと思う、婆娑羅侍が登場する。印象はほとんど残っていないが、バサラという語感がなんとなく残りついづけていた。バサラとは室町時代に流行ったという、洒落者ということらしい。絵とか着物とか持ち物が派手でよく目立ったらしい。当時の破格の金銭的に恵まれた自由人。

吉川英治はその時代の雰囲気を伝えたくてバサラを登場させたのでしょう。侍は質実剛健ばかりではなかった、洒落者もいたよということらしい。

サンスクリットの金剛石(ダイヤモンド)の意味でもある。

“BASARA”という名前の日本食レストランがジャカルタ、スディルマンのスミタマス、1,2の間にある。2000年ごろまでは確か竹葉亭(ちくようてい)だったが、名前が変わっていた。経営者が変わって名前も変えたと思うが、バサラという名前にした根拠を聞いてみたいと思った。普通の人にちょっと思いつかないと思う。

そこで、間もなくインドネシアから去る?と、本人は云っている方の送別会に参加させてもらった。DVDインドネシアビューをプレゼントした。

破格に明るい方で、タイでも勤務が長く、タイの情報をその方から受けて、大変参考にさせてもらっている。私は、まだ、タイに滞在したことがない。バンコクトランジットしかない。

23:00過ぎに家に戻った。

名前が変わって三か月、やっと、看板が取り換えられた、LIPPO BANKではなくなった。
 10月17日 インドネシアで楽しく暮らす 15−398 

斜めからインドネシアを眺めよう 398

公金の援助を受けて、やっていることが小さい。税金の無駄使いは外国の至る所でされている。公務員が公僕などというのは夢のまた夢である。高級住宅に住み、至れる付くせりの補助金を得て、やっていうことといえば、国からのお金の仲介だけである。自分のお金ではない。ただ、配分しているだけである。その後のお金の使い方をチェックしない。それが、何より、一番重要なことだと思うが、報告を義務付けることもしない。渡して、それで終わり。まともに使われていると思っているのでしょうか。彼らにバックされていると、疑いたくなる状況と、本人達は思わないのでしょうか。

配分なら、私の方がよっぽど、貧しい人たちの自立の為に役立つように配分する。そにて、結果をチェック、フォローもする。

公務員のなんたら手当を一旦先ず全部無しにしてもらいたい。そして、新たに必要とする手当をだし始めればいい。既得権を全廃し、振り出しに戻せば何兆円もの税金が余るはずである。

私が個人でやっていることに近いことをする能力のある人材はいないのですか、また、そう云いう、公務員にすり寄って、恩恵のおこぼれをもらおうとしている人の多いこと。またそれを、彼らと親しいと自慢している人も多い。私はどちらかというとそういう人と付き合っていることは、恥だと思うのに。何をか、いわんや、です。呆れるしかない。また、こういう批判をすると、そういう人たちから、阻害されるし、パワハラを受けたり、恨みを買ったりする。

そういうたぐいの人間の方がはるかに多いので、どちらが正義なのか、分からなくなる。批判する人の方が悪者にされる。

できるわけがないでしょうが、公務員は私のやっていることを見習ってほしいものです。

インドネシアのKPKという組織は公務員の汚職、贈収賄、無駄使いを監視し、摘発するためにある。しかし、その組織のトップ(Antasari)で、公務員から、恐れられていたといわれ、本人も、いつも、誰かに狙われていると感じるが、それを、恐れていたら、役割を果たせないといっていた。その人が、今、殺人首謀者として、裁判中である。ゴルフのキャディに関する三角関係がらみだから、なさけない。

そして、その取り調べ期間中に、KPKのメンバーは自分を含めて、収賄をしていたことを自ら暴露した。

現在、KPKはメンバーを一新して、活動を始めている。役割を果たすことを期待しますが、インドネシアですから、甘い、口聞きと、袖の下の誘惑は多い。

10月18日 インドネシアで楽しく暮らす 15−399

斜めからインドネシアを眺めよう 399

どうも、つかみきれない会社があって、そこから、私にアプローチをしてくる。二か月前に、会いたいというので、PT.MAKUTAで約束の時間15時の15分前から待った。30分過ぎても来ないので、仲介した人間に、今、どこにいるか、電話するように頼んだ、その本人も、私に催促されるまで、確かめようとしない。この結果、どう見ても、まだ、30分以上かかる場所にいる。

約束の時間の前の来ているのが普通だと思っている私にとっては、向こうから何も連絡なしに一時間以上待たされるなどは、許せない。キャンセルと云って、家へ帰ってしまった。その後、彼らが待ち合わせ場所だった所に着いたのが、16時過ぎていた。そこから、連絡があって、私の家まで来るというのでOKをした。何と、普通なら、30分以内で来るのに、一時間以上かかって、17:30に来た。

 彼らは、プラスチック製品の販売仲介屋をしているというので、押出成形と云って、決まった断面を長く引っ張って製品を作る仕事だから、長くても短くても、連続で引っ張り、切ったり、巻いたりする、と説明した。

 まず、製品のサンプルが有れば、それを渡してほしい。図面でもいいが、図面に書かれていないことで、知らなければならないことが、たくさんあるので、必ず、あるなら、サンプルを欲しい、そこから、話がスタートします。なければ、話は何も出きません。と、何度も、云っておいた。分かったといって、今度来るときは仲介する製品のサンプルを持ってきます。と云って、帰って行った。

 

40代、50代の男、三人で、わざわざ、タンゲランから、やって来たのです。商売をやる気はあるのですが、押出しのことや、プラスチックのこと、商売の仕方が、分かっていないことが、感じ取れた。

 

10月19日 インドネシアで楽しく暮らす 15−400

斜めからインドネシアを眺めよう 400

外交官の何たら手当を含めて、優遇措置が沢山あり、其のうえ、公費と称して、私的費用に使ってしまうチャンスが多い。要するに、自分や自分の贔屓の人たちに使っても、公費に使ったと言い訳をしやすい状況にある。いちいち、指摘できない、曖昧な部分がある、そしてそれは、ほとんど、公共の為でなく、私的に使われていう。

