パニック障害



パニック障害 3★

翌日09:30 最後の砦である、勧められた総合診療科で受診した。袴田医師でした。「とにかく、あらゆる、検査結果が正常。これだけ正常な人は珍しいくらいだ、90−100まで生きますよ」。と言われながら、出された、症状チェック表、

1 息苦しい呼吸困難

2 目眩がする 

3 頭痛がする 

4 頭が重い  

5 動悸が気になる 

6 胸が痛む 

7 目の乾き 

8 唾液が減少(口の渇き) 

9 寒気 

10手足がしびれる 

11 体のあちこちでちくちく感じる 

12気絶はしないがしそうになる

13死の恐怖を感じる 

14他人と話しをしている時は症状が現れにくい 

15一人でいるのが怖い 

16それらがおさまっても、それらに対する恐怖心。

17 音に敏感に反応する。

続いて、見せられたのが、生活状況、1 普段疲れを余り感じない。2 頭脳を常に使っている。3 スポーツは盛んにやる。 4 職場でストレスを感じるが逃げない。

全てが、私に該当した。典型的な、不安症候群(パニック障害)と断定された。「ぴったりの薬があります。主な症状は二週間程度でなおります。」しかし、薬は三種類あり、どれも90%の人に効くということで、まず、其の一種類目から試し始めました。大分、症状が改善されていますが、息苦しさが若干残っています。1日今の薬の確認をしてもらい、改めて、処方をしてもらうことになった。

実際は薬を飲んだその日から症状、特に脈が無くなることが無くなった。それまでは、一日、十回以上、長短は有るが、脈が止まって其のたびにくらっと気を失いけけた。それが、全くなくなった。発病、一ヶ月にして、やっと、ここまでたどり着いたと言う感じですが、もうしばらくで何とかなりそうです。コンスタン0.4mgを一回一錠を三回飲んだ、その薬が劇的に効いた。気絶しそうになる事は全くなくなった。それだけでも、不安の90%は解消した。

現在は、パニックはなくなっています。でも、まだ、以前の恐怖が忘れられず、また何か気絶しそうになるのではないか何処にいても、なにをしていても不安です。

 ほとんど発病前にもどっていますが、医者からも強く、一年近くはのんびりしなさいといわれているので、発病前と同じような行動は取らないように心がけています。ぼちぼちやろうということです。これから、30年くらいは活きるのですから、一年ぐらいは休暇を取った方が良いと、警告されたと思えば良い、と言われた。

  症状がほとんど消えた一ヵ月後、完全帰国の為の手続きと、身の周りの整理の為にインドネシアへ戻った。一週間ほどの間、親しい方たちに挨拶を済ませ、2006年8月25日PT.KITAGAWAと完全に切れた。三人の社長の元で9年間非常に充実していたが、四人目の社長が着任してからは最悪の最後の一年でした。

現在、飲んでいる薬はコンスタン0.4mg一錠とパキシル10mgを二錠夕食と睡眠までの間に飲んでいる。胃液の具合が不安定なので時々、タケフロン15とドグマチール50mgを一錠ずつ朝飲んでいる。

インドネシアで仕事を再開し、5ヶ月経過、パニックになったことは一度もない。いま、私と一緒に居てくれているマリアさんが子宮筋腫の治療のため郷里に帰っていて、私一人で、家に居る。ちょっと前なら、不安で仕方がなかったでしょうが、今は一人でも大丈夫と自分に言い聞かせている。

 

パニック障害 4その後 ★

薬を飲んで治ったが、20ヶ月経過、薬を飲み続けている。医者から、もういいというまで、飲み続けるように言われている。

この薬は、神経を使わなくする薬、頭を使わなくさせる薬、サボらせる薬である。だから、ずっと、体が重い、だるい。運動をするのも頭を使ってなにか考えたり、コンピューターに向って文章を書いたり図面を書いたりすると直ぐ疲れるし、止めたくなる。眠くなる。いつもあくびをしている。注意していないとつい、他人と話しをしている時でも大あくびが出てしまう。

体も頭も休めなさいという薬です。この薬のせいかどうか、体重が二年弱で12Kgも増えてしまった。食事を増やしているわけでもない、むしろ、ダイエットのため食事を減らしている。それでも、体重が落ちない。

ほどほど、運動はしている。ゴルフは月二回以上、山の中に入るハイキングも月に二回、工場を歩く時は、早足で歩いている。

40年一日40本吸っていたタバコをきっぱり止めたからが、最大の太る原因になっているかもしれない。コーヒーも好きで一日最低三杯飲んでいたのを止めた。これも原因かもしれない。

酒は飲めない、タバコは吸わない、コーヒーも飲まない。仕事をしていても、頭を使っていても疲れる。是では太らない方がおかしいかもしれない。

ともあれ、現在は、こうしてインドネシアで仕事を続けている。パニック障害も引っ込んでしまっているが、なんとなく、だるいのは薬のせいでしょうか、年のせいでしょうか。

 

 死ぬと何回も思った。インドネシアでも日本でも医者にこんな状態の患者を放っておくなと、叫んだ。看護婦に何とかしてくれ、早く医者を呼んでくれと何回も頼んだ。マリアさんには夜中に何回も病院まで連れて行ってもらった。日本でも救急車は呼ばなかったがタクシーで数回、大きい病院の救急センターに飛び込んだ。その都度、ただ事ではないパニックになった。いつくるか分からない恐怖は、なった人でなければわからない。

 それが、今は、ケロッとなくなってしまっている。しかし、何処か、以前と違う。このままでいいのでしょう。なにも、今は他人の世話になっていないのだから。

インドネシアで 楽しく暮らす 15−65

斜めからインドネシアを眺めよう 65

くるっと目まいがする。パニック障害の症状である。薬は飲み続けている。今、今年末までの薬は持っている。年末にまた薬を三ヶ月分処方してもらう。発病以来、三年三カ月以上、今飲んでいる薬で、症状が出ることが殆どなくなって三年過ぎた。インドネシアで一年過ぎた。

治る気配は全くない。夕方食事の後、薬を飲むことは欠かせない。19:00前後である。しかし、毎日その何時間前から夕方16:00頃から、くるっと目まいが来ることが多い。一瞬、体中から力が抜けて、手足が冷たくなったような感覚になる。それが、来なくても、いつ来るか不安になる。

気のせいかどうか、食事をし、薬を飲むとほっとする。もう、明日の夕方まで不安になる心配はないからである。

だから、完全には治らないと思うしかない。神経の誤動作は薬で抑えるしかないようだ。でも、この状態で、いつまでもいられるなら、良しとしなければならない。見た目も、実際の行動も並の人よりは十分アクティブなのだから。

自分はパニック障害者だと誰にでも言える。もっとも、インドネシア人に説明しても分かってもらえないが、というより、説明できない。

このエッセーはインドネシアタイム9時半ごろから準備し、10時過ぎに送信している。日本時間は真夜中過ぎです。それから、5分も過ぎないうちに眠ってしまいます。

5月10日   インドネシアで 楽しく暮らす 15−236

斜めからインドネシアを眺めよう 236

毎日欠かさず飲んでいたパニック障害の薬を止めることに挑戦した。5日の夜飲んで、8日まで続けた。6日から、日に日に頭のもうろうさと、手足体のしびれ感と時々の目眩が次第に増えてきた。それでも、それの向こうに、すきっきりがやってくることを期待して、我慢した。しかし、ひどくなるばかりで、9日のPT.MAKUTAでの、スタッフとの話し合いの時には、息苦しくなり、声がでにくくなってしまった。パニック障害になった当時の典型的な症状が次々と出るようになってしまった。夕方、家に戻ってきたときにはマリアさんとご主人が外出してしまっていて、一人でいた。体全体がしびれて寒けがして、震えが来て、過呼吸障害の初期症状になってしまった。このまま一人でいて、完全に過呼吸になってしまったらたら、どうなってしまうか分からないという恐怖感出てきて、薬を飲むことにした。結局、まだ、辞めてはだめだということが分かってしまった。

飲んで、30分ほど、うとうとしていた、というより、動けなくて寝ころんでいたら、次第に寒気やしびれが消えて、過呼吸の症状が消え、正常に戻って安堵した。恐怖も消えてしまった。

投稿の原稿どころではなかったが、書けるようになってよかった。

今日は予約通り朝7時前からゴルフが出来たし、スカルノハッタまでのお客さんの出迎えも出来た。その後、スナヤンにあるホテルでの作戦会議も予定通り出来た。今、ジャカルタから戻ったばかりである。

11月19日 インドネシアで楽しく暮らす 15−431

斜めからインドネシアを眺めよう 431

インドネシアでは奇妙なことが多い。象足病について書きましたが、今度は、人面鯉ではなく、ワ二の頭をした魚、胴体から尻尾までは明らかに魚、ヒレは魚と同じだが足はない。体長は500mmくらいだが、頭が、200mmくらいある。鱗はシーラカンスのように大きい。誰かが巧妙に繋げたのではないかと疑いたくなる。

お腹から、針金が何本も生えてくる病気といい、こぶ(大きなイボ)?だらけの人間といい、作りものではないかと疑いたくなるが、科学的な分析や研究についての学者からの発言はない。象足病は一人や二人ではなく、その部落に住む人たちだけ、数人いるという。なにか、特殊な化学物質がその付近にあるのでしょうか、原因はまったくわかってない。

夕方、やっと、Dr.Psikiater(精神科医者)がいるLippo CikarangSiloam病院へいってきた。いろいろな総合病院を訪ねて、パニック障害(Panic Disorder)の薬を探した。しかし、パニック障害という病名さえ知らない。とにかく其の道の専門の医者に会う必要を感じていた。

Harapan kularga病院で歯医者に通いながら、総合診療や精神内科などの医者に相談したところ、シロアムに精神病の医者がいるから行ってみたら、と言われた。

それが、一か月前。火曜日と木曜日の16:00以後にいると聞いた。そこで今月初めの両日に直接行って、医者を待った、其の都度、医者から連絡があって、今日は、出勤できないと電話が入って、無駄足を、ふまされた。一度は、17:00に行ったら、医者から電話が入って、患者はいるかと聞かれ、居ないと答えたら、今日は出勤しないと言われたそうで、その日も、無駄足だった。ついに、予約をすることにした。それが今日の17:00でした。受付で、聞かされたことは、今日は来る予定になっているがまだ来ていないと、言われた。何時になるか分からい。17:30にこちらへ向かっているドクターから連絡が入って、18:30ぐらいまでに着くと。外へ食事に出て、戻って来たのが、18:30でしたが、まだ来てない。結局、医者が着いたのが、19:00でした。ポンドックインダーから、移動だったらしいが、高速道路が事故のため,渋滞だったそうで、申し訳ないと、謝っていた。

