インドネシアで楽しく暮らす 15−42★
斜めからインドネシアを眺めよう 42
インドネシアの車とバイクの売れ方は完全にバブルである。断言できる。二三年後には100%の確率でバブルははじける。今、車とバイクの部品メーターはフル操業の上に、工場を増設しているし、新たに進出の工場建設をしている。MM2100は今、工場建設ラッシュと言ってもいい。私は、間違いだと確信する。撤退するなら決断は早い方がいい、遅れれば遅れるほど退職金が二次関数的に増加する。
巷のバイクや車は燃料費の値上げなどなんのその、年率20%以上に伸びで売れ続けている。全世界的な株価の暴落、不景気など関係なし。バイクや車は道路全体に一杯である。インフラが追い付いていない。
大気汚染にも対応していないなど、すべてが、このまま伸び続ける可能性を否定しているにもかかわらず、日系企業は増産をもくろんで設備投資を続けている。バカなことをしていると思う。
インドネシアで楽しく暮らす 15−43★
斜めからインドネシアを眺めよう 43
順番が違うと思うが、バイクや車はテレビや携帯電話は必需品やステータスとして若者が主体に、もう持っているが、今はそれほどでもない電化製品がこれから、売れだすと思う。冷蔵庫、洗濯機、掃除機などである。都市部にはほどほどいきわたっているが、ちょっと都市部から出れば、持っている家はほとんどない。田舎のレストランやホテルはそれらを持っていない。それで営業ができているが、これからはそういうところから使いだすはずです。日本で昔、白物家電と言っていたものです。
それには電力供給の状態によると思うが。インドネシアの地方の町は暗い、住宅地でも町全体が暗い。家の中も暗い。テレビだけが明るい。本や新聞をよく読めるなと感心するほど暗い。電気代が高いので、契約アンペアーを小さくしないと、基本料金を支払えない家がまだ多いのです。というより、電気代は、日本と同じくらいに高いからです。
年収が次第に増えてくれば、エンゲル係数も下がってきて、電気代を支払う余裕ができてきます。
エアコン(クーラー)は電気容量が大きいので、契約アンペアーを超えてしまうので、設置できる家が少ない。エアコンの普及はまだ先になると思う。
冷凍商品はまだ売られていない。冷蔵庫が普及していないことと、電子レンジはもっと普及していないからである。
インドネシアで楽しく暮らす 15−44★
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生活水準、食の水準は10年くらい前に比べれば確かに高くなっています。が、しかし、地方からの学生や労働者のアパートでなく下宿屋(コスといます)にはエアコン、冷蔵庫は全くありません。もちろん調理場(台所)もありません。ただ、寝るところとマンディ(トイレと水浴び場所)があるだけです。ジャボタベック(ジャカルタ、ボゴール、タンゲラン、ブカシ、カラワン)何十万何百万人の人たちが、そういうところに住んでいます。
風通しの悪そうなくねくね曲がった路地がアリの巣のようにめぐらされたエリアがコスの場所です。排水はどうなっているのでしょうか、排水の浄化槽設備は100%付いていない。ゴミの収集はどうなっているのでしょうか。皆さん、どう、処理をしているのでしょうか。その一角の臭いは独特で慣れてしまうことはない。
当然ながら、会社や学校でマンディや大便をする人が多い。家では止む負えないときだけである。気持は十分わかる。
こういう、場所へ私が行った時はつい、つま先立って歩いてしまう。
私の家も外観や内装を見ただけでは臭いそうもないが、排水口から臭いにおいが部屋に戻ってくるので、排水口のすべてに芳香剤を流しこんである。
インドネシアで楽しく暮らす 15−45
斜めからインドネシアを眺めよう 45
工場のネズミ。インドネシアではネズミはみなさん元気である。私の家にも住み着いているが、どの工場でもネズミは住みついている。大企業で、清潔だろうと思われる工場でもオフィスでもいます。レストランなどは特に多く住み着いています。
ネズミ捕りで捕まえたくらいでは減った感覚はありません。毒入りの菓子などを置いても、なかなか減りません。
どの会社でも困っていることはやはり電線や電話線を食いちぎってしまうことです。前の会社でも今の会社でも被害は起きています。今の会社は装置が古いので汚れがひどいし、密封性が足りないので、被害は頻繁になる、部品が古いため、探すのが難しく、復旧に時間がかかる。
退治しても退治しても後から後から湧いて出てきます。結局、どの会社も一時的に退治をしますが、継続はしません、また、被害が大きくなると退治しようということになります。それの、繰り返しです。
蚊とネズミ、両方とも病原菌(デング熱、マラリア、サルモネラ菌・ペスト・赤痢菌・ウイル病・鼠口症・消化系伝染病)の運び屋です。インドネシアでは日本でいう法定伝染病は根絶できないのは当たり前です。
20000回記念日 \(^o^)/ 2008−10−17
私のホ−ムページにどなたが2万回目に当たったのでしょうか分りませんが、きっとあなたに幸運が訪れることを祈ります。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
を、今後もよろしく。ブログに書いている、エッセイのようなものは別冊
http://space.geocities.jp/enplaindonesia/index.htm
に纏めてありますから、こちらもよろしく。
6月24日 インドネシアで楽しく暮らす 15−282
斜めからインドネシアを眺めよう 282
朝、05:00に家から出発。ジャカルタのホテルでお客さんをピックアップ。PT.MAKUTAを訪問、マクタの様子には驚かれたと思うが、立派に利益を出しています。そのあとJ社に送った。数年前にこの会社から逃げだした。今回も入らなかったが、今の経営者は私と話ができないでしょうから、遠慮した。マッカーサーではないが、再び戻ることになりそうだ。巡り合わせというか、人生とは面白いものだと思う。
夜、ジャカルタのホテルで打ち合わせ。大変疲れた。今日も先ほど11:00に家に戻ったばかりです。さて、いつ、どうなることでしょう。大変疲れたが、大変、有意義だったと思う。3時間半に及ぶ話だったが、目的と主な話は予想どおりだった。お客さんの頼みは、私として十分理解していたし、おっしゃる通りだと思うし、そのようにしていた。 すべてが早期に済ませることができるように側面から応援するが、本人がやる気でやってもらわなければできないことは、応援をしたくても出来ない。とにかく早くおわることを祈る。
ジャカルタのホテルの喫茶や夕食の値段には、改めてびっくりさせられた。紅茶やコーヒーが税込みで、6万Rp(600円)夕食はバイキングで、飲み物はお茶で、45万Rpでした。先日行ったロサリ コ−ヒー プランテーションとほぼ同じくらい。自分で出しては絶対行かないぞと思った。
未だにジャカルタにあるホテルに泊まったことはないが、外国人は(私以外)あまり高いとは思っていないのでしょうね。一杯だった。
6月25日 インドネシアで楽しく暮らす 15−283
斜めからインドネシアを眺めよう 283
今日もジャカルタ、スミタマスの事務所でミーティング。昨日、今日と車での移動が長く、渋滞にはまることが多く、スリーインワンに気を使わなければならない。ジャカルタはもう十分という感じだった。
それと共に、なんだかプレッシャーが増えてきたことを感じる。大変だぞ、これから。
作用反作用という用語は物理でよく聞く。一般的に、押せば、押し返す力が働いてバランスが取れる。この例えが適当かどうかは疑問だが、人間社会にも当てはまるような気がする。
今、インドネシアで起きている現象は横へ置いておき、私が小学校のころを思い出す。5,6年の時の同級生で、始末が悪い、体が大きく、腕力があるガキ大将がいた。子分数人を操って、女の子や体が小さな男の子の物を自分のものにしたり、隠したり、勉強の邪魔をしたり、当時、学級委員長をしていた私としては許すことはできなかった。負けることは分かっていて、彼らに対抗した。校舎の裏に呼び出され、数人に囲まれ、ガキ大将の命令で、私に殴りかかってきたこともあった。授業中に、私の消しゴムをいきなり取り上げて、ずっと前へ放り投げたので、パンチをクラヤせたら、その後、取っ組み合いの喧嘩になった。そんな、やつが、中学生になって、二年の時、他から来た番長にコテンパンにやられて、見る影がなくなった時、私が、その番長連中に話をして、めちゃくちゃなことをするなとたしなめた。同級会や同窓会には出てこない、その彼は今何をしているのでしょうか。小学校の時の取っ組み合いで彼に深くかじられた三本の傷痕が左手の甲に残っている。其の頃のことを思い出すたびに、気まずい思いをしているに違いないと思う。
7月13日 インドネシアで楽しく暮らす 15−301
斜めからインドネシアを眺めよう 301
斜めからインドネシアを眺めよう 269の続きというか、その後です。
荒涼として赤い土埃の土地に工業の始めての海外製造工場が出現し、そこに装置を入れ、各種準備を手伝った一人として、現在残っている当時を知っている唯一人として、現在、そのPT.NHの外観は、見る影もない。寂しい。夕方、6時に前を通ると、バイクが一二台、セキュリティのバイクが、である。車は見当たらない。聞くところによると日本人は遅く入って三時前にはどこかへ出て行ってしまう。植木や花壇は伸び放題、成長が早い南国の木が伸び放題、荒れ放題にしてある。どうもみても、もう、閉じてしまった会社の雰囲気で、ただ、警備員がいるだけに見えます。