タイミングよく、外交官の諸手当を見直すという話が、ニュースで、知らされた。当然である。外交官に限らず、開発途上国援助などの、いかにも、ボランティアをしているかのような政府機関、(こういう機関は天下りの受け入れ期間と一致している)海外事務所の人たちの、生活ぶりも、外交官に負けないほどの、豪華な生活をしている。どうみても、その国の人のために、尽くしていて、自分の生活は人並みで良い、という、感じは毛の先ほども感じない。飲食いや住まいに庶民としては考えられないほど、豪華な生活をしている。自分が一月に100万円も使っていて、現地の子供たちへの援助が、一年間100人に1000円位で、合計10万円ということでは、どう評価しても、私は、最低人間の存在としか見ない。良心が咎めないのでしょうか。

 外交官や海外援助機関使っている予算を人数はそのままにし、半分にすればいい。そして、浮いたお金を民間の海外援助NPOに託したら良い。

海外には、少ない手当で、また、自費を投じて、現地の人のために働いている日本人は多い。こういう人は、元、公務員という人はほとんどいない。皆さん、元も今も民間人です。こういう人を探し出して、もっと効率あげてもらうために横から金銭的に手伝うといった、地道な活動を公務員はしなければならない。それも、今の収入の半分で、性格程度も半分で。とにもかくにも、外交官の生活は豪華過ぎる。人間を贅沢にしてしまう。これは行政の責任である。

この際だから、書きくわえるが、JODCの一人当たりの支給金額はびっくりするほど高額である。半分で十分、そうすれば、二倍の人数を送ることができるし、高齢早期退職者の海外勤務機会を増やせる。指導を受ける海外の人達も増やすことができる。良いことだらけだが、そうしないのは、JODC職員の給料が高いからです。自分達の方が多い、というのは、いかにもまずいからです。当然のことながら、職員、海外駐在員の給料も半分にすればいいのです。そうすれば、もっと、派遣指導者を増やすことができる。こんな、簡単で、当たり前なことを、どうして、やらないのでしょうか。

 やはり、公務員はエゴ集団だからというしかない。

 11月4日 インドネシアで楽しく暮らす 15−416

斜めからインドネシアを眺めよう 416

本当かどうかは、決まってみなければ分からないが、本社同士は基本的に合意したと、風の便りが届いている。K社の撤退は、予想に反して、早ければ、来年一月末に早まるようだ。遅ければ2011年になるでしょう。私の会社は、其の会社が城を明け渡したと同時に入城することにした。

一旦は、いつになるのか、はっきりしないので、他を当たり、そちらに移る段取りになり、K社はとは、白紙に戻した。しかし、借りることにしていた、貸工場の条件が気に入らなくて、土壇場になって、キャンセルしてしまった。そして、また、K社の跡に入るという構想に替えた。それがレバランの直前で9月の17日でした。そのことがあって、MMの事務所には後に入りそうな会社が在ったら紹介してほしいと、頼んだらしいが、本当は、その、頼みは、取り消さなければならないはずですが、取り消してない。その人らしいと思う。

K社のEPTE解消の申請は、10月末を期待したが、契約社員との契約を三か月伸ばし、2010年1月末にした。今度こそ、その日までに出てゆくことを、どうも、信じていいらしい。

それ以上伸びることになれば、いくらなんでも、本社がほっておかないでしょう。それに期待し、待つことにする。私は、もう他を探すことなく、また、それまで、営業もすることなく、じっと待つ。

どうぞ、マイペースでゆっくり、釣り三昧で、明け渡しの準備をしてください。「私まつわ、いつまでも待つわ」、にしました。いくら、意識的に遅らせても、諦めないし、意識的でなく急いでも能力的に遅くなる確率が高いが、他を借りたり買ったりすることは100%しないことにした。

その、代表者がいなくなれば、私が、入れ替わりで、入場します。そして、その地位にに私がなって、それと同時に、活気のある、インドネシア人従業員がはつらつと働く会社に変貌させるでしょう。人が変われば、こうも、明るい、やりがいのある会社に変わるという見本を示すことになるでしょう。

11月24日 インドネシアで楽しく暮らす 15−436

斜めからインドネシアを眺めよう 436

TVRI National 92チャンネルで“おしん”を毎日、放送している。何十年も前から、何度も何度も繰り返し放送されている。日本では“おしん”を知らない人口の方が多いお思うが、インドネシアでは、すべての世代が子供のころ“おしん”を見て、育っているのです。“おしん”を知らないインドネシア人は一人もいない。今の子供も、“おしん”を見ています。インドネシアの地方の大部分は日本の“おしん”時代と同じような生活を、今でも、している。テレビとHPとバイク以外は、です。

間もなく発展的解消をするPT.MAKUTA BINA ARTAのホームページです。http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0012.html

 一年弱のもがきで終わります。

アラー所有の土地?に住み着いた人達は、いつ、立ち退きを言い渡されるか、それがあって、いつ立ち退きを強制されるか、いつ、強制ぶち壊しにあうか、分かりません。いつかはその時がきます。

 多くの理由は,広幅工事のためです。交通量が増え渋滞がひどくなってくれば、道幅を広げます。その時、立ち退き命令が出され、一定期間待って、その後、警察官とぶち壊し屋が来て、一期に破壊します。何十軒でも百何十軒でも半日もあれば更地にされてしまいます。泣き叫ぶ女性や子供もいますが、まったく、無視されます。ぶち壊しに反対をする第三者は全くいません。当然として、ここもか、もうすぐ、あそこも、と、いう思いで眺めています。

 立ち退き勧告が出て、自主的にその地帯の人達が、建物を解体する場合も数多くあります。ある土曜日曜に、一斉に、自分たちや知り合いが、自分の家や店を解体します。家財道具やテレビなどの家電製品は勿論、瓦や壁板、骨組みの木の棒などを分別梱包します。

其の風景は圧巻です。竜巻が軒並み家を破壊したあと、片付けをしているようです。多くの人々が、寄ってたかって、手作業でやっています。

どこかへ持って行って、空いている土地に直ぐ立て直すのです。泣きながらぶち壊されるのを見ているだけより、はるかに、建設的で現実的です。一日二日できれいさっぱりとしてしまいます。また、二三日後に、一mくらいの小木が二三m間隔に植えられます。そこへ、また、バラックを建てないようにという国の意思表示です。