やっと、待った甲斐があって、パニック障害の薬を手に入れることができた。この女医さん、パニック障害については、確かに専門と感じた、医者の方から、症状について聞いてきた。私はそれに対し、あれも、それも、と返事をしただけだった。

良く効く薬ということで、二種類を処方してくれた。麻薬の一種なので、医者の処方がなければ手に入れることはできないとも、云っていた。二週間分もらって、費用は26万Rp(2600円)でした。

2週間後にまた予約していくことにした。今後は待たされないことを願う。そして、何より、今回の薬が効くことを祈る。明日の朝食後から飲み始める。

インドネシアで楽しく暮らす 15−432

斜めからインドネシアを眺めよう 432

 日本の本社が倒産した会社のインドネシア工場がある。インドネシア工場は受注が好調で、客先も、生産がストップしてしまうことを、心配している。かなり、現地では頼りにされている会社で、現地社長さんも有名人である。将来も、かなりの仕事量を依頼される可能性がある。この現地会社を、どこかの会社が、これを機会に、購入しようと動いてもおかしくないと思う。

昨日Fluoxetine 20mg,Alprazolam 0.5mg 朝食後、夕食後にそれぞれ一錠飲む。  ジャカルタの日本人医師から処方されたSertraline 50mgAlprazolam 0.5mg 夕食後、一緒に一錠ずつ飲んでいた、効果が低いように感じていたし、日本の掛り付けからもらった薬が残り7日分になってしまっていた。一時帰国は年末になるし、ちょっと、焦りながら、新たにインネシアの専門家を見つけたかったのでした。

 結局、一種類が違うのと、飲み方が違うのですが、効果のほどは如何に、仕事はしないように、いろいろ考えないように、集中しなければならないことをしないように、と、言われた。このブログを毎日投稿していることも、本当は、良くないのかもしれない。

  象足病はフィラリア(蚊が媒介する紐のように細く長い寄生虫、犬にかかるだけと思っていた)が人間に寄生して腫れるから、足を蚊が刺すので、足に寄生し始める。もう一つ、問題になっているのは、その薬を飲んだ人たちが、亡くなっている。薬が原因では無いと、医者は言っている。

この頃、何となくうれしい情報が入ったり、新しい出会いがあったりして、気分を良くしている。一人、ひそかにtersenyum状態である。

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0051.html

2月8日 インドネシアで楽しく暮らす 15−512(どうしようもない)

斜めからインドネシアを眺めよう 512

 Mariaさんが突然、戻ってきた。迎えに行って、戻ったのが24;00近かった。

ずっとさかのぼって、このパニック障害発病の一年半前ころ、それ以前は、伊藤と小川社長だったので歯止めが利いていたが、平野が社長になり、かなり程度が低いお二人さん、平野と伊藤がそろった状態で会社を任されることになった。鈍の二人だがプッツンだけは早い。プッツンされて、説明しても、「何のことを言っているのかわからん」とまた。プッツンされる。駄々っ子のようなもの、そのうち、プッツンされても、そのまま、相手にしないようにしたので、なお、程度の低い同志が、意気投合して、勝ち誇る。おまけにインドネシア語を覚えようとしないで、作り話のゴシップを情報として伝える通訳を重用した。言っていることは全て誤りの言いがかりだけ、自分で確認できないのです。多数決の世界なので、こちらはどうしようもない。

 伊藤などはインドネシア人と日本の奥さんと二重結婚までしてしまって、平野が隠したが、本社に知れ、パワハラ常務が来て、金で解決したというくらい、何もかにもだらしない男たちだった。その二人が、私をパワハラの対象にしたのです。常務もやれやれという感じでした。常務からは、最初からずっと、無視されていた。

彼らが私に文句を言ってくることは、自分が直接何をされたということではない。私は、彼らから頼まれれば何でも、直接手伝っていた。彼らに被害を与えたことは一度もない。私はアドバイスもした。そのようにやれば、なにもかも、うまくいくし、本社からも、従業員からも好かれるはずである。しかし、気の毒なくらい、全く、出来ないことだった。私が言ったようにはできない人たちだった。怠け者なのです。

彼らの怒りは、私が、他の誰かの手助けをした、そそのかしたという情報を通訳から聞いたという話だけである。私にしてみれば、心当たりのないことばかりだった。

他の人が、何故、私を悪く言うのか、攻撃するのかと聞いても、答えないという。A社の中沢が私を追い出したのは、自分が追い出されるかも知れなかった、と、言っていたそうです。

これから書くことは、この事を踏まえての話になる。

 

今度は、三年半ぐらい、さかのぼって、帰国する前、とどめの、程度の低さを食らった話。

 

2006年6月26日 月曜日の朝、8時過ぎ、ここから、私の試練が始まった。ほとんど、突然、目眩がして、立っていられなくなり、今までに無かったことでしたので、自分自身びっくりで、病院へ直行、リッポチカランのシロアムという、総合病院です。クリスチャン系でインドネシアでは指折りの有名病院です。

しかし、病気はなんだったんでしょうか、結局、医者の見立てでは、血圧も血液検査の結果も、良好すぎるくらいだという。そのほか、心電図も正常。反射神経機能も全く問題なし。歳と疲れからだという。本当かな?と思いますが、そのまま、泊まっていても、進展は無いと判断し、目まい止めの薬というものをもらって、早々、翌日12時に出てきてしまった。何度も気絶しそうになるので、退院したその足で、家の近くのアニッサ病院へ行った。貧血と診断され、増血剤を処方され家に戻った。

その後も、どうしようもないので、アニッサ、ジャカルタのSOS,竹の子診療所、メディカロカ、プルタミナ、国立心臓センター(ハラパンキタ)、竹の子診療所、アニッサ、メディカロカ、国立心臓センターの順に二週間、渡り歩いた。

2月9日 インドネシアで楽しく暮らす 15−513(底なしBEGO

斜めからインドネシアを眺めよう 513

 発病して二日後、会社代表の平野に状況を電話で知らせたとき、電話で最初に、日本人の医者からは「飛行機に乗ることはたとえシンガポールでも保障できない」といわれた、と話したのに、また、AIUの保険が効かない病院でも後で領収書をまとめて請求すれば全額、もどってくることはわかっていたのに、平野から出た言葉、「太田さん、悪い事いわないから、日本へ速く帰った方がいいよ。」「なんで、そんな保険が効かない病院に行くんですか」見当違いのことを言うので、「有難うございます。迷惑かけてすみません。」と決まり文句で答えておいた。(彼は、領収書とともに申請すれば即日、保険会社から振り込まれることを知らない)

 知識、行動力が私の100分の1も無い人が、何も知らないのに、私に、「悪い事言わないから」と、上から物をいう、面白い。苦笑してしまった。日本語の使い方も知らない。「悪いこといわないから、自分で日本の医者に確認してよ、」と言いたい。そういう、自分で確認するという初歩的な行動でも思いつかないのです。

一週間後、国立心臓センターに入院している私の部屋へ来て、私が立って対応しているのに、件の平野、いきなり、部屋にあった椅子にのけぞる様に座りこんで、「具合はどうですか」私は、現状と、今までどこの病院へ行ってどんな検査をしたかを説明し、日本人がいる病院にも二箇所行って、日本人の医者の診断を受け、どうしたらいいかも聞いた。日本人医師は、危険だから「飛行機は勧められないシンガポールでも責任は持てない」と、言われたことをまた告げた。平野も伊藤も、ぜんぜん聞いていない。平野、全く私の話を無視し、「太田さん、早く日本へ帰ったほうがいいよ」と、怒るように、言った。伊藤は「金持ちは皆、シンガポールへ行くのに」と捨てるように言った。あほか、この人らはと、改めて思った。とにかく、厄介者は早くインドネシアからいなくなって欲しい、それだけだ。葬式でも出すことになったら一大事、自分たちでは何も手段はないし、独自に情報を集める事ができない、能力が無いので、その気持ちだけ。

見舞いどころか、裏付けもなく、ただただ、早く、インドネシアから消えろと、いいに来たのです。私は、孤軍奮闘、何とか、帰国できるような状態したいと、あちこちの医者に相談しているのに、その手伝いをしようという考えも、毛頭ない。出来ないので仕方が無いが、せめて、私の邪魔だけはしないように願いたいだけなのですが。これからも、邪魔はなくならなかった。

2月10日 インドネシアで楽しく暮らす 15−514(手柄アピール)

斜めからインドネシアを眺めよう 514

それから、また、ほぼ、一週間後の日曜日、呼吸困難で緊急入院していた家の近くのアニッサ病院に現れた。今度は同社の日本人の下手ノ、うどウ、大津さん、三人そろってやってきた。というのは、土曜日に私のパニック状態(過呼吸)を見て、マリアさんが、危機を感じ、私の携帯電話に登録されている人たちで会社関係と思われる人全員に電話を掛けてしまったのでした。インドネシア人スタッフも10人ほど来た。

伊藤、曰く、「メディカロカ(ジャカルタ)の日本人医師、菊池さんに相談して、OKが出たら、日本へ出発する段取りをとるから、明日、ここを出て、メディカロカへ行ってください」と、のたまった。

この時、私の決意は、明日朝早くここを出て、メディカロカへいって、改めて、菊池医師の意見を聞くつもりでいた。医師に何を言われても、その夜、日本へ帰るつもりだった。前日土曜日に、メディカロカは休みだったが、竹の子に電話で、メディカロカの予約をお願いした。アシスタントを通して、月曜日9時に予約をしてもらった。竹の子の医師が「何か事故があったら大変なので、同じ会社の日本人をどうしても紹介してください」というので、伊藤を紹介しておいた。だから、竹の子の医師から伊藤に電話し、月曜日の段取りを話したのだった。それを、伊藤が、あたかも自分が全て、手配したような口のきき方で、平野の前でのたまったのだった。あほかこいつ、こんなところで自分の手柄話をあほ社長に向けにしようとしている。2人とも、厄介払いが、自分の手柄になると思っている。事実、日本の上司は、元小川常務のように、こういうことを評価する人たちなのです。

それを受けて、平野 してやったりと、曰く「医者が帰っていいと言ったら直ぐ帰ってください」「北川社長も日本へ早く帰るように言っているから、帰った方がいい」とまえと同じことを言っていた。「飛行機に乗っていい」というに決まっていると思いこんでいる。北川社長が何故そう言えるのでしょうか、私から何も報告していない北川社長が「早く帰国せよ」というのは、まったく、見当はずれである。北川社長が言っているといえば効き目があると思った平野の口から出まかせとしか思えない。浅はかさだ。愚かな人だ。