N社長が赴任してきたときには手入れが悪いとK社長を批判して、すぐに、枝を手入れし、花壇を手入れさせた。総務担当のインドネシア人を交代させもしたとか。今はその時以上、はるかに荒れている。
現N社長が来た、この四年間は衰退の一途を辿った。遅ればせながら,本社社長命令だったのでしょう。M常務も来て、大名行列で形だけの、営業をしたが、ポーズだけで、こちらにいる日本人には、方針転換を指令されたのにもかかわらず、昔ながらの下請けをするなと云い残して帰ったとか。
仕事をしない日本人には願ってもない命令だった。其のとおり、どんどん仕事が減っていっても何もしようとしないし、自分がこの会社を再興しようなどとは全く思いつかないし、行動はない。
本社は匙を投げた。2007年3月のことである。進出してから11年弱である。撤退を決めた。仕事をしない日本人は閉じる仕事もしないだろうから、いつ引き上げるのでしょうか、早ければ早いほど良いことは決まっている。日本人は何もしなくてもいるだけで100万円かかる。
まだ、撤退していない。いつ引き上げるか、楽しみである。この文章は、この前、すでに、何もしない社長から組合に対し、クローズの方針を告げたので、書いている。具体的に動き出したことが表面に出てはっきりしたからです。
そして、先日、退職金について、妥結し、7月末で、正規社員はいなくなる。
7月14日 インドネシアで楽しく暮らす 15−302
斜めからインドネシアを眺めよう 302
何となく、ある会社で検索してみた。びっくりした。投稿内容を見て鳥肌が立った。なるほどと思った。掲示板を見て、“なにこれ“と思った。
この会社の成功は、創業当時の何人かの侍が、社長の先見的商品選定能力と、それを売り込む宣伝方法(プロモーション)の勝利だった。アメリカ製の商品の国産化に関与し、私もP社長に惚れて、日本で始めて作り上げた、その商品(エッジンッグとグロメットの6ナイロン押出成形品)は独占的に40年間売れ続けている。
しかし、その当時の、社風は今や大崩壊し、見る影もない。M常務を重用した時から始まった。その後も,ヒットしそうな商品を扱ったので、あたかもそのM常務の手柄と自分が錯覚した。
創業者も錯覚した。追いだされた操業当時の侍は独立開業して立派に自立している人が多い。それから、十数年今の社風になってしまった。社長がゴムタイヤの浮き輪を売っていたころから、40年以上、外から見てきた私にとっては歯がゆい限りです。
インドネシアの工場が象徴的でした。パラハラも完全に本社スタイルが持ちこまれました。社長の目が届かないので、なお、濃縮されて、あからさまだった。私も、インドネシア人も全部が、怒鳴り声に震えあがった。
唯一私を応援してくれた、支えてくれた、副社長がM常務を排除して、その役割を果たさなければ、とんでもないことになると思う。まずい風評が広がるばかりです。原因ははっきりしています。
投稿は内部告発が明らかに多い、たまりかねて投稿したのでしょうが、なるほどと、納得しました。パワハラはインドネシアだけではなく、本社の方が元祖だったと納得した。M常務の行状をたしなめる人がいないどころか、非難すれば、会社にいられなくされてしまう。
7月15日 インドネシアで楽しく暮らす 15−3032
斜めからインドネシアを眺めよう 303
私が起こした会社も私自身も高額納税者として何年間も公表され、社会的貢献をしてきた実績があっても、この会社のために尽くそうと望んでいても、社風がインプットされた、全くの素人さんサラリーマン現地社長からパワハラを受けるのです。何も、しないでほしいといわれた、机の位置も日本人としては特別待遇の皆さんからぽつんと離れた位置におかれた。すべて、M常務の指示だった。M常務が来るたびに私の机の位置が部屋の隅に方に移動された。最後には、広い事務所の入口近くのコピーファックス機の横で、皆さんが良く出入りする賑やかな場所だった。他の日本人は奥の窓を背に事務所全体が見渡せる場所で、彼らのコンピューターモニターは他の人が見ることはできない。ゲームをしているのでしょう。右手のマウスだけを激しく動かしていた。
インドネシア人が呼びつけられて怒鳴られていた。私も呼ばれて机の前に立たされ、「無責任でしょ」「半年以上も200万円以上の製品在庫をどうするつもりだ」と云っている。私は、何のことか分からない。「何の話ですか」と聞いたら、「分かっていないのか、ムルパティ向けのパイプだよ」私は?マーク、まったく心当たりがない、私の頭にインプットされているのは、前回注文を受けた分の余りで、せいぜい、2万円ほどの在庫しかない。それも、間もなく、引きとってもらうことになっていた。「知らないでどうする、どうするつもりだ」となおいう。私は、丁重に「間違いだと思いますよ、もう一度確認してください」と、お願いした。「私が、間違っているというのか」と言われた。
何をいってもしかたがない。頭に血がのぼっているし、思い込みは、その時消すことはできない。「分かりました」といって、その場をはなれた。横にいた他の日本人も、満足げな顔をしていた。ご本人2万円と2万ドルと階一がいしているのでしょう。原料の10倍の価格で出した見積もりが受け入れられ量産になって大儲けと喜んでいたが、私の指摘で、実は見積もりの数字の位置を間違えに気付かず、原料価格で見積もりを出し、一年以上も私が指摘するまで気がつかなかった人です。また、0.15ドルのはずが0.05で出して、それも、私が指摘するまで気がつかなかった。両方とも、私が指摘したことを逆切れで怒っている。面白いでしょ。怖いでしょ。そういう人が強烈なアワハラをするのです。
その後、一週間以内に2万円ほどでしたが客先に納品して在庫がなくなった。200万円のことは何も言ってこなかった。それからしばらくして、また、別の話で、呼ばれた。その話も、また、まったく心当たりがないことだった。
現在はその会社の外にいるが、私が云った覚えがないことで、私が言ったと云って、被害をうけているかのような報告や話をあちこちでしている。気の毒というしかない。パワハラをした仕返しをされるとう恐怖心が潜在するのでしょう。自分の無能力や無理解力、無行動力を自覚し、それに恐怖を感じた方が周りを安心させると思います。
先ほどジャカルタから戻った。三年ぶりのジャカルタ、ブロックMからでした。丸福で元気会。年の一回ほど20人くらいが集まるが、プラスチックの射出成型と金型の関係の人が多い。いつもその中の数人を知っているだけで、大部分の方は、初対面か、以前に名刺交換したことがあるが其れきりで私が覚えていない人である。相手は覚えていてくれますから、話が難しい。他の人がその人の名前を呼ぶときを、待っていて、知ってからは、盛んにその人の名前を云って話をします。
夜のブロックMは私にとっては、お金の無駄使いで、お金の使い方が私の考えと全く反対なので、嫌いな場所である。カラオケは好きだから、もし、行くなら、一人で、コーヒーかコーラを飲みながら、一人で歌い続ける。それで満足するが、女性はいらない。一番の新人を呼んで、歌のセッティングをしてもらうだけです。店への支払いは最低にし、お客がまだ、付かない新人女性に10万Rpチップを渡します。でも、それも5年以上前の話です。
7月16日 インドネシアで楽しく暮らす 15−304
斜めからインドネシアを眺めよう 304
スカルノハッタ空港からです。22:15発JALです。
前にも書いたが、失敗した原因はQ常務にある。M常務が成功を恐れ、成功を妨げたのです。H工業の従業員の多くは、Q常務ににらまれたらH工業では生きてゆけないと、思わされている。それがもう、20年以上続いているのです。Q常務と同年代か前後5歳位の人たちはそれぞれに自立し、会社の一部を支える能力を持っているし、何人かの部下に仕事を指導できるが、Q常務はそれらの人たちを無視し、その人達の部下を懐柔して、その人たちのいうことを聞くな、自分がやれと云ったことだけやれと命令し続けた。命令を効かない人達は止めるように仕向けられて辞めざるを得ないようにした。その人達も孤立し能力を殺され、M常務は「彼らはなにも出来ない」「この会社にいらない」と云い回し、部下たちにもその人たちを批判するよう仕向けた。創業時からの侍や、私のように、社長が採用した、外からきた、能力のある人達も、思いもよらない個人攻撃にあって、苦しい立場にさらされて、辞めざるを得ない状態にさせられていった。
私も、インドネシアでいきなり、Q常務の洗礼を受けたということでした。その様子は一年後くらいに一通りやり方が、明らかになった。Q常務がインドネシアに来たとき、私は一度も声をかけられなかった。たまたま、会ってしまった時は、一こと二言世間話をするだけでした。他の日本人は食事に誘われるし、インドネシア人の射出成型の人も、昼食会に誘われるが、私は一度も誘われたことがない。私の担当部門の押出しのインドネシア人も誘われなかった。
生産開始の前から、ラベルは日本語で印刷せよ、カートンボックスも全て日本語でと指示された。また、メモなどインドネシア語や英語の物を絶対ポリ袋やボックスに入れてはならないと再三指示があった。何のためでしょうか