 その跡を見ると、しっかりタイルの床が敷かれ、いくつもの部屋で仕切られていたことが分かりますが、トイレだと思われる場所がないのもすぐ分かります。

11月25日 インドネシアで楽しく暮らす 15−437

斜めからインドネシアを眺めよう 437

ジャカルタタイム18:00から放送するのでしょうか。“坂の上の雲”第一回、バンカ島から戻って、家に着くのは19:00頃になりそう、後半の少しは見ることができるかもしれない、楽しみにしている。

司馬遼太郎の“坂の上の雲”と“吉川英治の”私本太平記“が、私が若いころの大愛読書でした。子規は別にして、秋山真之と足利尊氏の生き方に憧れを感じていた。彼らの行動から感じたことは、上に立つもの”自分に厳しく、他人に優しい“です。”天気清朗なれども波高し“の打電も奥深い意味があるが、それより、”皇国の興廃この一戦にあり、各員一斉奮励努力せよ“とゼット旗を掲げた時の名参謀ぶりが大好きだった。

当時のような大ごとではないが、暫くすると、自分にもこの時の真之の心境を参考にしなければならない時が来ると思っている。

私はインドネシアで仕事の手伝いをしようとした日本人の大部分は、“他人に厳しく、自分に甘い“真之や好古とはまったく正反対の人たちだった。そんな人達の手伝いは、”まっぴら御免“という心境にさせられた。しかし、手伝いをしてしまい、多くのものを与えてしまった。大変,後悔をしている。

こうも、ひどい、人間が多いのかとも思い知らされた。そして、一社は撤退させることに成功した。もう一社は、間もなく、その、具体的行動が始めることができる環境になる。巧妙にやるし、始まれば、私は、早い。撤退するなら、早いうちの方が、ダメージが少なくて済むと思う。

PT,MAKUTAにとって重要な話し合いが行われた。K社が立ち退きの時期を明確にすることです。P社にも寄って、ちょっと気持ちがいい話を貰った。2010年のカレンダーを30部受け取った。前にも書いたかもしれないが、P社のカレンダーの毎月の写真(主にインドネシアの風景)の殆どは、私が提供したものです。その写真の場所は私のウェブサイトhttp://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/Photo albumで見ることができます。

 一日、精神的に大変疲れた。20:00過ぎに家に着いたが、頭の両こめかみが痛む。

12月15日 インドネシアで楽しく暮らす 15−457

斜めからインドネシアを眺めよう 457

 夕方、マリアさんがスラバヤへ帰って行った。私が帰国するより少し早めに帰ってもらった。今度来るのはいつになるでしょうか、早くても3月初めになると思うが、やはり、子宝優先である。この間、また、一人暮らしになる。

 

今日から、本格的に、新工場の準備を始めるが、K社当時の仲間の手伝いも必要になってくるので、100%雇用や給料を保証するわけではないが、チャンスを作ってあげようと、まだ、フリーの人や別の場所に勤め始めている人も、もし、私と一緒に仕事をやりたいと希望するなら、書類を準備して提出するよう伝えた。射出も押出しも事務や品管など全ての部門です。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page09.html

保証人をしているヤント君が日本から冬休みで戻ってきている。日本からの日本人を何人か案内していて、会えなかったが今日やっと会えた。別に話はないが、静岡産業大学を来春卒業して、静岡県立大学の大学院で二年間勉強をすることの報告があった。以前、受験をするという話は聞いていた。希望があれば、保証人は続けるが、資金援助は、もう、しない。6年間面倒を見てきたし、奨学金とアルバイトで十分のはずである。他の人に回せる。

彼は明日からパダンへ義捐金を直接、渡しに行ってくるそうだ。静岡駅前などで募金をしてもらったものを届けるのです。何%かは、既に、日本のインドネシア大使館を通して送ってあるが、残りを届けて、証拠写真やムービーを撮ってくるのです。それを、日本でまた、紹介するのです。

今回が始めてではない、アチェの時やこの前のタシクマラヤの時も街頭に立ってお金を寄付してもらい、現地へ送っていた。静岡新聞などマスコミでも紹介された。

私が、黒幕であることを誰も知らない。

12月18日 インドネシアで楽しく暮らす 15−460

斜めからインドネシアを眺めよう 460

数年しか使っていないので、見るからにまだ新しい。バイクや車の外装部品(プラスチックが主)の塗装、乾燥設備の大掛かりなものが売りに出ている。売れなければ、大部分は破壊して鉄屑価格で売ってしまう運命にある。もったいないこと、この上なし。だから、今、または、間もなく、その設備をしようと考えている会社や人がいれば、活かせる手を相談したいと思っています。

城砦のようなラックが建物全体(900平方メートル)、5階建て一杯大がかりなジャングルジムに鉄板の床が敷いてある、原料や製品の倉庫である。そのラックも鉄くずで売るにはもったいなさすぎる。

買ってもらうのは私の技術です。腕です。

これとは別の話で、もうひとつ、懸念するのは、私が考え私が作った装置で、今までインドネシアではできなかったいくつもの製品をできるようにし、それを作る技術者を育てた。そして、日本から輸入していた会社が現地調達できるようにした。その装置を売るのにこちらから出す見積もりが妥当かどうか第三者の専門家に評価してもらうらしい。

何気なく、事務的必要から、口にしたと思うが、どこの誰がこれらのことを私以上に分かっていて、価格が、幾らが妥当か断言できるのでしょうか。以前にも書いているが、その会社のその部門のトップの人が私に技術のことを聞いてくるくらいですから、其の会社には評価できる人はいない。日本のどこにいるのでしょうか。

 こちらから、提出する見積もりは、自分なりにかなり低価格で見積もりをだす。目的はやはり、手伝いですから、私が、投資して買った本体部分や付属部品、改造費など実質費用の約80%で出すつもりだ。そこに技術費用や指導料は入れない。客先紹介料も入れない。付属の金型や交換部品は無料、工具や検査器具も、無料。もし、それを、購入価格の明細を出せだの、償却がどうのこうのと云ってくるようだったら、客先紹介費や技術提供料の評価を求める。