帰国し、挨拶にいった時、北川社長に確認したが、「私はなにも状況が分からないから、帰れとも帰るなとも、何も指示していない」と言っていた。当り前の話である。

 

私は、アニッサ病院でモルヒネや精神安定剤を投与され、かなり、不安がなくなっていたので、どんなことを言われても、明日の夜中にインドネシアを脱出するつもりでいた。チケットも既にマリアさんに頼んで、手に入れてあった。

2月11日 インドネシアで楽しく暮らす 15−515(明らかな動揺)

斜めからインドネシアを眺めよう 515

いよいよ、物語はクライマックスに差し掛かってきました。

月曜日に退院し、メディカロカに向かった。彼らは遅い、私が先に着き、菊池先生と相談したが、結局、以前と同じく、原因はわからず、「帰国を勧めることはできない」、「じゃあ、どうすればいいの?」と聞いたら、先生は、「ほかの検査、(まだの、MRI+MRA)などの検査をできるところで、してもらってください、」だけだった。そんな検査はとっくにやっていて、この医師には結果も伝えてあった。ご本人忘れているのだ。専門が循環器なので、どうしてもそっち方向に行ってしまう。「モルヒネは何の意味がない」とか、「三半器管に障害が在るのではないか」と、見当違いのことしか言わない。何度も言っている、脈拍が飛んでしまうことや息苦しくなることについて何も説明しない。この医者じゃ、どうしようもないと思っていたので、帰国前の単なる確認だった。

 平野と伊藤が遅れてきて、入ってきて、話しを聞き始めた。二人とも、「問題ないです」という言葉を期待しながら、「どうですか、日本へ帰すことができますか?」

菊池医師曰く、「危険です。責任は持てません、シンガポールでも、だめです。チャーター機で行くにしても、医師や看護婦の付き添いが無ければ無理です、帰国を強行し、途中で引き返したり、途中の国に着陸したりすれば、何億円もの損害賠償金が発生する可能性があります。」彼らにとっては予想しなかった、ショックな言葉だった。

 平野の戸惑いが、顔に現れた。平野と伊藤の、大落胆したように態度がガラッと変わった。私の体が持つか持たないかより、悲しいかな、その損害賠償金のことが、今度は最重要項目としてインプットされてしまった様だ。基礎知識や行動手段を何も持たないので、態度が単純に見え見えに現れる。帰国など、とんでもないと、180度考えがひっくり返った。今度は、「北川社長が飛行機に乗るなと言っているから、悪いことを言わないから、帰らないで、病院でじっとしていてくれ」。とでもいうのです。「悪いことは言わないから帰れ、」といった、根拠を聞きたい。

朝、退院してきたにもかかわらず、また、入院を押し付けられたが、菊池医師も平野も伊藤もインドネシアの病院事情などなにも知らない。「どこの病院がいい?」私に聞く、MRI+MRA機器病院を選ぶのは私でした。私は、インドネシアから脱出しやすいように、空港に一番近い、国立心臓センター(ハラオアンキタ)に行くことにした。私にとっては、皆さんが側にいることが邪魔なだけ、いれば、分かってもらえるわけが無いのに、説明をしなければならない。

どこの病院へ行くにしても、彼らが一緒ということになれば、時々、気絶しそうになる病人の私が、彼らの世話をしなければならない。私にとっては病気で苦しんでいるうえに、厄介者が付いてきて、彼らに気を使わなければならない。

その日の夕方も、マリアさんに手伝ってもらって、入院手続きをして入院した。その間大男の彼らは何もしないで、見張るように、くっついてきているだけである。私から厄介者と思われている事に気が付かない。

しかし、私の帰国決行の決意は変わっていなかった。インドネシアにいたらどうにもならないことが分かった。決行するしかない。

 

平野と伊藤が立ち行かなくして、閉じる方向に向けてしまったPT.KITAGAWAです。

ここから今日に話。K社のEPTE解除の関係書類を担当している女性が私のところへ面接に来た。来月末までの再々延長で勤めているが、仕事はなく、たまに、ベアチュカイ (税務署、税関)からの書類や修正の依頼があったとき、書いて平野のサインをもらうだけだという。最初、昨年の10月末までの予定だったが、今は三月末までの契約になっているそうで、それが、過ぎても、また、延長になると思う、と、言っていた。その通りだと思う、今年中にEPTEを切れるかどうかも疑問だと思う。ということで、彼女が、K社を見捨てない限りは、私の所へ来る可能性は少ない。

もう一つ理由がある。例の私を落としいれた通訳が送ってきたのでした。通訳は、私に後ろめたさを感じているのでしょうか、車から降りてこないで、彼女の面接が終わるまで車で待っていて、車から出ることはなく、帰って行った。

当然、自分の手柄を誇示するために、通訳の作り話を平野に報告するでしょう、そうすれば、今日面接した彼女は、平野から怒られると同時に、次の勤め先は紹介すると、口から出まかせを言われるでしょう。本当は早く平野を捨てて私のところへ来れば、楽しく一緒に仕事ができるはずだから、平野が彼女の将来のことを考えて、今月末で解雇をしてくれればいいのだが、そんな、器量は全くないでしょう。

もう一人、早く、辞めさせられた女性の方がベアキュカイにコネが効くことを承知している。下手ノはそれを知らないから、若い方の女性を残したのです。もう一人の女性の方を重用していれば、父親がベアチュカイの高いポジションにあるので、EPTEはすでに切れていたことでしょう。

 KPK議長だったアンタサリさん、殺人教唆の罪で、一審判決禁固18年を言い渡された。直ちに上告したが、この判決に対する世論の動向が注目されます。相当な、騒ぎが予想されます。一般市民はアンタサリの無罪は、はめられたと、思っている人が多い。

 2月12日 インドネシアで楽しく暮らす 15−516(覚悟の脱出劇)

斜めからインドネシアを眺めよう 516

この前後の何日かの投稿を、ぜひ、ジャカルタ新聞やジャカルタ日本大使館、日本領事館、ジャカルタ日本人会の方々にも読んでいただきたいと思う。弱い人、自分で行動できない人なら、自殺でもしかねない状況だと思います。普通の人では同じようにはできません。私だから出来た行動でした。

彼らが見張っているので、どうしようもない。その日のチケットをキャンセルし木曜日13日の予約をした。彼らは、ハラパンキタの入院手続きを待ちながら、うろうろしているだけで、何をしに来たのかわからないが、「ここから、出ない様に」と言い残していなくなった。私の病気については何も考えていないのである。

11、12,13日、経理の大津さんが総務のユッサ君と共に、AIUから医療費を受け取るための書類などのことで、見舞いに来てくれていた。直ぐに、今まで払った全額が払いもどされた。約20万円ほどだった。脱出前に受け取れた。感謝です。

別の話だが、経理の手伝いに来ていた大津さんもパワハラの対象になっていた。一年くらいいて日本へ戻った。私とは三カ月ほどオーバーラップしただけだった。しかし、彼には世話になった。事務所で平野や伊藤から大声で、どなられているのを何回か目撃した。怒っている理由が、やはり、二人の知識なしだったことは明らか。

決行について、もし、平野に話せば、今度は帰国なんて、とんでもないと妨害される。既に一度邪魔されているのですから、退院手続きをした後、病院に頼んで、出発時間まで、居させてもらった。そして、誰にも告げず13日、22時病院から抜け出し、直接空港に向かい日本へ出発した。そこまで、マリアさんが献身的な世話をしてくれた。空港で、感謝感激で分かれた。再会を誓った。インドネシアからの決死の脱出劇でした。

私が平野の言ったことに耳を傾けず、自分で医者に確認することもしないで、「帰れ、帰れ」と言っていた人が、医者からの話を聞いたとたんに、「帰ってはならない、」になってしまった。

私が、彼らを無視して、帰国してしまったことを、今度は、他の日本人に、「太田はとんでもない奴だ」と、話したそうです。帰らなくてもトンデモナイ、帰ってしまってもトンデモナイ。今でも、彼が、可愛がっている通訳のデウィからの話でした。どこまでいっても、底抜けにおバカさんで、手の打ちようが無い重病人ですな。 通訳の意識的な間違った噂を吹き込まれ、操られていた操り人形(ワヤン)であることに気が付いていない。平野は現在でも、其の通訳の紐を切られたくないので、唯一の頼りだから、仕方が無い。

サテライトでも機内でも、何度も脈拍が飛んだ、其のたびに、もうだめかと思った。真夜中のフライトで一睡もできなかった。14日朝成田着、頭ががんがん痛む、ふらふらしながら、日本医大成田空港クリニック(ココでもAIUが効く)に転がり込んだ。CTスキャン、心電図、頚部レントゲン、結果、悪いところなし。一時間半ほど点滴を受けながら横になった。なんとなく歩けるようになったので、また、頭がふらふらしながら、成田エクスプレスで、東京駅へやっと着いた。しかし、頭ががんがんして新幹線ホームまで行けない。警備の警官に連れて行ってもらい駅の旅行者診療所で、一時間ほど横にならせてもらった。家まで、よく、自力でたどり着いたと思う。普通は12:00前に家に着くが、この時は17:00過ぎていた。妻には知らせてあったので、あまり深刻に考えていなかったようだった。生きて、自力でたどり着いて、コンナほっとしたことはなかったが、これから、また、試練が待っていた。

2月13日 インドネシアで楽しく暮らす 15−517(パニック障害から脱出成功)
 斜めからインドネシアを眺めよう 517

胃癌の切除の麻酔から目が覚めた時以来のまだ、生きていたという感動でした。しかし、自分の苦しみのほかに、邪魔な余計な苦しみが在っただけに、試練は長かったし、精神的に理不尽を強く感じていた。生き返ったという感覚は数段大きかった。

 まず、何とか早く、日本で、体を治し、次にやるべきこと、やらなければならないことができる体に戻さなければならないことを直ぐに意識した。 再起を課して、必ず治すと誓った。しかし、現実は厳しさが続いた。もうだめだと思ったことが何度あった。

 早速、いくつかの、近所の開業医を回ったが、何の改善もなく、やはり、息苦しくなったり、気絶しそうになったり、ヒドイ、症状は続いた。約、一か月の間に、三回、タクシーで総合病院の救急外来へ夜中に駆け込んだ、しかし、いずれも、原因付いて明快に答えを出してもらえなかった。何より厳しかったのは、頻繁に心臓の鼓動が休んでしまうことでした。必ず、また、動きだすから生きているわけですが、其の都度、もうだめだと思わされた。約、一か月経過後、過呼吸になって、死ぬかと思うくらいに、体が冷たくなり、ガタガタ震えが来て、気が遠くなることを感じた。小康状態で、救急外来に駆け込んだが、其のベッドで待っているとき、また、ヒドイ症状になって、大声で、苦しみ、不安を叫んでしまった。他の優先患者の方にいっている看護婦がすっ飛んできて、私の顔の上に紙袋を被せた。「すぐ、良くなるから、そのまま、呼吸を出来るだけしないように」と言い残して、直ぐ、いなくなってしまった。