インドネシア人も差別された。私の生徒たちは、給料も地位も低く設定された。
完全無視であった。これほど、きつい、典型的な職場いじめ(パワハラ)はないと思う。
自分でおこした会社の社長を二十年以上やってきた私も、立場によって、こういう目にあうのです。こういう世界もあるのだと思わされた。
今、インドネシアから出ます。ジャカルタ、スカルノハッタ空港から投稿しました。いつもより早めでした。
明日から日本滞在で、自分がインネシアで押出成形を統合する為の準備と足元固めをします。25日まで滞在です。
7月17日 インドネシアで楽しく暮らす 15−305
斜めからインドネシアを眺めよう 305
丸子の家からです。
この会社が撤退した後に入りたいという会社があって、私が仲介をした。其の会社にアドバイスしたことは、何もしない現地の社長さんがしなければならないことを極力減らすことです。やってもらうことが多いと、開城が、それだけ遅くなるし、いつになるのか目標の日もはっきりできなくなるからです。できるだけなにもしてもらわないで、組合との交渉だけで、後は何もしなくていいという条件を提案したのです。
そのように、期待していますが、彼らにやってもらうことがおおくなればなるほど開城は先延ばしになる、並行して進める能力がない。
結局、この会社の操業前からかかわり、状態について批判し続け、なんとか、インドネシアでやっていけるように願ったが、最初の方針から失敗だった。その方針についても批判したが効果はなかったどころか逆にパワハラにあった。
約14年で、撤退することになった。もっと早い撤退を提案していたが、やっとという感じです。本当の撤退はまだ先になりますが。結局、この会社が本社やインドネシアに貢献したのは押出し部門だけでした。最初から最後までかかわった私としては、別の名前の会社としてまだまだ、かかわります。まだ、これからです。
これからが面白くなるのです。
組合員のことは今月中旬には、私の組合員に対するアドバイスが功を奏し、解決しました。と、こういうことですが、現実のクローズまだ一年先まで実現しないでしょう。
なんだかんだと、新たな障害が出てきます。その障害が閉じる工程で出てくることを、あらかじめ調査していないし、とっくに始めていなければならにインドネシア国内の客先にも、閉めるなどという話はないと云い続けていたし、今も、話をしていない。
工業団地の事務所へも話をしていない。なにも知らないので,その都度、そのことで準備し処理しなければならない上に、インドネシアですから、役所の動きも遅いし、アンダーテーブルも生ずる。私にははっきり見えます。組合員は私のアドバイスを素直に聞きますが、経営側は私がアドバイスすると、それ以外の方法とります。だから、面白い。わざと、遅らせるなら、急がせれば早くなるでしょうが、わざとではなく、彼らなりに気分は努力して、完全、クローズまで、一年以上、方法が見つからないまま、時が過ぎるのです。早くも2010年末でしょう。
静岡駅前に家康の銅像?が立っていたのにはびっくりした。こういうことが好きな人がいるんだな、立てたい人がいるのでしょう。富士山静岡空港のミニ版ですね。無くても何の問題はないと思うのだが。無ければならないと思う人は少ないと思うのですが。
7月18日 インドネシアで楽しく暮らす 15−306
斜めからインドネシアを眺めよう 305
そして、私は匙を投げた。両本社から仲介を頼まれ、紹介し、クローズ後、買収する計画が進んだが、途中で、私自身が賛同できなくなった。というより、入ることを拒否した。
交渉の過程で、どうしても、彼らに任せなければならないことが三点残ってしまう。これを片づけることは彼らには出来ない。終わったと云って引き揚げた後に入った時、必ずまだ済んでいないことが残ってしまっている可能性が高い。そうなると、厄介なことに巻き込まれる心配がある。要するに、彼らを信用できないのです。
一番の理由は、開城がいつになるかはっきりしないことです。もう、何か月も待てない生産量になっていますし、これから、すぐにやらなければばらないことがたいへん多くなっているからです。
しかし、今の担当者では目標日の決めることができないし、決めてもらっても信用ができないからです。
そこで、白紙撤回です。そして、他の会社が名乗りを上げれば、どうぞ、ということになった。
この会社、まだまだ、インドネシアに存在するでしょう。日本人が無駄金を使って滞在しているが生産活動はありません。EPTEはどうするのでしょうか。閉めるに閉められない状態が当分続くでしょう。ベアチュカイのことでも、ローカル取引の解消についても、交渉を始めていないし、方法も知らない。私は、横目で、いつになるか分からない、クローズを見届けることになるでしょう。全く関係ないので、いつまでかかっても構いません、どうぞごゆっくり。
もう、PT.H社とPT.I社は、out of thinkingです。Going on my wayです。自社、客先、従業員の利益を考え、過去の会社は捨てました。B社については眼中にありません。
ジャカルタ中心部、私もよく通ったことがあるし、高級ホテル「JWマリオット」では食事をしたことがある。「リッツ・カールトン」バイキングというか一定の価格でいろいろな国の食事ができる。人気のホテルです。車がロビーまで、突っ込めないように、太いコンクリートの柱が林立している特殊なエントランスいなっていた。今回は人による自爆テロのようで、泊まり客だったようなので、防げなかったようです。
富士山静岡空港の直ぐそばでの、今日のゴルフは天気が悪くちょっと寒いくらいだった。霧がかかっていた、今日も欠航が多いのでしょう。頭上を飛行機は通過する頻度は少なかった。
ゴルフは、でも、楽しかった。インドネシアで仲間たちとやっているのと同じだった。
7月28日 インドネシアで楽しく暮らす 15−317
斜めからインドネシアを眺めよう 317
高校時代の卓球部のことを書く。二年の秋からマネージャーになった。いろいろな雑仕事をしなければならない。予算が限られているので、代々、藤枝の何とかいうスポーツ店で用具を買うことになっていた。というのは、領収書の値段から30%引きで売ってくれることになっているからです。裏金作りです。予算を要求する時に前年度の実績や成績に基づいて算定られるので、領収書の金額は多い方がいいし、余剰金を多くした方がいいからです。高校の時から、こういうことを勉強して、国や静岡県や市の要職につく人が多いのですから、そこでやること、考えることは、そんなものです。
完全に自主運営でした。講堂?体育館?が使えない時には城北へ電話してのこのこ出かけて行ったものです。先方も喜んだ。
野球部、バスケ、硬式テニスは、そのころでも、全国区級でしたから、クラスの先生も他の学校の先生も学生を知っていた。なぜか、一年時彼らと同じクラスになってしまった。一からビリまで、職員室沿いの掲示板に貼り出された実力テスト結果は下の方に集まっていた。運動能力テストは上位にいた。私も、そういう位置にいた。
よく、試合で授業を欠席する。しかし、出席扱いになる。どういうわけか私も一年の時から、体育祭などの県大会に出場する為に年に二三日休む。私の場合は職員室へ行って、休む許可をとりに、その授業の先生のところへ行くと、「君は何をやっているんだ?」必ず聞かれた。「卓球です」と答えるが、どうも信じてくれないようで、近くに担任や顧問の先生がいれば、そちらをちらっと見て、応援を頼んだものでした。
今はどうなっているか知りませんが当時は、学生が先生の教室に移動し、自分のクラスにいるのは朝と帰る前に集まるだけでした。だから、欠席はそれぞれの専門の先生に届けなければなりませんでした。中途半端な強さの私がどんなスポーツをしているのか知らないのです。
普段は全く、練習にも、市内で休日にやる試合にも、見向きもしない、顧問の先生が、平日、静岡市内でなく他の町でやる試合には何故か着いてきていた。学校を休めるのが、楽しみだったようでした。気持は分かった。
8月18日 インドネシアで楽しく暮らす 15−338
斜めからインドネシアを眺めよう 338
今日もタンゲランへ行って、中古のプラスチックリサイクルの装置をチェックしてきた。リサイクルの装置が主だったが、価格的に厳しいのでちょっと考える。リサイクルの仕事は私自身経営したことがなかったが、生産の律速は粉砕に依ることは明らかで、粉砕機の充実を図ろうと思う。
親の収入が多い子どもの方が学校の成績がよく、高学歴であるという、調査は、私が大学のころからあって、結果は一貫して変わっていない。
その発表の都度、親は子供の教育にお金を掛けなければならないと思う。これは、まったくの勘違い、結果の理解の仕方が間違えているし、発表する方も言葉が足りない、というか、もっと突っ込んだ調査をしなければならない。
事情はインドネシアも全く同じです。インドネシア人の一般の人は、上級の学校には金持ちの家の子供しか行けない。学校へ行くにはお金がかかり過ぎると。そう思っています。勿論、其のとおりである。勉強するには、只というわけにはいきません。投資が必要です。
それは間違いないので、親が資金多く持っているほど、子供はそのことを気にせず、勉強だけに集中できる。環境も親が自然に整えてくれる。