このことに絡んで、許せない、見逃すことができないこだわりが私にはある。今後、私がインドネシアにいる間にやらなければ、自分自身納得出来ない、インドネシアから離れられないことがある。それは、来年3月から行動を始めようと思っている。

1月24日 インドネシアで楽しく暮らす 15−497(関税免除の反動)

斜めからインドネシアを眺めよう 497

2月1日からスタート。ガルーダ機成田発GA881便内のビザ発給。入国スタンプもおしてくれるのでしょうか。ガルーダを利用するバリへの乗客へのサービスです。それなら、ジャカルタまでトランジットで来る人も同じ扱いになると思うので、入国カウンターの横を素通りして入国することになる。

以前、成田からでなく名古屋からなどバリ経由でジャカルタへ入った人が、バリから来た人はこちらから出てくださいと言われて、これは、もうかったと思い。入国スタンプなしで入国してしまい、不法入国者として、罰金を科せられたことがある。入国スタンプを押してもらわないで、入国しないようにしてください。
 
 EPTEの資格を持っていた会社は、その資格によって恩恵を受けていました。その会社が解散するに当たって、EPTEの資格の返還が必須条件です。それは、税関に解消を申請します。簡単に受理してもらえると思うことは大間違いで、大変厄介なことになります。利益を全部吐き出すくらいの解消資金が必要なのです。利益率が大きかった会社ほど多額を要求されます。それが、法に乗ったものか、違法なのかは、解釈しだいです。解散する会社が、何を主張しも、時間が過ぎるばかりでなかなか進展しないのが、今までの各社の実態です。

 そういう会社は、エージェントに仲介を依頼するのが、当り前の方法ですが、そのエージェント自体が、その会社が主張することはどうにもならないということを承知しているので、手伝っているポーズをとるだけにすぎません。結局、エージャントや税関の職員に利益の半額をアンダーテーブルとして使い、半額を税金として払い、全額を搾りとられたところで、出て行って良い、という、サインをいただくということになる。これを早く納得して早そうすればいいのですが、それを素直に納得できないし、そうしてしまうと本社からの評価が下がるというサラリーマン根性が出てしまうのです。

 そういう会社が頼りにしているエージャントがそう、言っていました。そういう会社の代表者はその事情を分かっていないで、ただ、何もすることが無く、何もできることが無く、何をして過ごしているのでしょう。もう、一年半以上過ぎてまだ解決しない会社も知っています。

 

 今がハイシーズン ドリアンDulianは一個250円。チムペダッCimpedakは貴重でおいしいのに人気が無いので50円です。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0069.html

殆どの日本人は食べることができません。私は大好きです。

 日本大使館です。

1月25日 インドネシアで楽しく暮らす 15−498(EPTE熟知)

斜めからインドネシアを眺めよう 498

 EPTE(外国企業扱いの権利、輸出入関税が基本的になしです。10%の消費税も関係がなくなる。EPTE同士の取引は外国同士の取引となるので、厄介な支払いはない。税関へ売買の報告をするだけである。外国企業が進出しやすいようにする優遇制度です。)

逆に解消するときは身ぐるみ全部インドネシアへ置いて帰れという覚悟が必要です。ですから、一番賢い方法は、余り利益を出さないこと、利益を残さないこと、生産設備など固定資産を増やすことや、従業員への福祉や給料を充実させたり、配当をしっかりやったりして、利益の蓄積をしないことです。ただし、固定資産を、撤退するときに売る場合は、収得した時の価格にかかる関税を払わなければなりません。償却した残額で税金を納めるのではありません。

 一番、考えていない会社は、早く銀行からの借金を返して無借金企業にしようとして、日本本社が気を利かせて、買い上げ価格を高めに設定してしまうことです。借金が無くなって、購入価格を下げようとして下げることはできません。利益調整とみなされて、ペナルティを上乗せされて課税されてしまいます。その仕事を減らすことはできますが、製品の調達を他からにしなければなりません。そうすれば、自立が必要になります。しかし、本社からの仕事をしていれば他の仕事はやる必要が無かった体質はすぐに変換できないのが普通です。そこで、本社は放り出してしまいたいと思うのは自然の成り行きです。そう考えたら,ちょっとでもお金を残そうと考えずに、さっさと、出てしまうことです。粘っても、何のメリットもありません。

減らすなら、長期で少しずつ減らすしかありません。配当を急に増やすこともペナリティを取られます。

 それを知らないで、また知って、これは、閉じてしまおうとして、解散しても、利益を本社や関係会社に送金してしまうことはできません。前に書いたように蓄積した利益を全部インドネシアへ置いて帰らなければなりません。

 一番上手な方法は、利益の蓄積をそのままにしてそれを込みで、株を高値で売って、譲渡してしまうことです。少しでも、日本へ持って帰ることができると思って、解散してしまうことは、結局、何も残りません。

 EPTEについての知識は代々の代表者に引き継がなければなりません。代々何も知らないでは、話になりません。

 Q社から、口頭で、新製品生産準備を依頼された。この仕事は引っ越す先の工場で試作を行う、それまでに、金型をできるだけそろえようと思う。二色成形や窓が沢山あるので、インドネシア人従業員にとっては始めての技術になる。能力を向上させるチャンスでもある。

 今まであった設備を全部解体してなにもない工場になった、今日から、溝掘りが始まった。

こういう状況が各工業団地に何社かある。

 http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

PT.NANBU PLASTICS INDONESIAの予告案内はこちらから。

2月15日 インドネシアで楽しく暮らす 15−519(社内の人間関係)

斜めからインドネシアを眺めよう 519

 2007年後半に、PT.K社がインドネシアに在っても意味が無いという話が起きだし、閉じるなら、買いたいという会社があり、K社長に頼まれて、私が仲介をした。2008年初めから交渉が始まったが、結局、現地の例の下手ノという代表者が、明け渡しのための、手続きは遅らせる(意識的だが、能力的理由で自然でもある)し、それも、間違いが多かった。それに、買い手の会社の人が、何回かPT.K社を訪問しているが、自分でも、何時になるかわからないと言っていたし、目標日も明らかにできなかった。おまけに、買ってくれなくてもかまわないような横柄な態度で接したという。買い手の会社の人たちが、あの人では、会社を潰すはずだよ、と、言っていたし、あの人と、話したくないと言っていたし、太田さんの病気の原因が分かったよと、妙なところで同情してくれた。