その通り、二三分で、震えも冷えも、嘘のように無くなってしまった。ほっとしたところへ、医者がやってきた、症状と私がとった行動を説明した。そして、今は、症状が消えてしまっていることも話した。医者曰く、「今日はもう帰っていただいて、明日、総合診療科で受診してください」とアドバイスを受けた。

この病院の精神内科、外科、耳鼻咽喉科、心臓外科には相談に行っていたが、総合診療科というのがあることを知らなかったし。それらの科の医者から勧められもしなかった。

うつ病など、精神的な原因がはっきり数字で出てこない病気の相談に乗る科だった。簡単にいえば精神病の診療に当たるところでした。神経の誤動作は何を検査しても分からない、症状だけから病名を割り出し、治療に当たるのです。前にも書きましたが、ここで、パニック障害と宣言され、薬を飲んで、其の時から心臓が止まることは全くなくなった。それ以来、何年か後の今も、止まることはない。それだけで、私にとっては十分でした。その他の症状はまだ続いていたが、もうそれで、行動できる、出来ないは私の気持ち次第になったと感じた。発病から約三ヵ月間の苦闘でした。

死んだ気になったのだから、しばらくの休みののち何でもできると改めて思った。

2月14日 インドネシアで楽しく暮らす 15−518(究極のパワハラ)

斜めからインドネシアを眺めよう 518

セントバレンタインデー(Hari Kasih Sayang)とイムレック(春節)が重なった。イスラム国家でも、両方とも賑やかである。イスラムの人も両方に参加する。両方を楽しむ。ジルバブの女性が薔薇の花を持って、真っ赤な飾りをしてあるお寺の境内にいるという風景は面白い。

最初から、他の人に出きるだけ迷惑をかけないように、私自身が、帰国のタイミングを探っていたのです。実際日本人の誰の世話にもならなかったし、頼りにする人はいなかった。邪魔な人の世話をしただけだった。早ければ早い方がいい。そのために、いろいろなところへ行き、いろいろな専門家の意見を聞きたかったのでした。しかし、結局、どこからも、誰からも其れに従おうという処置や意見を聞くことはできなかった。インドネシアにいてはどうにもならないで、自分がどんどん壊れていってしまうことを感じて、最期の決断をした。血液が時々脳細胞に行かなくなり、細胞が死んでしまうことを一番心配した。症状が治まっても、脳障害が残ってしまっては、程度にもよるが、仕事ができなくなってしまうことを心配した。早く治すにはどうしても帰国すると決めた。

一番、私が助かったのはマリアさんの行動力でした。彼女のおかげで、行動ができたし、帰国もできた。私が、もともと、彼女をプレマン(チンピラやドッラッグ)の世界から、助けたのですが、それ以上に彼女は、私の我侭を聞いてくれた。其れに引き換え、平野と伊藤の無知と行動力の無さと、気遣いの無さにはほとほとあきれるばかりでした。言うことなすこと、ピントが外れていた。 “どうしようもない”だった。

 マリアさんの爪の垢を煎じて飲んでもらいたいくらいだ。彼女より、行動力、知識欲、など相当低い。モラルも低い。

どこまでもひどいもので、彼らは他人に、私が頑固で彼らの言う事を聞かない困った人だと言っているし、自分たちのお陰で、太田は助かったと言っている。「あいつは、参ったといわない、」と、周りにふれ回っていると同じ事、厄介な駄々っ子である。邪魔しただけなのに、的外れのことを口走っていただけなのに、なにも、私のための行動をしなかったのに、私を理由なくけなしただけなのに。私が強行帰国した時も、周囲に、太田は自分に断りなく帰ってしまった。自分勝手な奴だと言っていたという。

  彼らパワハラがなければ発病しなかったかもしれないし、早く回復していたかも知れないと思う。中傷ではない、真実である、それは本人たちが一番承知している事であるその証拠に、私がこれだけ書いても、何の反応もない。自分の行動が間違っていないと思っているなら、堂々と書き込んでください。それが出来ないことは分かっていますが。  

  皆さんはくれぐれもこういう目に会わないように祈っています。もしこういう目に会いそうなら、私に相談してください。

 大使館や領事館の人は広報で心の悩みや分からない病気にかかった人は、相談するように呼びかけてもらいたいと思いますし、同僚は何も分からなくても、対策について、領事館に相談するくらいの知恵と行動力を持っていて、いただきたいと思います。

 海外で、駆け込み場所もなく、会社では窓際に追いやられ、日本からの出張者からもしかとされ、それでも、客先に対しては責任を取らなければならない。上司は無知で行動しないのに、口から出まかせで、怒鳴る。こんな状態に置かれて、黙って引っこんでいるというのでしょうか。まだまど、書いていない、直接のパワハラはある。

 結局、彼らが、会社をたたむ方向に向かわせ、閉じる仕事を、最後はしているのですが、なかなか、明け渡すことができない状態で、実際、何もしないでまだ、インドネシアにいる。彼がいるだけで、通訳や運転所を含めて100万円以上浪費していることも、感じていない。

パニックがほぼ治って、手伝った会社もひどかった。この会社については、書く機会が必ずあります。それは、この会社が、やはり、立ち行かなくなったときです。そう遠い先ではありません。

この文章の事実について、反論がある人は、ぜき、ご意見を聞かせてください。         

 北川工業の方はぜひ読んでください。北川工業になったころ、最大の貢献した人物が、現在、北川工業の足を引っ張ってぶら下がっているだけの人に外国で、強烈なパワハラにあっているのです。

 私は、結局、日本の北川工業には40年以上から係わり、インドネシアのPT.KITAGAWA創業から撤退まで、15年かかわっていたし、今も、関わっている。北川工業にとって、こんなに長くかかわっている人は他にない。私が、今係わっている人の中で最長のはずです。日本でも、太田化工で、まだまだかかわり続けるはずです。

まだ、撤退できていないので、関わり続けるが、撤退した後についても他の会社になって、そこの跡地に関わることになるでしょう。必ず再入場します。と、今、南部の第二工場になっていて、自由に遊びに行っています。

もう一社、再入場する会社があることも予告しておきます。EJIPではありませんMM2100です。

技術をもっていて、気持ちに余裕があり、他人にやさしい人は、どこでも、求められるのです。北川工業にもそういう人が多くなってもらいたいと思います。小川常務がいなくなったことは北川工業に将来の足枷を外したことで、よかったと思います。

インドネシアで楽しく暮らす 15−576(パニック障害の予兆

斜めからインドネシアを眺めよう 576

 まだ、雨季が終わっていないようで、うっとうしい日が続いている。着々と良い方向に向かっているが、まだ、完全とは言えないので、毎日、遅くまで、トライをしているし、頻繁に金型屋へ行ったり来たりしている。ワンセットとして、組み立てて見ることができる状態になったが、色合わせがまだである。今日から、順番に色合わせをしてゆく。

 この製品については、今さら、後戻りはできない背水の陣である。これは、この会社もそうだが、客先も完全にインドネシアで何とかしなければなら状態に自分を追いこんでいるので、とことん付き合う。

  自分は頑張っているとか、無理をしているという意識が無いが、多くの他人から見て、頑張りすぎとか、無理しすぎと思われるくらいに、仕事や運動で体力を使ったり神経、頭脳を使ったりする人は、私のようにパニック障害になりやすい。

 

 ここで、パニック障害の完全発病の前の、予兆ではなかっただろうかということを書く。2006年6月に脈が、抜けて、目まいを繰り返し、立っても坐ってもいられなかった。これが、決定的な症状で、それ以後、パニック障害という病気と宣告されるまでの約、2ヶ月半普通の生活ができなかったし、仕事などをすることなど考えないほど、深刻な色々な症状が出た。

 このことは、ブログのパニック障害を検索してもらえば詳しく書いてあります。

その、顕著化する前に、思い当たる症状が、二点あった。2004年 目まいがして、それを二三回繰り返し、立っていられなくなったので、近くの病院へ行ったら、風邪だと言われた。点滴を打って、それきり、その症状は出なかった。その、二三年ほど前から、ゴルフが終わった後、ふくらはぎやモモが釣るようになった。じっと、痛みが収まるまで待つという、やつである。その頻度が次第に多くなり、一回の症状の長く続くようになっていた。2006年前半には、足、お腹の筋肉が、ゴルフなど運動をしなくても、釣るようになっていた。2005年に一回、目まいで立っていられなくなったことがあった。2006年、完全発病する前の一週間前に目まいがして立っていられなくなったが、これも一分間ほどで、治まった。

 

  私が気に入っているインドネシアお勧めの風景。ヌサカンバンガン島の西海岸、http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage00087.html

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage00086.html

泣く子も黙る、島流し島、凶悪犯のほとんどがこの島の監獄に送りこまれる。インドネシア人に、ネサカンバンガンは景色がいいし、ロブスターは、安くてうまいし、観光客がいないのでそれを独占できる、と、話をしても、信じる人はいない。それだけ、監獄島として知らないインドネシア人はいないのです。たびたび、ニュースでこの島のことは伝えられるが、すべて、監獄からみです。もう一枚は、インド洋の大うねりに現れている岩場です。うねりの高低差が少なくみても、3mほどあるので、岩場が消えたり、1m以上の高さになったりする。私たちが使う船はうねりの中で、見えなくなってしまうことが多い。

4月14日 インドネシアで楽しく暮らす 15−577(ハーフタイム)

斜めからインドネシアを眺めよう 577

 パニック障害という病気があることを知っていたなら、どんなに軽く済んでいたでしょうか。完全にひどくなる前に、これがパニック障害の兆候だとして知っていたら、パニック障害にならなくて済んだかもしれない。鬱病は多いと知っていたし、鬱病のことは病院の掲示にも、症状が書いてあって、心当たりのある人は、一人で鬱になっていないで、早く、医者に相談した方が良いとい事が書かれているので、だれでも、症状については知っている。

 処が、パニック障害などという病気があることを全く知る機会がなかった。インターネットで検索しようにも、知らないのだから、出来ない。

 警告と思われる症状は、目まいがして坐ってもいられなくなったこと、足が頻繁に釣るようになったこと、そして、もう一つ、これが不過ぎでした。体中、どこという特定な場所はない、時々、ちくっと、針を刺されたような感じがした。痛いほど、長時間ではない、一瞬です。一秒の何分の一という瞬間です。指先だったり、お腹だったり、頭のてっぺんだったり、目の中だったり、おちんちんの先っほだったり、肛門近くだったり、脇の下だったり、手の甲、足の甲だったりした。