ここで、思い出すのはフィリピンで戦死した母親の弟、私のおじさんが歩兵(亡くなった時は大尉だった)のころ使っていた、背のう(茶色の牛革のランドセルのようなもの)を母親からもらって、小学校の時、ランドセルとして使っていた。私一人しか、ランドセルのようなものを背負っている子供はいなかった。誇らしかった。他の子は、ズック生地で母親が縫った手提げ袋か、肩掛けバッグを使っていた。大きくて重かったが、中学生になるまで使った。
ト言うのは、中学生になった時、牛革製で黒いカバン(これも他の子は誰も持っていなかった、ほとんど肩から斜めに掛ける布製が普通だった)買ってくれたので、それを使い始めたからです。
8月19日 インドネシアで楽しく暮らす 15−339
斜めからインドネシアを眺めよう 339
昨日の続き、天気予報も同じで、今年は梅雨明けが遅れた、熱くなるのが遅れた。天気予報士の説明は、こういうとき、南からの高気圧の勢力が弱く、梅雨前線を押し上げる力が弱かったと。そんなことは分かっている。私が知りたいのは、今年は何故、そうなったのか知りたいのです。もしそれを説明してもらって、私が理解すれば、勿論、その次のなぜが生じることは確かですが、現状を説明するだけで、終わってしまうことは、辞めてほしいのです。
なぜ雨が降っているのか、今、雨雲が頭の上に来ているからです。こんな説明は止めてほしい。
金持ちの子供の方が高学歴。これは、統計的に分かっています。万国共通です。それは、何故かを調査してほしいものです。そしてそれを発表してもらいたいものです。
賢さや勤勉さは勉強ができる、出来ないに関係があるのです。高収入を得られる、得られない、かも関係があるのです。親が高収入ということは、勤勉で賢いのです。またその親も、勤勉で賢いのです。高学歴なのです。親が勤勉で賢いから、その子供も、勤勉で賢いのです。宝くじの一等賞に当たった人の子供が高学歴になる確率は低いとは思わないが高くもないでしょう。
もちろん例外はあるし、統計的な確率です。DNAと相関があるのでしょう。ですから、単に子どもの教育に使うお金の額と高学歴、高収入は比例しないでしょう。運動神経やプッツンしやすい、そうでもない、ということもDNAに関係があるのでしょう。
結論は、自分や配偶者の子どものころ、若いころのいろいろな能力や性格と子どもの其れは似たり寄ったりだから、子供に何かを押しつけても意味がないということです。
私は両親に恵まれたと思う。小学校の三四年のころからそう思っていて、いまでもラッキーだったと思っている。終戦のドサクサで、真面目すぎて、金儲けは下手だったから、貧乏だったが、自分で申し込んで、奨学金を受ける資格をとる能力をくれたのだから。
斜めからインドネシアを眺めよう 340
奨学金は三分の一を返せばいいという特別なものだった。いま、この制度が維持されているかどうかは知らない。私はその三分の一は大学を出たと同時に返し始め、3年ほどで全額返しました。しかし、三分の二は返さなくていいので、余分には返しませんでした。育英会に寄付もしませんでした。
その代り、税金は毎年新聞にのる程個人でも会社でも払い続けました。健康保険や厚生年金などは、これ以上はないという最高金額を払い続けました。
ですから、国は私に特別奨学金を支給したことは間違いではなかったのです。税金の使い方や年金の資金配分には非常に不満ですが。こんなことなら、所得をごまかして、自分の資金をもっと蓄積して、自分で自由に使えるお金を残しておけばよかったと思っているくらいです。犯罪になりますが。
親に似て、正直すぎたが、それでも、多分、一般の人の平均よりかなり高額な資金を蓄積することができたと思っているので、また、特殊な技術を持っているので、そのことを通じて、親の世代が迷惑をかけた国々の人たちに個人的に、役に立てようと50歳から、それを実行する行動に出たのです。
一億円以上は其のために使ったでしょう。でも、その効果はあがっていると確信しています。ムダになっていないと自己満足している。
8月22日 インドネシアで楽しく暮らす 15−342
斜めからインドネシアを眺めよう 342
奨学金以外には国や公共の世話は直接受けていない。一切世話になっていない。銀行から借りてくれと言われて借りたことはあるが、中小企業保証協会や開発補助金など子申請したことはない。つい、二年ほど前にJODCの派遣技術者に登録したが、内容を知って、システムや存在自体を否定している。登録の更新はしないので消滅しています。
一方的に多額の税金を支払っただけだった。1日15時間仕事して、そうして利益を上げた内の70%位は国や地方に税金として納めた。自分が自由に使えるお金は15時間のうちの4.5時間だけだった。率には不満だったが、それでも、溜まって行くのだから仕事をし続けた。
私の高校の同級生や先輩、後輩の中に静岡県庁や市役所や国の出先機関で仕事をしている人も多かったし、今も後輩が重要なポストについている。市会議員や県会議員、国会議員もいる、中には大臣なった人も何人かいる。同窓会や同級会、クラブのOB会などで会う機会がたびたび有ったが、彼らがみんな口を揃えて云うことは、「俺たちに何かを頼むようになったら、お仕舞いだよ、俺たちの手伝いで自立した人や組織はない、永久に頼り続けることになる」と、「永久にたかり続ける」と、オマケに、「必ず、個人的な金や品物がくっついてくる」と。一般の人には言えないことです。私も、彼らに何かを頼むよいななりたくないものだ、と、思っていた。
逆に、私の方から、税金の使い方が気に入らないから、個人が選んだ、個人や団体に寄付した場合は損金として認める法律を整備してほしいと、頼んだが、無駄だった。そりゃそうだ、彼らは税金を握っているのだから立場が保たれている。それが少なくなれば、立場も弱くなる。
18時過ぎから、NHKの思い出のメロディを見ながら、ほとんどの歌を一緒に歌った。大学を出て一年後から、三島の東洋プラスチック精工へ勤めていた時、彼女が卒業し横浜へ就職したので、東名を使ってパブリカでよく通った。横浜の氷川丸周辺は妻とのデートコースで、懐かしかった。
8月23日 インドネシアで楽しく暮らす 15−343
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現在は、十数年前に私が作った装置と同じものをPT,MAKUTAでも使わせているので、私が以前作った装置を持っている会社と競争してもいたずらに価格の下げ合いになるだけなので、それはしない。
税務署から一度だけ家まで乗り込んできて外国からの送金所得についても調査をしていった。三人の若い署員たちだったが、全員が高校の後輩だった。署長は高校時代、の同学年だった。海外からの送金について、調べたいと云っていたので、それを使った領収書とインドネシアへの送り状の控えの束を見せた。技術指導費という名目で私の日本の口座に振り込んでもらっていた一か月45万円は、すべて、金型や装置に変えてインドネシアで指導していた会社に送っていました。それで、納得してもらった。
その装置が、今は、“豚に真珠”の場所にあるのですから、もったいないし、私のお金や技術が無駄になっているのが寂しい。必ず有効になるようにするでしょう。
三人でゴルフをすることになっていたが、ドイツ人が一人で来ていて、頼まれてジョインすることを承知して、一緒にラウンドをした。ミュンヘンの人で、ジャバベカの会社に出張で一週間ほど滞在しているという。体格は立派だが、飛距離が全く出ない私より飛距離が短い。私より飛ばない人に始めてお目にかかった。世の中には色々な人がいるものだと思った。久しぶりに英語でゴルフをすることになって、これも面白かった。ドイツ語も勿論混ぜてである。
9月10日 インドネシアで楽しく暮らす 15−361
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Face bookがインドネシア人の若者の間だけでなく、会社員、公務員のも蔓延している。
HPでもできます。HP“hand phone”インドネシア語で”ハーペー“と発音します。携帯電話はインドネシアではこういいます。HPは日本では”Home page”だと思いますが、インドネシアではホームページとは言わないで、”Web site”と云いますから、混乱はしません。
いわゆるメルトモの手段です。夢中になって、仕事時間中でも静かにパソコンにむかっている人は怪しい。日本人のおじさん連中は、出来ない人がほとんどなので、静かにパソコンにむかっている場合はゲームをしている。そして、フェースブックについて知らないので、禁止などの対策もとっていない会社が多い。
ところで、静岡高校卓球部OB会のブログの写真、体育館兼講堂ですよね。コウ(漢字変換ができない、仰という文字の人偏がない)高杯の開会式か修了式の時に合宿補助金を渡すところでしょう。
入学式はここでした。当時の校長福山富雄先生、間違えていますか?とにかく、おめでたい名前の方でした。挨拶で、この建物は、新築で二年目です。借金コンクリート製です。と、精一杯の冗談を発していたことしか、覚えていません。
ここで、舞台の裏の下が部室になっていて、舞台の左側から体育館へ入って舞台側四分の一に卓球台を三台?置いて練習をしていた。右側四分の一が剣道部、柔道部は舞台の裏側に道場があった。舞台から離れた半分はバスケットボール部だった。彼らは、泣く子も黙る、馬渡先生の指導のもと国体やインターハイで全国制覇の常連だった。殴られ、泣きべそをかきながら、厳しい練習に耐えていた。オリンピック選手になった先輩もいた。