 下手ノのもたもたぶりで、交渉は今中断せざるをえない状態になっているが、まだ、買う方(PT.NANBU)はキャンセルしているわけではないので、そのことも確認しながら、明け渡しが完了する日を待っている。そのあとに何社かから買いたいという希望は入っているようですが、優先権は私が仲介したNANBUが持っている。

 既に、最初の交渉から、二年過ぎようとしている。いくら底なしの脳なしでも、そろそろ、目標日くらいは本社に示して欲しいものです。自分がインドネシアでのんびり釣りができるからと言って、いつまでも、知らん顔をしていないでほしいものです。多くの人の邪魔をしていることに気が付いてください。

もう一度、この文章の事実について、反論がある人は、ぜき、ご意見を聞かせてください。

私のパニック障害は、悪くなる方向ではなく、良くなる方向に、常に向かっている。薬を減らす方向でいて、今の、仕事の忙しいこともあって、時には、パニック障害を忘れていて、薬を飲むのを忘れることがある。三か月分の薬が、五カ月位は持ちそうだ。

私のブログを、ぜひ、ジャカルタ新聞やジャカルタ日本大使館、日本領事館、ジャカルタ日本人会の方々にも読んでいただきたいと思う。弱い人、自分で行動できない人なら、自殺でもしかねない状況だと思います。

 読んだ人で、これらの人々と知り合いの方は、こういうことがあるということを伝えていただきたいと思います。下手ノは領事館の人と釣り仲間になったと、妙な自慢をしていたが、そういう人脈があるなら、会社解散についても、私の病気に対する自分の行動について相談したらいいと思うのだが、とにかく、そういうことは思いつかない。

インドネシアで、うつ病になった人を何人か知っています。そして、何人かから相談も受けています。それらの人は、全て、全てです。三四人の日本人の同僚?からかなり厳しいストレスを受けていた人です。私が、パニック障害になる前も、その会社の事情を聞いてほしいと、話をして人が何人かいました。技術的にも、人間性でも優れている人たちです。そういう人がパワハラの対象になりやすいのです。現地人や部下からは尊敬される人は同僚や上司からうとまれるのです。上司や同僚の能力が低いほど、排除の対象にされるのです。

そして、その人たちは全て、間もなく、インドネシアから去りました。

14年間の間に、残念ながら、自殺した人を三人知っています。全員がうつ病と思われます。その時、日本人社会で話題になりますが、間もなく、忘れられてしまいます。多く

の、人は数年で入れ変わってしまうからです。

ということで、私のパニック障害にかかわる話と其の時の環境についての、物語は、ひとまず、終わりますが、自殺願望は一度もなかった私はうつ病ではなかったので良かったと思います。

インドネシアで楽しく暮らす 15−544(高い厚い壁)

斜めからインドネシアを眺めよう 544

スマトラ北西部のNIAS島の伝統的な建物部落です。アチェの大地震、津波で10万人以上の犠牲者をだし、その一年後に、ニアスも大地震と津波に襲われた。平地は大きな被害を受け、数百人の犠牲者も出た。ところが、この部落や同じような部落は何百年の伝統や伝説、言い伝えが生かされているのでしょう、高台に頑丈な住宅を作り、そこに住んでいる。すごいと思う。

EJIPのある会社の方が工場見学に来た。まだ、披露するには早いと思ったが、是非というので、来ていただいた。当然、評価は低かった。これから、きれいにしてゆくにしても、今の速度では、相当、長引くと思う。金を掛けないで、いかに客先に好印象を与える会社にするかという難しい問題を解かなければならない。それも、出来るだけ早くである。半年後くらいが目途になるのではないかと思う。押出もかなり清潔に整った方向へ改善して行く必要がある。

他にも一社訪問、この会社は、医療関係の会社なので、試作品を提供しても短くて半年、長ければ三年ぐらいのチェック期間が必要になる。それでも、サンプルは出さなければ何も始まらないので、出すことにした。

まだまだ、これからいろいろなケースが出てくる。一つ一つ客先に様子なあわせて対応をしていく必要がある。環境にうるさいところ、そうでもないところ、製品を作ることは難しくなくても、うるさいところと応対することが難しい。物作りの話ではなく、環境作りの話になってしまうからである。

内にも厚い高い壁がある。手の打ちようが無い。私がどうこうできる話では無いことなので、押出の一般管理費から、はずして欲しいと願っている。役に立つどころか、邪魔である。無い方がいいという代物です。

私がインドネシアでお手伝いした会社の一つにPT.LIMA TEKNOという会社があります。その会社の大型水槽の枠組みの部品を押出成形で作りました。その技術的な話です。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0225.html

日本NO1水槽メーカー“ジェックス”のウェブサイトです。今後も、何らかの形でお手伝いができたらいいと思っています。

http://www.gex-fp.co.jp/

 インドネシアで楽しく暮らす 15−562(難しい局面)

斜めからインドネシアを眺めよう 562

カラワンのイミグレへ行ってきた。洪水は完全に引いていた、しかし、その爪痕は広範囲で残っていた。避難所(posko)にはまだ多くの人が残っていた。写真のように川の岸辺の木に大量のゴミが引っ掛かっていた。高さは3mを優に超えている。今日の夕方には、また、水位が上昇し、一部、洪水が最発生していると、情報がある。

私が住む、街は、洪水とは全くの無縁である。川は近くにないし、この土地自体が平坦な丘の上にある。台地というほどではなく、なだらかな、ちょっと周囲より高い場所に分譲住宅地やブカシ県の県庁を作った。そういう点では恵まれた場所にあると思う。ここにショッピングモールでも出来れば一躍、大都市に変貌する切っかけになるかもしれない。