 そのうちに、其の、ちくっときた、一秒後くらいに、くらっと、目まいをするようになった。脈を取ると、その瞬間、二三回分の脈が無くなっているのです。これは、インドネシアでも、日本でも、多くの医者が確認しています。脈が無くなったとき、くらっとくるのです。しかし、それが、不整脈ではではないし、心配するようなものではないと、どの医者もいう。まったく、無責任としか思い様がなかった。脈が飛んで、立っても坐ってもいられなくなっているのに、心配しなくていいという。何もできないし、このまま、脈が止まったままになってしまうかもしれないという、パニックの様な不安はどうしろというのでしょうか。

 人によって程度は違うでしょうが、体のあちこちでちくっとするようなら、パニック障害を疑った方がいい。一度でも、今までになかった、目が回るとか、気が遠くなりそうになったら、また、いつになく体のあちこちが釣るようになって、その頻度が増してきたら、パニック障害の兆候と疑ってみてください。ほっておくと、私のように、とんでもない症状が一挙に噴き出して、パニック障害の究極を経験する羽目になるかもしれませんよ。

 

全ての数値は正常です。平衡感覚も心臓の状態も脳の働きも血液、尿の検査全て健康数値です。ただ、あなたは、しばらく休みなさい。今まで、走りまくってきたのでしょうから、一年や二年はのんびりしなさい。その間に、今後、30年以上ある人生をどう過ごすか考えたらどうですかと、さとされた。

ところが、まだ、今、会社で仕事をしている。

パンガンダランの浜昼顔の向こうに半島と観光客が、見える。インドネシアの田舎どこでもある田園風景。休憩所が必ずある。

 4月15日 インドネシアで楽しく暮らす 15−578(知っている、知らない)

斜めからインドネシアを眺めよう 578

努力はしない、頑張らない、一所懸命やったことが無いと言ったって、それは、自分の意識に内のことで、実際には、おそらく、1000人いても上から五番目以内に入る位の、動きと、頭を使ってきたと思う。それも、いつも、何人かの部下を置いて、私が社長だった時以外は、何人かの分からず屋の上司に気を使って、分けの分からないことを言っている人に、頭を下げなければならなかった。典型的なパニック障害になりやすい環境と性格のように思う。60過ぎまで顕著な発病をしなかったのがラッキーだったような気がする。

この病気は男女比でいくと、女性の方が多いらしい。それも、二十歳頃から発病する人もいるときいている。私の場合はハーフタイムどころかスリークオーター(三分の四)タイムと行ってもいいくらいに遅い休憩になったが、それでも、もっと年を取ってからよりの良かったのかもしれない。といっても、私の休憩タイムは一年足らずでした。そしてまた、普通の人ならストレスたっぷりの世界へ舞い戻っている次第です。

 ネットでパニック障害を検索して、どんな病気かチェックしてみてください。知っているといないとでは人の見方や自分の状態の見方が違うと思います。あなたの身の回りにも、程度の差あれ、何人かのパニック障害の人がいるはずです。

 症状も、感覚も、順番も、全く、個人個人で異なるようです。私の症状についてはパニック障害の項目で読んでもらえれば全て書いてありますが、その気持ちの上で、多くのパニック障害の皆さんと、大きく違う点があります。それは、私は、電車に乗ることはありませんが、飛行機や新幹線には良く乗ります。その、不特定多数の人が一緒にいるときには何も不安を感じません、症状もあらわれませんでした。もし症状があらわれても、どなたかが何とかしてくれると思っているからです。一人の時が、一番不安で、一人の時にかぎって症状が現れ、その程度も、ひどかったように思う。だから、病院では不特定多数が大勢いるし、ましてや何の専門か知らないが、医者がいるわけですから、症状はあらわれない時の方が多かった。だから、医者に説明するのが難しかった。体のあちこちでちくちくして、其のたびに脈が無くなって失神しそうになると、説明しても、医者は、全然、深刻には聞いてくれない。むしろ、三半規管がどうのこうのとか、脳波を取って見たら、とか、今から、思えば、的はずれの事を言っていただけだった。

 いわんや、普通の人に話しても、分かってもらえない。ですから、パニック障害の人は意外に大勢、身近にいると考えて、知識を持っていただきたいと思います。知らないのに知ったかぶりして、いろいろ、アドバイスをしようとする人が、一番たちが悪い。いちいち、受け答えをするのも面倒だし、受け答えしても、頓珍漢な的外れの思い込みを口に出すだけなので、始末が悪い。この病気の人に対しては、無知で何か言うのは罪です。どうか、私のように、ひどい目に会わないように、会わせないようにしていただきたいと思います。

  早起きは三文の徳、ジャングルの中に分け入って素晴らしい滝に出会う。外途中で、私の恋人ラルレシアに会うことができる。

6月4日  (^_-)-パニック障害の原因、症状、治療

斜めからインドネシアを眺めよう 628 

ある人が会社へ来てインドネシアのちょっと昔の話をしていった。その中に、撤退し南部に売ることが決まっている会社の社長さんヒラノが、私が2006年に許可なく急きょ帰国してしまったと、其の人に話をしていたという話が出た。ということで、その他の人にも、私はとんでもない人だったと機会があるごとに言っていた、という話を色々な人から聞いていたので、もう一度、その時のことを載せることにした。もう、私が、インドネシアへ戻れない、何を言っても、私の耳には入らないと想って、私のことを悪者にして自分の状態を正当化しようとしていたことが分かった。

ということで、以前書いたパニック障害についてその原因と治るまでの経過をもう一度纏めて載せます。

 一人でなくて良かった

 今から思い起こすと大変な試練の日々でした。人の手助けだけを考えて行動している私が、強烈なパワハラの対象とされた事実を一週間にわたって書きます。同じような被害の体験者も多いと思う。今は解散したPT.KGS(間もなく私も再入場し押出成形をする可能性がでてきています)の日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。人生が開けます。

 現在 発病以来約四年近くになります。すでに、ほとんど、普通に戻っています。原因がはっきりし、其れに合った薬を飲み続けているからです。病名はパニック障害(不安症候群)です。原因は過度の筋肉疲労と脳の使いすぎと神経の使いすぎだそうです。神経があちこちで誤動作をしてしまう立派な病気です。

インターネットで検索すれば詳しく知る事ができます。

こんなに分けが分からない大変な病気があったとは、全く知らなかった。あちこちで、いろいろな検査を繰り返しましたが、CTスキャン MRI+MRA 24時間レコーディングホルター、心電図、各種エコー、平衡機能検査、胸部、頚部X線、勿論血液、尿検査も全て異常なし。

インドネシアでは、国立心臓センター(Harapan Kita)、たけのこ、Medikaroka、Siloam、SOS,PERTAMINA ANISSA,それらも、二回三回のところもありました。いずれも、的確な病名を指摘してもらえなかった。すべての科から、数値的には正常として見離された。心臓などはこの位の不整脈は誰にでもあることで、いちいち、騒ぐのは臆病すぎるとまで、言われた。ただし、竹の子とアニッサは神経安定剤を処方してくれたので、若干の効果はあった。

 この間、ずっと私の手伝いをしてくれたのがお手伝いのマリアさんでした。彼女は運転免許を持っていたので、真夜中でもジャカルタの病院へ送ってくれたし、入院中は病院から学校に通ったりして、何時もそばにいてくれた。私の病気は別名、孤独恐怖症候群ともいいます。一人の時、色々な症状が出やすいのです。またそれが恐怖になると、なお、出やすくなる。マリアさんがいてくれてどれほど助かったか知れない。

日本では日本医科大成田空港クリニック、そして、静岡県立総合病院、耳鼻咽喉科、神経内科、循環器科、からは見離され、その代わり、神経安定剤のデパス錠0.5mgを処方してもらった、これがとんでもないことになった7月26日、就寝21:00前に飲んで寝た、27日朝 4:30目がさめた、その時から、ひどいことになった。薬が切れたリバウンドだった。息苦しい、両手足はしびれ、痙攣し、しばらく我慢しようかとも思ったが、ただごとではないと感じ、タクシーで県立病院の救急医療室に飛びこんでしまった。

これが、ラッキーだったというか。救急医療室に着いたとたん、ほとんど、意識がなくなってしまったが、医者の診断は過呼吸障害だという。血液中の酸素が多すぎ炭酸ガスが足りないという。呼吸をできるだけ止めるように言われた。紙袋を顔に被せられた。息苦しいのは酸素が多すぎるのに、一生懸命呼吸をしようとするから、なお、酸素が多くなってしまう。初めて知った。(インドネシアではこんな症状が何度もあって、其の都度、死の恐怖を感じた。)

間もなく、正常に戻った。血液検査、胸のX線写真も全く問題なし、その他もやはり、全部正常。明日の朝、総合診療科にかかるようにアドバイスされ、家に戻った。

 

 

翌日09:30 最後の砦である、勧められた総合診療科で受診した。袴田医師である。とにかく、「あらゆる、検査結果が正常。これだけ正常な人は珍しいくらいだ、90−100まで生きますよ」。と言われながら、出された、症状チェック表、

1 息苦しい2 目眩がする 3 頭痛がする 4 頭が重い  5 動悸が気になる 6 胸が痛む 7 目の乾き 8 唾液が減少(口の渇き) 9 寒気 

10 手足がしびれる 11体のあちこちでちくちく感じる 12気絶はしないがしそうになる 13死の恐怖を感じる 14 他人と話しをしている時は症状が現れにくい 

15 一人でいるのが怖い16  それらがおさまっても、それらに対する恐怖心。

17 音に敏感になる。18 脈が飛ぶ。

続いて、見せられたのが、生活状況、1 普段疲れを余り感じない。2 頭脳を常に使っている。3 スポーツは盛んにやる。 4 職場でストレスを感じるが逃げない。

全てが、私に該当した。典型的な、不安症候群(パニック障害)と断定された。「ぴったりの薬があります。主な症状は二週間程度でなおります。」しかし、薬は三種類あり、どれも90%の人に効くということで、まず、其の一種類目から試し始めました。

コンスタンという薬が劇的に効いた。気絶しそうになる事は全くなくなった。それだけでも、不安の90%は解消した。

現在は、パニックはなくなっています。でも、まだ、以前の恐怖が忘れられず、また何か気絶しそうになるのではないか何処にいても、なにをしていても不安です。

 ほとんど発病前にもどっています。

  症状がほとんど消えた一ヵ月後、完全帰国の為の手続きと、身の周りの整理の為にインドネシアへ戻った。一週間ほどの間、親しい方たちに挨拶を済ませ、2006年8月25日PT.KGSと完全に切れた。三人の代表者の元で9年間非常に充実していたが、四人目の代表者のヒラノが着任してからあからさまないじめが始まった。