それに比べ卓球部の練習は完全に自主運営で、コーチがいるわけでもなく、私としては中学からやっていたこともあり、一年の最初から、先輩を押しのけて団体戦のメンバーに入っていたので、呑気なものだった。先輩連中も一人は小中学校の一年上だったし、出身中学校は違っても、中学の大会で見知った人たちだったので、緊張感が全くなかった。矢の如く過ぎ去った場所でした。
自由闊達、青春そのもの、世にいう、当時の運動部の上下関係の理不尽など、欠片もなく、先輩の自転車の後ろに乗せてもらって、呉服町の魚与旅館(今は旅館といわないかも)の大先輩の家にお邪魔して,大御馳走していただいたこともあった。ついでに、バスケットの塩津さんの店によって高校の話をして、小饅頭をせしめたこともあった。野球部の石田君の蝶屋にも何回か寄って、豚カツを御馳走になった。ご本人達は知らないと思う。10月22日 インドネシアで楽しく暮らす 15−403
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二回目の歯医者(ハラパン クルアルガ)でした。結局、前の下の歯を二本抜いてしまって、いつも、迫力がない顔が、間抜け顔になってしまい。其のうえ、空気が漏れるので、発する言葉が奇妙に聞こえる。一週間後に型を取り、二週間後に入れ歯をすることになっている。
サンプルの提出をした。PVCチューブである。もう一社、訪問して、サンプルを届けるのだが、歯が戻って、だらしない顔が、少しでも、回復してからにしようと思う。
大学を卒業して最初に就職した静岡県清水町柿田の東洋プラスチック精工で最初の上司として、お会いした、塩崎孝太郎さんの娘さんから、思いもよらない便りがメールで届いた。私のウェブサイトの
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0067.html
の“無から無へ”という項で、先輩のことについて書いていますが、それを、たまたま、読んで頂いたのでした。
私の年齢は、先輩が亡くなった時の年齢を超えた。私の技術が現在に至って、インドネシアにまで、広めようとすることができているようになっているのは、先輩の生き方が良くも悪くも、大変、刺激になっていることは常に意識をしている。もう、35年以上前のことである。
その娘さんを、私が、覚えているのは、彼女が5〜6歳のころだと思う。彼女は私の顔をおぼえていないでしょう。私としては、彼の子供さんにとっても、父親の影響を大きく受け継いでいて、意識をしていることを、意識していなかったので、子供さんや奥さんが、今どういう生活をしているかなどとは全く思ってもいなかった。ですから、今回受けたメールは、過去に影響を受けた方々のその奥さんや子供さんのことも、もう一度、振り返ってみる必要があることを感じさせられた。
インドネシアで仕事をするようになってからは、尋ねることをしなくなったし、墓参りをすることも無くなっていた。
11月9日 インドネシアで楽しく暮らす 15−421
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そうですね、インドネシアの子供達は、たくましいです。というより、これが、普通なのです。私が、小学校のころ、納豆売りをやっていた友達が多かった。私も、新聞配達、アスファルトに埋まっている、鉛や真鍮、釘等を集めて売ったり、ガラス屋の手伝いで、注文の家に行って、寸法を測ったり、集金をしたりした。
インドネシアはその頃の状態に似ています。そして、その状態が当たり前のように続いているのです。田舎へ行けば、とにかく子沢山。これも私が子供のころと同じです。賑やかで、活気があった。苦労とか大変だとか、頑張らなくては、とは、思わなかった。当然のように、楽しく、いろいろな手伝いをした。
そして、48歳の時だったと思うが、胃癌と分かり、胃をほとんど全部切って、捨ててしまった。胃がないから、胃癌になる心配はありません。大腸ポリープはその後、五つ取りました。
53歳からはインドネシアでの暮らしが長いですが、三年前に、得体の知れないパニック障害になってしまい。原因は自分では意識しないストレスだそうです。そう言われて、思い当たることが多すぎます。今でも、その障害者です。薬を欠かすと過呼吸パニックになったり、心臓の脈が無くなって、気絶しそうになるパニックになったりします。そういう、恐怖の中で、インドネシアで活動しています。
自由度が少ないでしょうが、人生、エンジョイしましょう。
従業員に対するパワハラの手伝いをした秘書だと思うが、フェイスブックに2009年7月31日の記念写真を公開している。何もしないで、閉鎖の方向に一直線に仕向け、従業員を全員解雇して、ご機嫌の人達が紹介されている。そして、今でも彼女に踊らされていることに気がつていない。
http://www.facebook.com/home.php?#/photo.php?pid=75706&id=1823196287</SPAN>
これほど、世界中で、利用されているフェイスブックについて知らないだろうし、意識がない、ご本人達は、知っていれば許可するはずがない。
インドネシアで楽しく暮らす 15−422
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ホームページ(ウェブサイト)工事中です。
Angodo wijoyoインドネシアで最大話題の人物ですが、所在が分かっていない。インドネシアにはいない。警察、検察と汚職実業家対、KPK(汚職撲滅委員会)の大きなもめ事の、その、実業家の名前である。
前のKPK委員長で、殺人の疑いで拘束されているアンタサリも、どうも、彼に、はめられたようだという見方になってきて、警察ではなく、第三者(Tim 8)の調査団から、事情聴取が何回か繰り返されるようになった。
フェイスブックへの投稿が100万を超えた、そして、KPKに味方する意見がほとんどで、デモの呼びかけもされている。ジャカルタ中心地帯も、今、そのデモが頻発しているようで、ジャカルタ在住の日本人から、最近は渋滞がひどいという話を聞く。
私の左目の斜め上5mmくらいのところに三センチほどの切り傷が残っている。三歳の時にこの橋の下で、転んだ時に,つかんでいた牛乳ビンで切ったのでした。父親が私をおぶさって、土手を走って病院まで行って、傷を縫ったのを、はっきり、覚えている。物心がついてから記憶に残っている出来事の三つ目でした。その傷は、はじめは小さかったのですが、顔が大きくなるに従って、長くなり幅も広がった。そのうえ、悪いことに、今お技術では残らない、縫った後が残ってしまい、それを見ると、傷がトカゲのように見える、縫った後が前後の足のようで、自分でもトカゲのように見える。
小学校へあがったころから、誰からも、トカゲのようだと言われた。いつの間にか、あだ名がトカゲになってしまった。“おい、トカゲ“と呼ばれるようになってしまった。先生からも、本当にトカゲのようだなと言われたことがある。
ガキ大将のグループと正面から戦う立場になっていたので、特にその子分連中から、そう言われていた。
後に、ヤクザにでも、なっていれば、トカゲなんたらと、はくのある名前が付けられたと思うが、そっちの方向とは全く違うので、間抜けな感じの傷が残っている印象だ。さすがに、中学生になってからは、そう呼ばれることはなくなった。
高校へ入ったころ眼鏡をかけ始めたので、他人から全く気がつかれることも無くなった。
インドネシアで楽しく暮らす 15−423
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性格的に、走りだしてから、周りを見るし、一つに集中しているつもりが、他のことも気にしてしまうので、子供のころから、怪我は多い人間だと思う。この年になれば怪我はろっ骨を何度か折ったくらいであるが、肋骨にひびが入ったくらいであ怪我のうちに入らない。それと、仕事上、火傷は当り前で、火傷が治らない上に火傷をすることは稀ではない。手当などしない、それでも、化膿してひどくなったことなどない。私の指と腕は、全面、火傷の跡だらけである。火傷を怖がるような人は、この仕事に向いていない。
最後のひどい怪我は、40歳の直前だったと思う。仕事中、製品を引取機に差し込むとき、摘まんでいた左手の親指、人差し指、中指も一緒に巻き込まれてしまった。あわてて、引っ張ってしまったので、親指の爪の生え際からちぎってしまった。
沼津の工場から静岡へ移ったばかりで、入社して一か月ちょっとの男の従業員と二人きりで、三ラインの操業をしていて、大変忙しかった。気が動転してしまった従業員は真っ蒼な顔をして立ちすくんでいた。機械を止めて、従業員の運転で、病院へ急行した。手を頭の上に上げて出血を最小にし、病院について、優先的に縫ってもらった。化膿止め点滴をしなければならないから、入院しろと言われたが、とんでもない、といって断った。その代わり、三日間毎日二時間の点滴を受けにくることを約束し、実行した。