そういう意味でも、これから、土地の価格が急上昇する可能性が高いと思う。分譲住宅を買うことにした理由です。

かなり疲れている。毎日、仕事で出かけたり戻ったり、また外出したり、何度も繰り返している。その間にミーティングに出ている。なかなか、ゆっくりする時がない。買いたいものも多いし、直したいものも多い。まだまだ、やらなければならないことが山ほどある。それをわたしの判断で、私がお金を出してやってしまうなら、簡単で早いが、そういうわけにはいかない中に入っているので、かなり、不満だが、遠回りをしなければならない。その、迂回の道にいる人たちの費用も押出が一部固定費として背負わなければならないらしい。かなり、矛盾していると思う。仕事の負担を増やしているものを管理費として費用でも、負担しなければならない。それがなければ、仕事の負担は無くなるし、費用負担もなくなる。−2が0になるのです。こういうことも、疲れの原因の一つです。

どうみても、押出にプラスの働きをしている者は私しかいない。どちらかというと、マイナス要因になっている方が多い。押出の面積はどう見ても全体の十分の一以下である。在って邪魔だった設備の簿価は20分の1も無いように思う。占有面積と簿価の両方からみて、会社購入価格の15分の1以下だと思う。それなのにそれぞれの5分の1を負担させられるらしい。

そういうなら、自分でやってくださいよ。と、言われれば、うれしい。でも、そういってくれないので、困る。

私はメイン事務所にいない。社長室や副社長室、もう一つは何長室でしょうか。三つの部屋がある。事務所に入ってゆくと、正面の奥にある。何となく、笑みがこぼれる。その三つの部屋に私は一度も入ったことがない。こちらから、伺って、話をすることは何もない。直接話すことはない。その前に坐っているインドネシア人の総務や経理の人に聞いたり、確認したり、頼み事をするし、ついでに、冗談交じりに、世間話をする。そのうちの50%以上はそこから、先に進まないことは承知の上である。進んでも、希望通りの速度よりもかなり、遅いことは分かっている。インドネシア人の会話を聞かせてあげたいが、そういう機会も、作らない。

(^_-)-皆既月蝕

斜めからインドネシアを眺めよう 649

 日本では部分月食でしょうね。インドネシアは皆既月食、18;00時過ぎ高速道路の西に向かった、間もなくま正面の月が欠け始め10分ちょっとでかき消され、30分過ぎには元の満月に戻った。久しぶりの天体ショーを見ましたが、あっという間の出来ごとだった。家に着いた時、皆さん、家の近所の人たちも外へ出て、眺めていた。インドネシア人は初めて見たという人がほとんど、感激をしていた。

今日も懲りずに出勤していた。床の色塗り、以前、緑一色に塗って、通路とその他のエリアを分ける白線を引いたが、今回は、通路を赤でベタ塗りをした。土曜日オーバータイムである。

私の仕事は、様々な試作である。アシスタントはいるが、任せきりで知らん顔をしているわけにもいかないので、どうしても、一緒にやってやらなければならない。今回は、三つ重なってしまったので、明日、日曜も仕事である。

この二日間、ゴルフを入れないで、パンガンダランへ大分久しぶりに行ってみようかという気になって、ラシッド君にラフレシアの様子をチェックしておいてほしいと頼んであって、昨日、チャガールアラムへ入ってくれていた。突然のチャンセルで大変申し訳ないことをした。8月に入ってゆっくり出かけたいと思っている。今回は、残念でした。

 

ところで、肝心な試作ですが、今日のところは、今までの最高域から脱していない、もっと、上を狙っているのでなお別の方法を加えて試作を続けなければならない。明日もトライの予定。土日は金型屋へ持って行っての修正ができないので、修正を自分でできる範囲にとどまるが、修正を必要な個所をいくつか記録しておいて、月曜日に修正し、より、求める物にしてゆくというやり方である。

会社の近所にフードコートがある、インドネシア料理だけである。歩いて10分もかからない。ソトアヤムです、これとご飯を食べる。80円(8000Rp)です。日本人でここで食べたことがる人は一年に10人以下だと思う。

Bulan  中止  オーバータイム  月蝕

       6月27日  (^_-)-一人が好き

斜めからインドネシアを眺めよう 650

 他に誰もいない工場の端っこ、一号機で、機械装置とにらめっこ。充実した一日でした。

一人が良い。他人に気を使わないで済むから、気が楽である。

40代半ば、正月五日仕事始めの日、従業員は定時に皆帰って、私一人で、試作をしていて、18:00過ぎでした。原料を交換するために押出機の上に乗って、ホッパーから原料を掻きだし、空にした後、押出機の上から飛び降りた。その時、片足がなにかに引っ掛かり1.3mくらいの高さから大股開きで落ちる羽目になった。先に落ちた左足がボキっと音がした。一瞬、折れた、と、思った。

 見回しても誰もいないことは分っていたが、誰かいてくれたらと思って、見回した。やはり誰もいなかった。どうしよう。いつかどこかに書いたと思うが、タクシーを呼んで当局医の処へ行って、骨折(細い方のヒ骨)の手当てをして、タクシーでまた会社へ帰って、車の運転をして家に帰った、翌日流石に休んだが、翌々日は出勤し、いつものように仕事をした。石膏は一週間後に取ってもらって、ブリキの添え板だけにしてもらった。いうのも、腫れがすいて石膏と足が擦れ折れた時より、擦れがいたかった。二週間後の自分で添え板を取ってしまった。医者へ行ったのは、骨折当日と石膏から添え板に替えた時の二回きりでした。

 

そんなことで、私自身は一人で仕事をする方が、他人と一緒より、効率が上がるし、他人に手伝ってもらうと、手伝い方が、私には、気にいらないことが多い、何か、手伝いましょうかと、気が効く人は言ってくれますが、ありがとう、いいよ、一人でできるから、と言いますが、内心は、手伝ってもらっても、手伝いにならないでしょう、かえって、邪魔だと思う。

 

 従業員には一人で仕事をさせることは絶対しません。必ず二人以上で残業などはさせます。現場の仕事は特に念を押します。責任の問題と言うより、なにかあったときに早期に対処しなければなりませんから。

 