 そのために派遣された営業の専門家と聞いていたが、仕事を獲得できないし、獲得したわずかな仕事も、間違えて、大損の見積もりを出し、やればやるほど損を大きくしていたのに、本人たちは、大儲けをしていると思い込んでいた。早く、私に入場されると、そういうことが、全て、引き継ぎで明らかになってしまうので、わざと、無血開城を遅らせていると勘繰りたくなる。そういう会社が、解散する状態を書いてあります。今は解散したPT.KGSの日本本社の人は良く噛みしめて、読んでください。目からうろこになるでしょう。

ポンティアナックで高級ホテルのホテルカプアスの朝食です。インドネシアではめったに食べない高級朝食です。ツインベッドルーム(朝食付き)で三千円、一人1500円と言うことになる。私は果物とソーセージにご飯はほんの少し、コーンフレークを少々です。マリアさんはナシクニン(黄色いご飯)に鶏肉をボイルしたものと野菜いためのようなものを取った。赤いサンバルが添えてある、これを付けながら食べるのです。鳥肉に付けてある赤いケチャップのようなものは辛くない。テーマニス(紅茶)やブアブアハン(果物類)はこれの外側に置いてある。

パワーハラスメント  無知  無能

1998年5月の大暴動の時でさえ、インドネシアから脱出どころか、二日後には、自分一人チカランから、料金所が破壊せれて自由通過の高速道路に乗り、キジャンを運転し、ジャカルタのスマンギから、メガモールプルウィット(ジャカルタ北端)まで、写真を撮りながら縦断した、それほど何もかも平気な特殊な私ですが、普通の人が掛からない病気にかかり、大変なめに会いました。
  また、一番身近なはずの人たちが、無理解だったので、なお、えらい目に会いました。この時ばかりは、平気ではありませんでした。大部分の人は、この病気にかかる事はないでしょうが、私のような症状の人には、周りの方たちは、ぜひぜひ、その人の身になって、考え、できる範囲で手伝ってやってほしいと思います。くれぐれも邪魔はしないように。
  外国、ましたや、インドネシアです。その上、強烈な邪魔者はいましたが、自分の手伝いをしてくれている人がいると思うと、どんなに心強いかと思う。
 以下は、私の体験記です。

○ 一人でなくて良かった

 現在 発病以来約一年近くになります。すでに普通に戻っています。原因がはっきりし、其れに合った薬を飲み続けているからです。病名はパニック障害(不安症候群)です。原因は過度の筋肉疲労と脳の使いすぎと神経の使いすぎだそうです。神経があちこちで誤動作をしてしまう立派な病気です。インターネットで検索すれば詳しく知る事ができます。

大変でした。あちこちで、いろいろな検査を繰り返しましたが、頭や胸部のCTスキャン MRI+MRA 24時間レコーディングホルター、心電図、各種エコー、耳の平衡機能検査、胸部、頚部X線、勿論血液、尿検査、呼吸器官のカメラも全て異常なし。数値的にも視覚的にも正常中の正常でした。症状がこんなに出ているのだから、異常ないでは困るのです。病名を早く特定してもらいたのです。治療が出来ない。

インドネシアでは、国立心臓センター(Harapan Kita)、たけのこ、Medikaroka、(どちらも日本人医師がいる)Siloam、SOS,PERTAMINA ANISSA,それらも、二回三回のところもありました。いずれも、的確な病名を指摘してもらえなかった。すべての科から、数値的には正常として見離された。心臓などはこの位の不整脈は誰にでもあることで、いちいち、騒ぐのは臆病すぎるとまで、言われた。ただし、竹の子とアニッサは神経安定剤を処方してくれたので、若干の効果はあった。

 この間、ずっと私の手伝いをしてくれたのがお手伝いのマリアさんでした。彼女は運転免許を持っていたので、真夜中でもジャカルタの病院へ送ってくれたし、入院中は病院から学校に通ったりして、何時もそばにいてくれた。私の病気は別名、孤独恐怖症候群ともいいます。一人の時、色々な症状が出やすいのです。またそれが恐怖になると、なお
、出やすくなる。マリアさんがいてくれてどれほど助かったか知れない。

日本では日本医科大成田空港クリニック、そして、静岡県立総合病院、耳鼻咽喉科、神経内科、循環器科、からは見離され、その代わり、神経安定剤のデパス錠0.mgを処方してもらった、これがとんでもないことになった7月26日、就寝21:00前に飲んで寝た、27日朝 4:30目がさめた、その時から、ひどいことになった。薬が切れたリバウンドだった。息苦しい、両手足はしびれ、痙攣し、しばらく我慢しようかとも思ったが、だだごとではないと感じ、タクシーで県立病院の救急医療室に飛びこんでしまった。

これが、ラッキーだったというか。救急医療室に着いたとたん、ほとんど、意識がなくなってしまったが、医者の診断は過呼吸障害だという。血液中の酸素が多すぎ炭酸ガスが足りないという。呼吸をできるだけ止めるように言われた。紙袋を顔に被せられた。息苦しいのは酸素が多すぎるのに、一生懸命呼吸をしようとするから、なお、酸素が多くなってしまう。初めて知った。アマチュアスポーツマンに多いとい言っていた。10分ほどで、紙袋の効果か、治ってしまった。何をしたわけでもない、紙袋を被せられただけだった。
 (インドネシアではこんな症状が何度もあって、其の都度、死の恐怖を感じた。
過呼吸と診断した病院は無かった。其のたびに看護婦や看護士を怒鳴った。こんな状態の俺を何故、ほっておくんだ、早く何とかしろと。こんな患者早く死んでしまえと思われたかもしれない。)

間もなく、正常に戻った。血液検査、胸のX線写真も全く問題なし、その他もやはり、全部正常。一人の看護婦から、明日の朝、総合診療科にかかるようにアドバイスされ、家に戻った。その看護婦はどんな人だったか、名前も覚えていない。

翌日09:30 最後の砦である、勧められた総合診療科で受診した。今まで、検視したデータを見ながら、とにかく、「あらゆる、検査結果が正常。これだけ正常な人は珍しいくらいだ、90−100まで生きますよ」。と言われながら、出された、症状チェック表、

1 息苦しい(呼吸困難)、2 目眩がする 3 頭痛がする 4 頭が重い  5 動悸が気になる 6 胸が痛む 7 目の乾き 8 唾液が減少(口の渇き) 9 寒気 10 手足がしびれる 11 体のあちこちでちくちく感じる 12 気絶はしないがしそうになる 13 死の恐怖を感じる 14 他人と話しをしている時は症状が現れにくい 15 一人でいるのが怖い 16 それらがおさまっても、それらに対する恐怖心がある。

続いて、見せられたのが、生活状況、1 普段疲れを余り感じない。2 頭脳を常に使っている。3 スポーツは盛んにやる。 4 職場でストレスを感じるが逃げない。

全てが、私に該当した。典型的な、不安症候群(パニック障害)と断定された。「ぴったりの薬があります。主な症状は二週間程度でなおります。」しかし、薬は三種類あり、どれも90%の人に効くということで、まず、其の一種類目から試し始めました。大分、症状が改善されていますが、息苦しさが若干残っています。明月1日今の薬の確認をしてもらい、改めて、処方をしてもらうことになった。

発病、一ヶ月にして、やっと、ここまでたどり着いたと言う感じですが、もうしばらくで何とかなりそうです。コンスタンという薬が劇的に効いた。気絶しそうになる事は全くなくなった。それだけでも、不安の90%は解消した。

現在は、パニックはなくなっています。でも、まだ、以前の恐怖が忘れられず、また何か気絶しそうになるのではないか何処にいても、なにをしていても不安です。
 ほとんど発病前にもどっていますが、医者からも強く、一年近くはのんびりしなさいといわれているので、発病前と同じような行動は取らないように心がけています。ぼちぼちやろうということです


  症状がほとんど消えた一ヵ月後、完全帰国の為の手続きと、身の周りの整理の為にインドネシアへ戻った。一週間ほどの間、親しい方たちに挨拶を済ませ、2006年8月25日PT.KIIと完全に切れた。三人のPDの元で9年間非常に充実していたが、四人目のPDが着任してからは最悪の最後の一年でした。

 無知のきわみ
 ずっとさかのぼって、この事件の一年半前ころ、それ以前は一人だけだったので歯止めが利いていたが、かなり程度が低いお二人さんがそろった状態で会社を任されることになった。私が「通といえばかあ」ならいいが「通といえば鈍」「通と言えば????」になった。挙句に直ぐ二人ともプッツンする。プッツンされて、説明しても、「何のことを言っているのかわからん」とまた。プッツンされる。駄々っ子のようなもの、そのうち、プッツンされても、そのまま、相手にしないようにした。なお、程度の低い同志が気が合って、勝ち誇る。多数決の世界なので、こちらはどうしようもない。「Apa boleh buat」である。
  この事を踏まえて次の話に入る。

 今度は一年ぐらい、さかのぼって、帰国する前、とどめの、程度の低さを食らった。

 2006年6月26日 月曜日の朝、8時過ぎ、ここから、私の試練が始まった。ほとんど、突然、目眩がして、立っていられなくなり、今までに無かったことでしたので、自分自身びっくりで、病院へ直行、リッポチカランのシロアムという、総合病院です。クリスチャン系でインドネシアでは指折りの有名病院です。

しかし、病気はなんだったんでしょうか、結局、医者の見立てでは、血圧も血液検査の結果も、良好すぎるくらいだという。そのほか、心電図も正常。反射神経機能も全く問題なし。歳と疲れからだという。本当かな?と思いますが、そのまま、泊まっていても、進展は無いと判断し、目眩止めの薬というものをもらって、早々、翌日12時に出てきてしまった。何度も気絶しそうになるので、その足で、家の近くのアニッサ病院へ行った。貧血と診断され、増血剤を処方され家に戻った。

その後も、どうしようもないので、アニッサ、ジャカルタのSOS,竹の子診療所、メディカロカ、プルタミナ、国立心臓センター、竹の子診療所、アニッサ、メディカロカ、国立心臓センターの順に二週間、渡り歩いた。