翌日、その手で、三台の製品の立ち上げをして、包帯がぐしゃぐしゃに濡れてしまったが、そのまま、点滴を受けに自分で車を運転して、病院へ行った。なにをしたんだと,叱られたが、その後二日間とも、同じ様に濡らして,病院へ行った。医者はあきれるばかりだった。その後は病院へ行かず、十日後に抜糸のために行った。それきりだった。その状態を見て、入ったばかりの従業員は、抜糸の三日後に会社を辞めてしまった。私の仕事ぶりと、怪我の処置の方法が怖くなったのでしょうか、辞めた理由が分からなかったが、出勤しなくなってしまった。
ゴルフのグリップはその千切れて繋げた親指で抑えているので、たびたび、古傷が痛む。それがボールを遠くへ飛ばせない理由とは思わない。
インドネシアで楽しく暮らす 15−425
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一昨日書いた怪我が最後ではなかった。45才の頃、仕事始めの1月4日だった。皆さんが帰って私一人で、明日の仕事の準備のために、押出機の上に登って、ホッパーの中の汚れを拭いた。その後が、いけなかった。そこから、飛び降りたのです。1.2mくらいの高さでした。ところが、右足が、フックに引っかかって、左足が先に着地し、股をひらくような形で、右足が後に着地した。左足が着地した時にバキッと音がした。折れたと思った。瞬間からずっと病因へ行くまで、痛くはなかったが、歩こうとすれば痛いし、歩けない、病院は空いていないし、エマジェンシーがるの総合病院は遠い。近くに当番医はあるか調べるためと、車のキーを持ってくるために、二階の事務所に行かなければならなかった。見たら、近くに、車が付いた椅子があった。その椅子まではっていって、荷物用のリフトまで行き、それに乗って二階に上がった。降りて、10mほど這って事務所へ行きキーを取り、電話で外科の救急医の名前を聞き、事務所の車付き椅子でリフトまで行き、下に降り、さっき使った椅子で、車まで行って、病院へ向かった。
くるぶしの上の細い方の骨が見事に折れていた。折ってから病院へ着くまで、30分くらいだったが、足は倍ほどの太さに腫れていた。ここでも、一か月の入院だと言われた。冗談じゃない、病院の松葉杖を借りて、石膏で固められた左足をひきずって、車へ、車を運転して家へ帰った。次の日、さすがに痛かったし、このときにはもう、私がいなくても仕事の立ち上げはできるようになっていたので、足を折ってしまったので、といって、休んだ。
その次の日は出勤し、普通に仕事をした。椅子が変なところに放置してあるし、変だなと思っていたと云いながら、従業員皆から、笑われた。無茶するからと言われた。四日後に腫れが引いて、石膏と足がすれて、階段の上り下りで特に痛かった。一週間後に病院へ行って、頼みこんで、石膏を取ってもらい、アルミ板を添えてもらった。これで、どんなに動いても痛くなくなった。そのまま、
一ヶ月後に自分で、添え板を取ってしまって、それで完治でした。医者へは最初の日と石膏を取ってもらった時と松葉杖を返しに行った三回だけでした。
この医者にはその後、三回のぎっくり腰で、注射をしてもらいにいったことがあった。土日や夜一人で走りまわって仕事をすることが多かった。マーケティング、プロダクション、デイバリー、アカンティング、パーソナリア全てを一人で10年はやっていたし、50kg(原料2袋)を担いで、一トン、二トンを移動させることも多かった。
今は、25kgの一袋を担ぐのがやっとだが、それをしていると、若者が寄ってきて、手伝わなくていいといわれる。
11月29日 インドネシアで楽しく暮らす 15−441
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私のWeb site(ホームページ)
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
へのアクセスが40000を通過しました。一日平均40回強のアクセスが有ったことになる。
バンカ島にいる間に、どなたかが4万回目のアクセスをしました。オメデトウございます。その方に私の行動をお分けしたいと思います。
これからも、少しずつ内容を増やしていきたいと思っています。どうぞ、いろいろな意味で、参考にしてください。ブログの方も、ご愛読下さい。じっとしていられない動きが読めると思います。それと、“情けは人(他人)のためならず“いう精神が基本になっていることを感じてもらえる人にエールを送っていきます。
10:00頃、ホテルをチェックアウトし、ホテルの車をチャーターし、空港に向かったが、時間があるので、途中、海岸に寄って、景観を楽しんだ。この島には、伝統的家屋の集落はなく、多くは、オランダ人の建物を模した、何の変哲もない、長方形の家で、観光として勧められたのは、鉛の採掘博物館でしたが、日曜日で閉館、土産のTシャツを買っただけで、空港へ着いた。
今回の旅は、雨季の真っ最中ということで、天気には悩まされたが、それでも、インドネシアですから、濡れても、すぐ乾く、できるだけ、気にしないで行動をした。お陰で、何もかもがぶっつけ本番だった割に、見るべきところはしっかり、見てきたと思う。二日目のガイドに恵まれたと思う。
ブリトゥンと比較すると、バンカは負ける。両方行って見て初めて分かることですが、ブリトゥンへ行った人はバンカへ行く必要はないと思う。
バンカからの出発が一時間遅れ、家に着いたのが、20:10だった。坂の上の雲の一部分も見ることができなかった。
始めて見た木が二種あった。紙の原料になる三つ又のような木と胡椒の木でした。
1月22日 インドネシアで楽しく暮らす 15−495(慌ただしい)
斜めからインドネシアを眺めよう 495
交通事故が多いのでその様子の写真を撮るためにカメラはいつも脇に置いてある。渋滞の先には必ず何かがある(例外もあって、もう、処理が終わってしまっている場合)。現場に近付くと車線が少なくなっているので、割り込み割りこみでなお車の前後左右がすれすれになってくる、それに対応しながら、左手でカメラを構え、事故車に近い車線に寄り、徐行しながら写真を撮る。警察官や事故関係者が早く行けと言っている。こんな風に運転中に写真を撮ることが多い。事故でなくても、インドネシアらしい雰囲気をしている場所があれば写真を撮っておく。
デジカメは二台持っていて、必ずリックサックに一台は入れておく、もう一台はポケットか車のポケットに置く、写真をパソコンに移すので、そのカメラを外出の時に持って出るのを忘れることがあるが、予備があるので安心です。いざというときはHPのカメラを使うこともできるが、そこまで、いざ、となったことはない。
この前の女性が対応してくれて気分がよかった。何か変化があったら必ず届けるように言われてしまった。
6ラインの増設のための見積もり依頼をした。当初の6〜7ラインでは営業に回れない。直ちに発注して6月には12ライン以上にするためである。
PT,NANBU PLASTICS INDONESIAのホームページとまではゆきませんが、設立概要です。直前報告ご案内です。
http://otaindoesiaextrusion.web.fc2.com/index.html
今日のジャカルタ新聞に紹介されていたことに絡んで、動きがある、これは新たなものだが、以前から情報は入っていた。押出ラインはこれにも絡んで可能性として今年中に20ライン近くにまでにする必要が出てくるかも知れない。
また、今度は高速道路走行中に右後ろのタイヤの横腹にパンと音がしてぺしゃんこになってしまった。インターチェンジまで三百メートルくらいだったので路肩をゆっくり走って、インターの出口斜めの車線脇でタイヤの交換をした。三日前に新しい交換タイヤを買ってあったので、良かった。このときはMM2100の中のファミリーで買って8千5百円して高かったので、今回は、ジャバベカへ向かうカリマラン側の橋のたもとのタイヤ屋で買った。4千8百円だった。ずいぶん違う。予備タイヤが一個では心配なので、もう一つ買って予備を二個にした。アルミホイールとセットで6万5千円でした。
1月23日 インドネシアで楽しく暮らす 15−496(報酬とは)
斜めからインドネシアを眺めよう 496
強力な日本人の応援者をお願いして、かなえられることになった。三月からお願いすることになると思うが、押出部門の前面に出ていただいて、牽引していただくように私がバックアップすることになるでしょう。私は目立たない方がいい。
私がそれで十分というと一般人は奇異に思う、全く、理解できないのです。それはそうです。しかし、私はそれでいいのです。基本的には、創業者の意識です。自己資金で投資をしなければならないし、基盤が確立するまで、自分が受け取る給料はありません。会社が軌道に乗り有る程度の利益が出るようになったら、その利益の一部を報酬としていただくというのが筋だと確信するからです。
30歳で自分の会社を作った時も一年半は報酬を受けていなかった。利益は始めから上がっていたが、新しい設備の購入で使ってしまった。初期投資も私だが、その後も、投資に回した。私の会社は自手形で支払いすることはなかった。廻しはした。手形帳を銀行からもうことはない、優良企業として通した。
これが“後の先”です。
中小の会社のサラリーマン経営者で、自分の懐へお金を入れることが優先の人は、経営者の資格がないと思うが、そういう経営者が多いこと!!!。