 と言う私も、一人で住んではいない、マリアさんがいる。やはり、何かが私の身に起きた時に出来るだけ、他人に迷惑をかけたくないし、早期発見をしてもらうためである。

しかし、仕事は別です。私に一番の望みは、家族には申し訳ないが、押出機の傍で、眠るようにSurga(Nirwana)へ行けたらいいなと思う

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今日の昼食、MM2100の外のカキリマからブンクスで持ち帰ったソプイガ(Sop Iga牛の肩甲骨部の肉というか筋肉)食前食後ですが、骨が大部分で肉が張り付いている、肉だと思ってかぶりつくとそこも骨だった、ガキッという感じ、ソプブントゥットと味付け、味は同じ、おいしいことはおいしい。ご飯込みで、100円(1万Rp)です。安いでしょ。ご飯は食べきれないほど沢山、油紙に包まれている。ソプはホリエチ袋で持ってきたものをドンブリに入れ替えた。

           

一人  自由  思う通り

      

6月28日  (^_-)-車でぶっ飛ばす

斜めからインドネシアを眺めよう 651

 多忙な一日 よせばいいのに、要望にこたえて、約束をしてしまった。仕事の手伝いの約束です。4〜5カ月先の話ですが、今から話し合いを始めないと客先の要望にこたえることができないので、早いうちに機会を作らなければならないと思ってはいた。

 押出の営業と射出の営業は違うし、一緒に行っても、どちらかの話をしているときにどちらかは黙っていなければならない。押出の説明に射出の人に口を挟まれると邪魔なので、私も、口を挟まないようにしている。それが、分からない人が射出の営業をしても仕方がないし、無駄な時間が多いので、今後は、射出の人が行くと言うなら、私は遠慮することにする。それに、射出の営業は、今、しても、海の物とも山のものとも分からないのだから、客先も、もっとはっきりしてから来てよという態度をはっきり表す人もいる。

 

 ブキットインダーやスルヤチプタへ営業に行った折、チカランバラッのはるか手前から、渋滞になっていた、ここは道路工事中で何カ月も前から渋滞は日常的だった。例によって路肩も車が一杯で緊急車両は中央寄りの隙間を通過するのが習慣になっている。今日もどうだが、白バイが露払いをし、道を開けさせる、その後にパトカーが警報を鳴らしながら来る、その後に救急車(死体を運搬)、その後、関係者の車が点滅ランプで10台以上付いてくる、その後ろに関係ない車がやはりハザードランプを点灯して便乗してくる。私は、そういう車の邪魔をするのが常で、明らかに便乗と分かるので、右へ寄って邪魔をする、そしてわざと速度を落として、渋滞の状態に戻してやる。

 

処で、渋滞の中、のろのろと進んで、チカランバラッの導入道の手前あたりから、渋滞が解消する、これも、決まっている。渋滞を抜ければガラガラ状態になるので、約束の時間に間に合わせるために速度を100Km以上に上げる。5kmほど進むと、先ほど渋滞の車を押しのけ、けたたましく強引に抜いて行った緊急車両が目に入ってきた。追い越していないで、抜かれるばかりなのに相変わらず中央の追い越し車線を占拠している、速度は80Km以下である。瞬く間に走行車線側から、私も抜き去る。

どうも変ですよね。さっき、大騒ぎで抜いて行ったのは何のためだったのでしょうか。渋滞の中で一緒に走っていても同じことだと思う。急いでいないと思うが?緊急車両ではないのでは?約束通りの時間に着かなければならない私の方が緊急車両?

これが、今日初めてではない、以前にも何回もこういうことがあった。緊急車両なら、渋滞から抜けて、フリーになった時には120Kmくらいでぶっ飛ばしてもらいたい。その時もパプーパプーと鳴らせばいい。

 

静岡は鞠子の宿、とろろ汁で有名、にある私の隠居所の居間で孫たち。困ったときの孫の写真

大いに変  のろのろ  緊急車両

 6月29日 (^_-)-蘭の花の写真

斜めからインドネシアを眺めよう 652

 ある日本人の方から、蘭の写真が額付きで送られてきました。ありがとうございます。左右対称の美しい姿をしています。大切に保管したいと思っています。私のブログやウェブサイトに興味をもたれた方で、インドネシアに長く住んでいて、想像するに、フォトグラファーというのでしょうか、かなり、写真に関してあらゆる知識を豊富に持っておられる方のようです。インドネシアの花に関しても大変深く広く知識を持っておられるようです。写真やカメラのこと、蘭等の花のこと、私は、受け答えができませんので、なるほどとお伺いするしかありません。

 それに引き換え、あらゆる機会に写真を、適当にデジカメで撮っている私は、写真に関する知識はゼロです。時間を掛けてセッティングしてじっと構えて撮ることは、全くない。片手でいい加減にシャッターを押しているだけです。なになにを主なテーマにするとか、対象物をなにに絞るとか、ポリシーも全然ありません。いい加減なのです。ラフレシアも何箇所かでうつしていますが、単に子供の頃、植物図鑑で世界で一番大きな花として紹介されているのを見て、大人になったらいつかその場所へ行ってみて見たいと思っていたので、会えてうれしいと言うだけで、花について深く追求しようとか、知識を多く持とうとか、という気は全くない。ただ、求めなくても、話しかけてくれる方がいるので、雑知識として、なにも知らない人より、若干知っているくらいなものです。専門は、40年以上続けている仕事ですから。

 朝は大変忙しい。8:00に朝礼、08:30押出のミーティング09:00日本人スタッフのミーティング、ということで朝の約一時間半は自分の仕事ができないし、会社外の人との話し、電話の応対も出来ない。しかし、Offにしておいては失礼になると思い、Offにはしていない、当然、電話は掛ってくる、少し後で、こちらから電話しますと、言うしかない。その場所がまた行ったり来たりで時間ぎりぎりで走ってか、車で移動する。その状態を他の人はお構いなしである。自転車を欲しい。

コノ忙しい時間が、私にとっては、あまり、重要ではないと思っているので、充実の真反対である。他に重要でやりたいと思うことがあるので時間がもったいないと感じる。会社という組織に入ればそういうこともあるが、それにしても、無意味な忙しさである。