発病して二日後、トップのPDに状況を電話で知らせたとき、電話で最初に日本人の医者からは飛行機に乗ることはたとえシンガポールでも保障できないといわれた、と話したのに、また、AIUの保険が効かない病院でも後で領収書をまとめて請求すれば全額、もどってくることはわかっていたのに、平野という社長から出た言葉、「太田さん、悪い事いわないから、日本へ速く帰った方がいいよ。」「なんで、そんな保険が効かない病院に行くんですか」見当違いのことを言うので、「有難うございます。迷惑かけてすみません。」と決まり文句で答えておいた。
  知識、行動力が私の100分の1も無い人が、私に、「悪い事言わないから」と、アドバイスしようとする、面白い。苦笑してしまった。日本語の使い方も知らない。
  一週間後、国立心臓センターに入院している私の部屋へ来て、私が立って対応しているのに、平野社長、いきなり、部屋にあった椅子にのけぞる様に座りこんで、「具合はどうですか」私は、現状と、今までどこの病院へ行ってどんな検査をしたか説明し、日本人がいる病院にも二箇所行って、日本人の医者の診断を受け、どうしたらいいかも聞いた。日本人医師は、危険だから「飛行機は勧められないシンガポールでも責任は持てない」と、言われたことをまた告げた。PDもNo2のMGも、ぜんぜん聞いていない。PD、全く私の話を無視し、「太田さん、早く日本へ帰ったほうがいいよ」と、怒るように、言った。MGは「金持ちは皆、シンガポールへ行くのに」と捨てるように言った。あほか、この人らはと改めて思った。とにかく、厄介者は早くインドネシアからいなくなって欲しい、それだけだ。葬式でも出すことになったら一大事、自分たちでは何も手段はないし、独自に情報を集める事ができない、能力が無いので、その気持ちだけ。

それから、また、ほぼ、一週間後の日曜日、家の近くのアニッサ病院に現れた。今度は同社の日本人の三人そろってやってきた。というのは、土曜日に私のパニック状態を見て、マリアさんが、危機を感じ、私の携帯電話に登録されている人たちで会社関係と思われる人全員に電話を掛けてしまったのでした。インドネシア人スタッフも10人ほど来た。

MG曰く、「メディカロカ(ジャカルタ)の日本人医師、菊池さんに相談して、OKが出たら、日本へ出発する段取りをとるから、明日、ここを出て、メディカロカへ行ってください」と、のたまった。平野曰く「北川社長も日本へ早く帰るように言っているから、帰った方がいい」とまだ言っていた。北川社長が何故そう言えるのでしょうか、私から何も報告していない北川社長が早く帰国せよというのは、まったく、見当はずれである。北川社長が言っているといえば効き目があると思った平野の口からでまかせとしか思えない。愚かな人だ。

この時、私の決意は、明日朝早くここを出て、メディカロカへいって、菊池医師の意見を聞くつもりでいた。医師に何を言われても、その夜、日本へ帰るつもりだった。前日土曜日に、
メディカロカは休みだったが、竹の子が開業していたので、電話で、メディカロカの予約をお願いした。アシスタントを通して、月曜日9時に予約をしてもらった。竹の子の医師が「何か事故があったら大変なので、同じ会社の日本人を紹介してください」というので、NO2を紹介しておいた。だから、竹の子の医師からNO2に電話し、月曜日の段取りを話したのだった。それを、NO2があたかも自分が全て、段取りをしたような口のきき方でのたまったのだった。あほかこいつ、こんなところで自分の手柄話を社長に向けにしようとしている。

私は、アニッサ病院でモルヒネや精神安定剤を投与され、かなり、不安がなくなっていたので、藪医者が何を言っても、明日の夜中にインドネシアを脱出するつもりでいた。チケットも既にマリアさんに頼んで、手に入れていた。

月曜日に退院し、メディカロカに向かった。彼らは遅い、私が先に着き、菊池先生と相談したが、結局、予想通り原因はわからず、帰国を勧めることはできない、じゃあ、どうすればいいの?先生は、ほかの検査、(まだの、MRI+MRA)などの検査をできるところで、してもらってください、だけだった。専門が循環器なので、どうしてもそっち方向に行ってしまう。「モルヒネは何の意味がない」とか、「三半規管に障害が在るのではないか」と、見当違いのことしか言わない。

平野と伊藤が遅れてきて、話しを聞き始めた。二人とも、「問題ないです」という言葉を期待しながら、「どうですか、日本へ帰すことができますか?」

医者、「危険です。責任は持てません、シンガポールでも、だめです。チャーター機で行くにしても、医師や看護婦の付き添いが無ければ無理です、帰国を強行し、途中で引き返したり、途中の国に着陸したりすれば、何億円もの損害賠償金が発生する可能性があります。」私が、前から、そう報告してあったのに、私の言葉を無視していて早く帰れと言っていた。そんなことは、すっとんでしまって、保証問題と云われて、頭がパニックになってしまった。

平野と伊藤は、大落胆したように態度がガラッと変わった。私の体が持つか持たないかより、悲しいかな、その損害賠償金のことが、今度は最重要項目としてインプットされてしまった様だ。基礎知識や行動手段を何も持たないので、態度が単純に見え見えに現れる。帰国など、とんでもないと、180度考えがひっくり返った。今度は、北川社長にはどう報告するのかなと思う。

私は、SOS病院からビンタローのインターナショナル病院経由でシンガポールの病院へのチャーター便で行く手段としてあることを知っていました。菊池医師も平野も伊藤もそんなことは全く知らない、知っていても手伝いは出来ないので、私はその手段について話さなかったし
、話しても、聞かない振りをするでしょう。二人ともそんな知識も行動力も無いので、そんな方法は100%考えられない。私が逆の立場なら、先頭に立って手段を尽くして手伝いをするのに、彼らには出来ない。私にとっては厄介者で足手まといなだけだ。

朝、退院してきたにもかかわらず、また、入院を押し付けられたが、菊池医師も平野、伊藤MGもインドネシアの病院事情などなにも知らない。MRI+MRA機器病院を選ぶのは私でした。私は、インドネシアと彼らから脱出しやすいように、空港に一番近い、国立心臓センターに行くことにした。私にとっては、彼らが側にいることが邪魔なだけ、いれば、分かってもらえるわけが無いのに、説明をしなければならない。どこの病院へ行くにしても、彼らが一緒ということになれば、彼らを待たなければならない。その日の夕方、入院手続きをして入院した。手続きはいつもの通りマリアさんと私がやる。彼らは何もしない、くっついてきているだけである。私から厄介者と思われている事に気が付かない。

 彼らがいるので、どうしようもない。その日のチケットをキャンセルし木曜日13日の予約をした。彼らは、何をしに来たのかわからないが、「ここから、出ない様にと」言い残していなくなった。私の病気についてはどうするの?である。

 11、12,13日、Oさんがユッサ君と共に、AIUから医療費を受け取るための書類などのことで、見舞いに来てくれていた。数日後に、今まで払った全額が払いもどされた。約20万円ほどだった。感謝です。

 もし、平野に話せば、今度は帰国なんて、とんでもないと妨害される。既に一度邪魔されているのですから、そして、誰にも告げず13日、22時病院から直接空港に向かい日本へ出発した。そこまで、マリアさんが献身的な世話をしてくれた。空港で感謝感激で分かれた。私が言ったことを聞かずに、自分で確認することもしないで、帰れ、帰れと言っていた人が、医者からの話を聞いたとたんに、帰ってはならない、になってしまった。私が、帰国してしまったことを、今度は、他の日本人に、私はとんでもない奴だと、話したそうです。今でも、可愛がっている通訳のデウィからの話でした。どこまでいっても、底抜けにおバカさんで、手の打ちようが無い重病人ですな。彼らのパワハラによって病気になって、病気になってからも、イジメ抜かれた。手伝いの手の字も彼らにはできない。それほど、何も、行動できない人たいでした。仕事を取れないので結局、その三年後には、会社を閉じることになった。閉じる仕事もまともにできず、決定してから二年以上かかった。売り先も、私が段取りをしなければもっと長引いたでしょう。

飛行機の中も一睡も出来なかった。一人で、このまま、死んでしまうと何度も恐怖を感じた。14日朝成田着、頭ががんがん痛む、ふらふらしながら、日本医大成田空港クリニック(ココまでAIUが効く)にたどり着いた。CTスキャン、心電図、頚部レントゲン、結果、悪いところなし。一時間半ほど点滴を受けながら横になった。なんとなく歩けるようになったので、また、頭がふらふらしながら、成田エクスプレスで、東京駅へやっと着いた。しかし、頭ががんがんして新幹線ホームまで行けない。警備の警官に連れて行ってもらい駅の旅行者診療所で、一時間ほど横にならせてもらった。ここでは、横になる場所を貸してもらうだけで、何の検査や診断もしない。家まで、よく、自力でたどり着いたと思う。

 最初から、他の人に出きるだけ迷惑をかけないように、私自身が、帰国のタイミングを探っていたのです。早ければ早い方がいい。そのために、いろいろなところへ行き、いろいろな専門家の意見を聞きたかったのでした。しかし、結局、どこからも、誰からも其れに従おうという処置や意見を聞くことはできなかった。一番、私が助かったのはマリアさんの行動力でした。彼女のおかげで、行動ができたし、帰国もできた。私が、もともと、彼女を助けたのですが、それ以上に彼女は、私の我侭を聞いてくれた。其れに引き換え、平野社長と伊藤NO2の無知と行動力の無さと、気遣いの無さにはほとほとあきれるばかりでした。日本人の大の男で普段威張っているだけの大男達は、言うことなすこと、ピントが外れていた。「Apa boleh buat」だった。

 
どこまでもひどいもので、彼らは他人に、私が頑固で彼らの言う事を聞かない困った人だと言っているし、自分たちのお陰で、太田は助かったと言っている。冗談じゃない。彼らのパワハラが主因で発病した。中傷ではない、真実である。それは本人たちが一番承知している事であるが?マークが付く。将棋で言うなら、自分が王、その周りある駒は桂馬くらいのもの、他に何もない。それで、将棋を指そうとし、全部そろっているこちらの陣の玉の周囲にな何もないとしか見えず、参ったかと、大音声を上げているようなもの、こちらが、金も銀も飛車も角もふも揃っていますよと、いくら説明しても、彼らには何も見えない、と同じ事。あいつは、参ったといわない、と、周りにふれ回っていると同じ事、厄介な駄々っ子である。
  皆さんはくれぐれもこういう目に会わないように祈っています。もしこういう目に会いそうなら、私に相談してください。