お客様の要望で、準備中のプロジェクトが数多くありますが、未発表です。あそこの仕事も、そこの仕事も、やれなければなりません。始まる前から、期待されているようです。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
PT.MAKUTAの従業員と食事会をした。チビトゥンのインターチェンジ近くのインドネシアレストランだったが、日本人の若者二人も招待した。何カ月か後に皆さん一緒に仕事をするようになるでしょう。
青春おいしい思い出
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三連休になったが、今回はどこへ行く予定もない。出勤である。 というのも、従業員が慣れれていない新しい仕事をするので、迷いや間違いが無いように監督しなければならないからでした。
13;00に終わったので、これも、久しぶりにリッポチカランのハイパーモールへ行って、切れてしまって久しい、ジャポニカ米(短粒米)富士光と苦に国寶の二種類を買った。各五キロ1500円前後、一キロ三百円ということになる。それだけでは、もったいないので、インドネシア米を5キロ買って、混ぜて使うことにする。こちらの価格は5キロで六百円、一キロ百二十円である。
これが、ジャカルタの日系スーパーでコシヒカリやキララなどは五キロで三千五百円から五千円で売っている。一キロ、七百円から千円である。それでも、売れているのです。ちなみに私は日系スーパーで米を買ったことが無い。もっとも、日本でも、一番安いとい事が購入する条件です。新潟魚沼産コシヒカリなどというものは食べたことが無い。ちなみに、私が一番おいしかったお米は宇都宮の旅館で食べたものでした。種類は分からない、きらきら光っていたし、甘くておいしかった。その旅館は、関東ブロ、と言って関東甲信越の国公立大学の各種運動部の選手権でした。毎年、各県が持ち回りで主催しその大学へ行って試合をするのです。私は卓球でこれに参加していた。ちなみに中学、高校、大学と10年間卓球部に属していた。中学の時は四番か五番手でしたが、チームとしては、静岡市で新人戦、夏大会で優勝していた。高校の時は学年で二番手でしたが、一年の時は全体で四番手だったので団体戦ではチームの面倍になっていた。二年の時静岡県の中部で準優勝、三年の時は三位でした。中学の時の同級のメンバーの中では私が一番手になっていました。大学の時は、一年、入部した時方四年生より上で、一番でした。ですから、一年の時から、レギューラーで、個人戦でも、全国国公立選手権ではベストエイトに入っていた。
卒業と同時に卓球部という形ではやらなかったが、就職した東洋プラスチック精工の一年目に健康保険組合の静岡県東部の選手権があった、会社の総務から出て見ないかと言われて、個人で出て見たら、いきなり、準優勝してしまった。団体対戦も在ったが、私の会社では卓球部は無いし、出場したのは私だけだったので、団体戦には出なかった。
その何週間あとの問題を起こすことになるとはその時全く予想していなかった。
個人戦で四位までが県大会に出場する権利が与えられた。義務とは受け取っていなかった。すっぽかしても構わないと思っていた。県大会のことなどどうでもよかった。三島近くに住んでいたし、静岡まで卓球をするために行くことなど全く、頭から消えていた。当日は横浜で、間もなく結婚する妻とデートをすることになっていて、山下公園や氷川丸、中華街とお決まりのコースを満喫していた。勿論、他のことは頭になった。
月曜日会社へ入ったら、いきなり、総務から呼び出された。何のことか全く心当たりが無い。いきなり、「太田君の困るじゃないの、すっぽかして」と言われた。良く良く聞くと、静岡県大会の団体戦は個人戦で四位までの人が団体戦のメンバーとして出場する義務が有ったのでした。一人足りない状態でやったという。散々な結果だったし、相手に失礼をしたという。
そんなことは全く知らされていないので、個人戦だけなら欠場しても問題ないと思い込んでいたのです。実際、事前に知らされていないし、大会の直前に確認の知らせや電話もなかった。
話は、とんでもない方に曲がってしまった。明日はこの続きになる。
MM2100ルコの中にあるバイキング式のレストラン、これば三百円。道端のお墓売り。
卓球 青春 思い出
5月15日 50年前の情景の一部
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ゴルフは予定に入れてなかったし、仕事は金型待ちなので、何もすることが無く、久しぶりに何もしないでくつろぐことができた。
子どもの頃の運動について書く。腕力が異常に無く、懸垂が全く、一回も出来なかった。未だに、一回も出来たことが無い。これは自慢である。こんな人は多分いないでしょう。だから、逆上がりも出来たことが無い。100%劣等人間でした。だれにも馬鹿にされたし、先生にもさんざん言われた。高校一年の時の一学期「逆上がりができない奴評価は10点中の1にすると言われた。その通り、通信簿に赤で1と書かれていた。
後にも先にも赤1はこれ一回きりであった。体育の通信簿はいつも最高の5か10だった。この時も二学期には10になっていた。というのは、鉄棒で足掛け上がりや、蹴上がりは反動を使うから出来るのです。ただ腕力と腹筋だけの逆上がりができても、テクニックを使う蹴上がりができない人がはるかに多かった。私は車輪も出来た。体育は足も速かったし、水泳も普通以上だった、クラスに中で一番ではなかったが5番以内にいた。クラス対抗リレーでも二三番手で選ばれていた。
卓球は、腕力が無くても器用さと動きで、相手をごまかせば有る程度は出来るだろう。横着してもレギューラーメンバーになれるだろうと思って中学一年から、始めた。野球やバスケットボールをやってみたいと思っていたが、いかにも運動神経が発達していそうで体も大きい連中が入部していたので、自分は向かないと思った。野球は守備や走塁ではソフトボールの遊びで、負けないと思っていたが、打つことは全く駄目だった。どんないいあたりでも、ホームランなどは夢の話で、流し打ちでライト前に落とすしかなかった。引っ張っても仕方がなかった。バスケットは、ボールが重かった。ジャンプシュートができない。何より、選手同士のぶつかりあいができなかった。
卓球なら、手首をくるくる返せば、どっちの方向へも打てるし、人とのぶっつかりは無い。処が、考えが甘かった。入って見て、先輩は5人だけだったが新入人数が50人以上いて、卓球台は三台だけ、まず、人数を少なくするためのトレーニングが始まった。ラケットは持たずにランニングとストレッチ、学校の周り一周が1500mほどあったが、毎日、5周回らされた。一か月で、10人以下になった。ラケットを持ったはいいが次は素振りが加わっただけ、壁に向かって、一に、一に、と素振り7月の夏休みに入る前に3人になっていた。そのうちの一人は小学校の時から、家の近くに卓球場があったので、飛びぬけて上手だった。二年の先輩も彼にはかなわなかったので、当然、直ぐ、団体戦のレギュラーに抜擢された。しかし、私と、もう一人は、完全に球広いで、なかなか、ピンポン球を台について打たせてもらえなかった。
夏の本戦は早く会場へ行って、選手が練習する卓球台を確保することだった。先輩の成績は芳しくなかった、順位がどこだったか覚えていない。新人戦も出場機会なし、やっとそのころ、三年がいなくなって、部員数が8人ほどになり、卓球台で練習させてもらうことができた。しかし、何も経験が無い私は一番の荷物、先輩連中も私とは練習をしたがらないし、親切に手ほどきをするような人もいなかった。後に、高校の先輩にもなる其の人も、全く私には興味は無かったようで、一人卓球場で練習していてうまかった同級生を相手にしていた。壁に向かって球を打つことが日課だった。座って、突っつきの練習や立って左右に動きながらフォアーやバックハンドの練習を一人でしていた。
一年生の終わりでは、やはり一番下手だった。
短粒米の包装、富士光の袋は印刷が裏返しである。カリフォルニア米で シンガポール経由でインドネシアへ入ったものです。POP MIEのミーゴレンです。焼きそばカップヌードゥルです。
誤字、脱字、変換間違い、が多々あることをお許しください。自分が書いたものを、殆ど、チェックしていません。ごめんなさい。
卓球 補欠 力無し
5月16日 恵まれた環境
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二年になって、下級生が入ってきた、やはり50人くらい。私の役目は、彼らを辞めさせることだった。処が、その中の四人、小学校の時から卓球場で鍛えてきていた。私より上手い。結局、その四人以外は全員辞めてしまったが、彼らが残ったのだから、四人増えて、やはり、私がいちばん下手だった。そこで、二年の時もレギュラーになれず、中途半端な、いてもいなくてもいい、どちらかというと、下級生の四人に気を遣わせる邪魔な存在だと意識していた。いまさら、やめて、他の体育系の部に行くことも出来ない。辛抱するしかなかった。
個人戦でも、静岡市で、優勝したり、10位以内に4〜5人入っていたと思うが、私は32番目位だった。
二年の新人戦になるころ、四番手になっていた。上三人は、卓球場でならしてきた連中で、後輩の卓球場で練習してきた連中の何人かは私が抜いていた。市の新人戦で、四番手か五番手で、交代で団体戦に出ることができ、私の力ではないが優勝メンバーの一人になっていた。三年の本大会ではやはり市で優勝し、個人ではベスト8に入った。