 頂いた写真で、ヤジロベーのようですね。素人がちょこっと撮ったものです。綺麗ですね、と、今の仕事です。

すごい  貴重  主張

(^_-)-些細なことだが

斜めからインドネシアを眺めよう 678

私がゴルフをジャバベカでやる時は、いつも、同じキャディに頼んでいる。彼女にはプレーの後、次はいつ手伝ってほしいといって約束をする。また、朝、バッグを預けるときにタグにその人の名前を書けば、手伝ってもらえることになっている。システムをそう思い込んでいたので、そのようにしていたが、今まで、たまに、突然、キャディマスターからの指令で、他のお客さんの手伝いをしなければならなくなったから、太田さんの手伝いができなくなったと、いうことがあった。

その都度、そのキャディからは、私から、キャディマスターに電話をして、私の手伝いができるようにしてほしいと言われていた。しかし、私は、キャディマスターは必ずチップを要求してくると分かっているので、頼まないでいた。

先日、土曜日、日本人だろうと思う、キャディマスターにブッキングを頼んだのでしょう。彼女から、手伝いできないと連絡があった。

勿論、私がプレーしない時、土日以外などは、他のお客さんのお手伝いをするのですから、彼女を気にいって、次回も手伝ってほしいと思う人は、次々と増えていっているはずです。本人からOKを貰えない人は、キャディマスターにチップを渡して、ブッキングする人も、増えることは当然です。その日も、キャディマスターに2人から予約の申し込みがあって、早い方の人に決めたらしい、また、ゴルフバッグに名前を書いた人が2人、いたとか、私は、事前に、手伝えないと知らされていたので、彼女が書いてやって欲しいと言っていた人の名前を書いた。

 そして、日曜日、彼女の名前を書いた人は私を含めて3人いたとか、キャディマスターに頼んだ人はいなかったので約束通り私の手伝いをした。彼女、早速、昨日の出来事の話をしてきた。

 昨日はごめんなさいから始まって、もう、その人から、私に頼まないと言われた、とか。何故なの?彼女はその人の名前を勿論知っているのだが、とっさの場合に、私の名前を呼んでしまったとか、その人から、自分の名前はなになにだと言われたのにもかかわらず、それが一回や二回ではなく、何回も、私の名前で呼んでしまったらしい。他の人のことが頭から離れない彼女に呆れて、もう、予約しないと宣言されたという。次からも他の人を手伝った時、この手を使って指名されないようにしようと言っていた。

 特に日本人のプレーヤーに気を付けてもらいたいことは、ご自分が気にいったキャディは既にキャディ自身が気にいった日本人の手伝いをしたいと思っている確率が高いのです。そういう人たちは自分たちだけで連絡し合っているのです。キャディマスターを通して幾らかのお金を払って、予約することは、正規の方法かもしれませんが、私はそういう方法は取りません。キャディを泣かせているかもしれません。あくまでも、本人の了解を取ります。野暮なことはしたくありません。

(^_-)-宗教の話はタブー

斜めからインドネシアを眺めよう 696

 全く新しい、最終の金型の出来上がりが、18日になりそうで、遅れている。独立記念日の前に何とか完成させようとしたが、無理のようでした。

                                            

インドネシアで宗教の話、特に批判めいた話はしない方がいいと思う。相手がどんな宗教観を持っているのか、どんな団体に属しているのか、千差万別で、急進派かいい加減派か見た目だけでは判断できないし、ご都合主義の人も多いので、どんな、印象を受けるのか、場合によっては、一気に敵視されるかもしれないので注意が必要です。

おとといから、プアサになっているが、突然の来客で、昨日今日とプアサに付き合わされていて大変です。朝、03:30に起こされて、サフール04:30に再び寝てしまったが、06:00に起こされて06:15には家をでて会社に向かった。グロドックへ行ったこともあって、昼食は抜き、家に帰ったのが、18:00ちょっと前、断食明けの時間でした。やっと夕食にあり付けた次第。真面目に、プアサをしているといちばん往生するのは、口が渇くと。それでなくても歳を取ってきて唾液の分泌が少なくなっているのだから、舌の回りが遅くなる、唇も渇く、インドネシア語を話すのがたどたどしくなってしまう。体も重くなる。食事はしなくても水分の補給はした方がいいに決まっている。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0101.html

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

 

この時期、就寝直前まで、飲食をする。それも、お客さんをよんでいつもより豪華にする。12時間の飲まず食わずで、いきなり大食いをするのです。体にいいわけが無いが、アッラーのお告げだから、宗教行事だから仕方が無い。その行事の健康的な不合理とか矛盾を指摘する科学者や医者、政治家はいない。一般人も批判する人はいない。しかし、自主的にプアサ破りをしている人はいくらでもいる。体調管理を自分でする人は、自然にそうなる。平均寿命の伸びが遅いのもこれが原因していることは明らかである。

体に良くないことを一か月皆さんでやらなければならない理由は私には見つからない。困難を共有し同胞感を深めることが目的だと言う人がいるが、何もマイナスの困難を共有する必要はない、他に共有する前進的な教育的な行動を強いることはいくらでもある。例えば、一カ月間、体力作りに毎日水泳の練習をするとか、理科の勉強を集中的にするとか、病院や体の不自由な人の援助のボランテャイをするとか、色々あると思う。イスラムが生まれたころです。そういうことは、国力を増すために、出来たと思う。しかし、思いつかなくて、マイナスの試練を与えようとしたのですが、戦い以外では、競争力を強化できない結果になってしまったので、他の団体が建設したものを壊してしまって、自分たちのレベルまで下げさせて、対等になろうとしたのです。

 

他の宗教と前進の速度や大きさで競争すればいいのに、前進している他の宗教の足を引っ張って、自分の後ろまで、後退させようとする考え方は、私には理解できません。          

 

  こういうことを書くのに勇気がいること思わせること自体、宗教として、恐れられるのです。そういう宗教は支配者から生まれた宗教です。支配者から逃れようとした民衆から自然発生的に生まれた宗教ではない事を物語っている。

 

インドネシアのイスラムはこの世界で一番ゆるやかな解釈になっていると思う。

 町の一画

 宗教  タブー  ピンキリ

 予約  命令  従う

 夕方のチカラン バラッ付近、ジャカルタ方面への大渋滞、本線までなかなか侵入できない。

 

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