県大会は全く印象に残っていない。しかし、この頃から、中学の時でも浜松や沼津の有力校へ遠征して他流試合をすることが楽しみになっていた。静岡市でトップの力を持っていたから、それができたのだと思う。うまい連中がいたので、私も釣られて腕が上がったと思う。補欠が多くてなかなか、レギュラーにはなれなかったが、後々に割合努力しなくてもレギュラーになれたのは、この時の環境と部員に恵まれていたからだったと思う。
三年の時は静岡市で優勝し県大会でもベスト4に入ったが。やはり、私は補欠だった。
私が高校へ入って、私より上手かった後輩の連中が県大会で優勝した。そのメンバーは私が高校の二年の時に他校の選手として対戦したが、其の時は私の方が圧倒的に強くなっていて、静岡県の中部大会の団体で二番手として団体戦に個人とダブルスで出て準優勝、個人戦ではベスト8に入っていた。若い時は、やはり、環境に寄ることが多いと思った。中学の時一年からレギュラーに入っていた同級生は高校に入ってから、名前を聞かなくなってしまった。
もっとも、高校の同級生では私より上手い奴がいて彼は準優勝をした。他の中学からきた中学時代から個人戦では上位にいた人でした。顧問の先生はいないと同じだったので彼がキャプテン、私がマーネージャーとして卓球部を運営していた。
余計なことだが、其の時に予算の多額獲得の手段を知った。年度末にはお金を使い切ること、安く買って、領収書は定価で買ったようにしてもらったり。合宿の前後に先輩を招待して卓球大会をして寄付を募ったり、繁華街や市役所県庁へ行って、遠征費の寄付をお願いしたりした。とにかく学校名でかなりそういう動きは世間に認められていたように感じていた。
大学では一年の時からトップ。最初からレギュラー、何の努力も頑張りもしなかった。女性部員と和やかに練習をしていたし、先輩の女性部員からは良く持てた、というより、やさしく打ち返してやるので彼女達の練習相手として手頃だったと思う。
良く、指名され、可愛がられたものでした。自然に二年の後半からキャプテンになっていた。囲碁部や書道部にも入って学生時代を満喫した。合宿も男女混合でやったので、普段練習に来ない部員まで参加した。スキーやアイススケートも学生時代に部で主催し、部員をあちこちへ連れて行った。この時も、急に部員が増えた。こんなにいたの?というくらい。
中学の時の同級の女性や高校の時の他校の女性や大学の時の同じ体育館で一緒だった女性の話など、この十年間の話はきりがない。この期間のエピソードはきりがない。
インドネシアのゴルフ場の代表的な風景。
予算 環境 継続は力
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今は、知らないが、当時、卓球の試合の団体戦は、シングル、シングル、ダブルス、シングル、シングルという順の5ゲームで三勝を挙げた方が勝ちという形式だった。四人で団体戦組み、その中の実力一二の二人がダブルスを組む。順番は、作戦で、相手のNo,1とこちらのNo,4が当たるように考えるとか、No,1同士をぶっつけようかと考える。一般的には、No1、No3 ダブルス、No2、No5にするチームが多いので、こちらの誰をそれにぶっつけるかを考える。相手の一人一人の大多数は中学校の当時からの知り合いが多いので、大体の実力は分かっていた。他の学校は、顧問のコーチが決めていたようだが、私にチームにはコーチはいないので、キャプテンが主に決めていたが、メンバー全員で、相手の誰と当たりたいとか、当たりたくないとか言い合って決めていた。それは、それでいいのだが、高校二年の時、静岡県中部大会団体戦の準決勝で、私はその時、自チームのNo3として、ダブルスの後、4ゲーム目にエントリーしてあった。本当の作戦は、三試合で、二勝一敗で来て、私は捨て石で負けてもいいように相手のNo1にぶつけ、二勝二敗でチームのNo1が最期の相手のNo4に勝って、三勝二敗で勝利する作戦だった。処が、作戦に反し、負けてはいけないダブルスで負け、そこまで、一勝二敗になってしまい、私が負ければ終わりだった。私は中学の時にその相手と二回試合をしているが、簡単に負けてしまっていた。自分のチームの全員が、もう、だめだと、あきらめてしまい、ヒドイことに、試合場所の周りで応援するはずの自分の学校のメンバーが誰もいなくなってしまった。私の次に出場するはずのNo1でキャプテンもいなくなっていた。何だこりゃと思った。相手の学校の応援団は強制的だろう、大勢来て大声をあげていた。
試合が始まった。私が簡単に負けるはずだったが、最初から、どうも様子が変だった。私のサービスを相手はことごとくリターン出来なかったし、相手のサービスは簡単にいきなりスマッシュを決める事ができてしまった。相手は、そんなはずではなかったという焦りが、もっと、緊張を膨らませ、がちがちになっているのが分かった、試合をしていて相手が気の毒になってしまった。相手のコーチがいろいろ指導したが、空回りだったのでしょう、最期まで、ペースをつかむことができなかったし、打つ手を変えようともしなった、ずるずると、私が勝ってしまった。自分でビックリだった。
回りを見ると、他校の女学校の中学校当時から知り合いの友達が大勢、私を応援してくれていた。中に、私が片思いで、それに気がついてくれず、本人は友達と思っている女性も応援してくれていた。勇気百倍だった。自分のチームのメンバーの応援など必要なかった。もう、夢見心地で、アイドルになったような気分だった。
勝って、5ゲーム目に出るはずのキャプテンはどこにいたかというと、着替えてしまって帰り仕度をして、自転車でグラウンドをぐるぐる回りながら私が着替えて出てくるのを待っていてくれた。帰ってしまわなかったのが救いだった。急いで着替え直し、会場に戻って、試合に臨み、簡単に勝って決勝戦まで進んだ。決勝では私が5番目になったが、私までまわって来ないで負けてしまった。こんな、チームでしたが、先輩も後輩もなく、和気あいあいだし、キャプテンとは小学校からの一年上の兄さんのような付き合いだったし、練習が終わって、自転車の後ろに乗せてもらい、二人乗りで、帰宅する機会も多かった。高校まで同じで、大学は違ったが、国公立選手権の会場や私が郷里に帰った時に静大の卓球部で先輩にお世話になったこともあった。
静岡県庁の事務長を長期で勤め、長い間、県知事の補佐をしていた。卓球部のOB会で数年前に会って其の当時の話をしたら、覚えていた。
スマトラ島のトバ湖の西の端にあるシピソピソの滝、高さは、一見しても、那智の滝の倍はありそうだ。
中部ジャワのブンガワンソロ(インドネシア一の大河)の渡し船。清き流れは嘘、茶色く濁っていて、流れ来るゴミの量は半端じゃない。
先輩 番狂わせ 実力通り
(^_-)-☆心臓ペースメーカー
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気になっている方の誕生日です。私より一足先に67歳です。女性です。子供のころから、気になっている人で、夏休みに入る日が誕生日と中学校の時に名簿をちらっと覗き込んだだけで、瞬時に覚えてしまった。私のよき理解者でもあった。
静岡で生まれ育った私ですが、スキーが大好きだし、得意です。アイススケートも得意ですが、スキーの方が好きです。学生時代から会社経営をしていた50歳くらいまで毎年平均数回は長野方面のスキー場へ出かけていた。5月の月山でスキーをしたこともなる。インドネシアで仕事をしている間にも、何回か太田化工の人たちと行っていた。
その人と何人かの仲間と何回かスキーに出かけたことがある。40歳を過ぎてからのことである。彼女スポーツウーマンで、当時、女性として40歳過ぎでスキーをする人少なかったが、彼女は、どんな難しいコースでも私に付いてきた。
ある時、二人で滑っていて、彼女、急に胸が苦しいと座りこんでしまった。顔色が悪い。私としてはどうしようもない。救急の診療所を探そう、と言っただけだったが、彼女は、しばらくじっとしていれば治るから、私には、自分を置いて、滑ってきて、というばかり。そんなわけにもいかないから、ただ黙って、そばにいた。その通り、10分もしないうちに治ったようで顔色も良くなって、もう大丈夫と言って滑りだした。下まで行って、休憩をしたが、何事もなかったようにけろっとしている。繰り返したら困ると心配している私を無視して、滑りだした。
次の機会にも、同じことがあったが、死ぬことはないだろうと、心配は前より少なかったが、心臓の病気ではないかと疑って、病院行きを勧めた。案の定、心臓の不整脈が原因だった。結局、彼女、ペースメーカーを埋め込んだ。普通の人の心臓より頑丈になったが、それから、外観的にも、行動的にも、とっても、そうは思えないが、身体障害者一級だと、手帳を見せてくれた。優遇制度があって、特に、彼女が同乗しているだけで自動車道の料金が半額になった。それが理由で誘ったこともあった。スキーに長野方面へ行く時は大変助かった。今は、制度が変わっているので効果は少ないかもしれない。当時の半額はかなりお得感があった。もう、20年以上くらい前の話である。
今も、ペースメーカーを入れた状態で、ママサンバレーや山登りをしていると思う。
インドネシアにいる私は、もう、10年以上、ご無沙汰している。その人だけでなく、多くの人たちにご無沙汰をしている。