パニック障害 その後 ★

薬を飲んで治ったが、20ヶ月経過、薬を飲み続けている。医者から、もういいというまで、飲み続けるように言われている。
 この薬は、神経を使わなくする薬、頭を使わなくさせる薬、サボらせる薬である。だから、ずっと、体が重い、だるい。運動をするのも頭を使ってなにか考えたり、コンピューターに向って文章を書いたり図面を書いたりすると直ぐ疲れるし、止めたくなる。眠くなる。いつもあくびをしている。注意していないとつい、他人と話しをしている時でも大あくびが出てしまう。
 体も頭も休めなさいという薬です。この薬のせいかどうか、体重が二年弱で12Kgも増えてしまった。食事を増やしているわけでもない、むしろ、ダイエットのため食事を減らしている。それでも、体重が落ちない。
 ほどほど、運動はしている。ゴルフは月二回以上、山の中に入るハイキングも月に二回、工場を歩く時は、早足で歩いている。
 40年一日40本吸っていたタバコをきっぱり止めたからが、最大の太る原因になっているかもしれない。コーヒーも好きで一日最低三杯飲んでいたのを止めた。これも原因かもしれない。 酒は飲めない、タバコは吸わない、コーヒーも飲まない。仕事をしていても、頭を使っていても疲れる。是では太らない方がおかしいかもしれない。
 ともあれ、現在は、こうしてインドネシアで仕事を続けている。パニック障害も引っ込んでしまっているが、なんとなく、だるいのは薬のせいでしょうか、年のせいでしょうか。 
 死ぬと何回も思った。インドネシアでも日本でも医者にこんな状態の患者を放っておくなと、叫んだ。看護婦に何とかしてくれ、早く医者を呼んでくれと何回も頼んだ。マリアさんには夜中に何回も病院まで連れて行ってもらった。日本でも救急車は呼ばなかったがタクシーで数回、大きい病院の救急センターに飛び込んだ。その都度、ただ事ではないパニックになった。いつくるか分からない恐怖は、なった人でなければわからない。
 それが、今は、ケロッとなくなってしまっている。しかし、何処か、以前と違う。このままでいいのでしょう。なにも、今は他人の世話になっていないのだから。

 2009 01 03 発病以来二年半 コンスタン パキシルをパニック障害鎮静用で、また、副作用?の胃酸過多を防ぐために、タケプロンODを毎日服用してりる。この三点セットで、一応、安心して過ごしているが、試しに一日二日休んで見ると、ふらっとした状態になるのでまだ治っていないと思い、飲み続ける。一回に90日分処方されるので三か月に一回日本へ帰って専門医に相談している。

 薬の効果?副作用?常に体がだるい。眠い状態が続き、油断すると大あくびをしている。昼間、何回もあくびをする。仕事をしながら、ゴルフをしながら、あくびをしている




貴重なご意見ありがとうございます。

 
2009−04−25 御本人にも了解していただけると思いましてここにそのまま貼り付けさせていただきました。私はインドネシアでどうしてもやらなければならない使命感のような仕事が有りますから、最低5年は仕事を続けます。それ以上できます。

はじめまして、45歳、男、独身、自営。

インドネシアに興味があってネットで色々な方のブログや情報を集めていたところ、貴殿のブログ&ホームページにたどり着きました。

ブログを拝見しているうちにぐいぐいと引き込まれ、豊な文章力と豊富な話題に感服いたしました。ブログにおいてはバックナンバーまで3日ほどかけて全て読ませていただきました。

お会いした事もお話したこともない方をこれほど共感、感銘、リスペクトした自分に驚いている次第です。インドネシアのこと、また仕事の事、どれも私の興味のあることで大変楽しませていただいております。

 

さて今回、メールさせていただいたのは、貴殿のパニック障害についてのことです。

貴殿が体験された苦しみは100%理解できます。はい、そうです私もパニック障害だからです。

私は地獄のような苦しみを1年、その後ほんの少し楽になって2年、合計3年間は闘病生活をすごしました。と、過去形になっていますがそれから1年ほどで現在に至るのですが完治したとは思っていませんが、日々の生活において不安や苦痛は一切ない日常を過しております。

私の場合、一切、医者には行っておりません。これを言うと「なんだ、たいしたこと無かったからだ!」と言われそうですが、それはまったくの誤解で、病気自慢をしても仕方ないですが、おそらく貴殿と同じかそれ以上の苦しみを体験していると思います。

なぜ、医者に行かなかったのかと申しますと、最初はそういう病気があるということを知らなかった、気持ちの持ちようだ、自分の意思(気持ち)がマイナス思考過ぎるのだ、自分自身が情けない、自分がしっかりしていればこんな事にはならない!と、言いきかせていたのですが、だんだんひどくなってきてネット等で調べるうち、パニック障害と言う病気である事がわかりました。

色々な方の情報をネット上で拝見したのですが、どうも病気である事を皆でいたわりあっているだけの内容が多く自分の病気自慢やこれほどの薬をこれだけ飲んでいる、と言った薬自慢が多いようです。少し前向きな内容でも「私もひどいよ、皆も頑張ろうね!」と言う内容が多く、マイナス同士がいくら集まってもマイナスにしかならないのにと思いました。「私はこうして抜け出した!」と言う内容があまりに少ないように思いました。

そんなマイナスな渦の中に自分も入っていくのかと思うと、絶対に嫌だ!自分はこうはなりたくない!と強く思い、それが私の場合、病院に行く事をかたくなに拒んだ理由です。病院にいけば病人であることを認めることになる!そうなると抜け出せないぞ!と言う思いで、医者には行かず、薬を使わず病気と闘いました。

毎日毎日、どこにいても何をしていても不安と恐怖は付きまとい、毎夜一人になるときが苦しみのピークでした。

どのように戦ったかと言うと、ひたすら耐えるだけ、それだけです。

あまりの苦しさに最後は、この苦しみの先には何があるのだろうか?死ぬのか?等々自問自答し。

最後は戦いを放棄して、もうどうにでもなれ、死んだら死んだ時や、自分の力はそれだけのもんや、自分自身の強さにかけてみたのです。いわゆる開き直りですね。

ベッドで苦しみに身を任せてじっとしている時、おそらく脳内のストレスが頂点に達したのでしょう、その時、突然訳もなく、とても爽やかな至福感に包まれていきました。

いわゆる脳内麻薬(エンドルフィン)が自己防衛のため分泌されたのでしょう。この体験は衝撃でした。これをきっかけに症状が出なくなっていったのだと思います。

パニック障害では絶対に死なない、どれだけ苦しくても最後は楽になる、と言うことを実際に体験する事で、安心感が生まれ、そうすると不思議な物で不安になる理由がなくなったわけです。

 

で、差出がましいようですが貴殿のことについてです。

現代の日本の医療事情はひどい部分があり、薬に頼りすぎています。とりあえず薬を処方して、症状を抑えれればそれで良い。心療内科系の多くの医師に患者を治すという意識が無いように思います。「ハイ、パニック障害ですね、じゃぁこの薬を飲んでれば大丈夫ですよ〜」ほとんどがそれですね。

「私が付いていますから、おかしくなったらいつでも来なさい、私と一緒に病気と闘いましょう!」なんて先生はほとんどいないのではないでしょうか。

貴殿もそんな現代の医療環境の犠牲者のお一人だと思います。

パニック障害を治す薬はありません。症状を止める薬があるだけです。薬には必ず弊害があります。その弊害は貴殿自身が一番ご存知でしょう。

 

失礼ながら貴殿が勘違いされていると思うことがあります。

最近でも感じておられる

>>頭が重い、常に眠い、たまに、頭がくら〜〜〜っとするなどの症状は未だに引きずっ

>>ている発病以来、今の薬を飲み始めたら、すぐにパニックになる症状は無くなってし

>>まったが、現在の症状はあい変わらずである。三年近く過ぎたが、すっきりしてしま

>>う薬はないものかと思う。

>>不安から、解放されることはない、いつも意識をさせられている。

これらの毎日の貴殿の症状はパニック障害の症状ではないです。今飲んでる薬の弊害であり副作用が出ているだけです。

これからも毎日薬を飲み続ける生活と薬をのまないでも大丈夫な生活、どちらをお望みかは聞くまでもないことですね。

まったく関係ない私がまったく知らない人にこうやってメールするのも不思議な縁ですがこれをきっかけに、薬抜けにチャレンジしてみてはいかがですか?

いいんですよ、失敗しても、薬を飲めばな楽になれるのですから失敗を恐れる事は無いんです、貴殿はタバコをやめれました、やめれない人は多いです。やめれない人はニコチン中毒(肉体依存)ではなくて精神依存に勝てないだけです。

貴殿がタバコをやめれたのは精神依存を振り切れる力があったからでしょうか?それも少しはあるでしょうが、それよりも貴殿の体自身がタバコはやめた方がいいよ、と反応したからだと思います。もうそろそろ薬もやめた方がいいよ、と、体が反応してくるころだと思います。

自分の体の強さを信じてみてください。貴殿の今までの人生をブログを通じて拝見しました。こんな病気にいつまでも負けている人ではないでしょう。とりあえずチャレンジしてダメだったら休憩、そして気が向いたらまたチャレンジ。それの繰り返しでいいと思います。

薬の量を少しずつでも減らしていけるのではないかと思います。

 

貴殿から見ればまだまだ若輩者の小僧の私ですが僭越ながらアドバイスさせていただきます。

薬を徐々に減らして行くために常に思っておくことは。

 

パニック障害では死なない。

もしそれで死んだらそれまでの人間とあきらめる。(笑、大丈夫死にはしません)

辛くなったら薬を今までどおり飲めば良い。気が向けばまたチャレンジ。

 

貴殿の服用している薬を調べましたところ、どちらかと言うと依存性と副作用の強い薬ですね。3年間ものみ続けているのですから、いきなり全てやめることは無理ですし、そんな冒険はやめた方が良いです。徐々に減らしていく錠剤なら割って量を減らしていく。少しずつ少しずつでも良いです。まだ2種類の薬を飲んでいるのでしたら、どちらかからでも良いです。どちらか一方の薬は必要ないかもしれません。今日はこっちを少し減らして・・・・そのような試行錯誤は得意分野でしょう。

3日に一度は薬を抜く、そんなやり方でも良いでしょう。

 

私も完治したとは言いませんが、何とか日々健康に暮らしております。その手助けになった一つに、おどろくほど効果があったのが呼吸法です。偶然ネットで見つけて騙されても損は無いと、信じてやって見ました。これは効果ありますよ。

http://panicom.jp/index.html

 

http://panicom.jp/cure/index.html

 

特に貴殿の場合、過換気症候群(過呼吸症候群)の傾向があるのでこれをマスターすればもう怖い物無しです!!

薬抜けをする前に1〜2週間、練習してみればいかがですか、ホームページでは10分間を一日3回、としていますが私は夜寝る前に5分程度しているだけです。それでも効果があり、日常で、やばいかな?と思ったとき実践すれば不思議と収まりますね。

脳に送る酸素圧が睡眠時の一番リラックスしている時と同じ状態を故意に作る、なるほど理論的ですね。

 

ネットをよく見ておられるようなので既に知っておられる事かもしれませんね。

効果が無いと思われたかもしれません。でも、もしそうでも、もう一度やってみてはいかがですか?

 

貴殿の場合、パニック障害と言うよりは過換気症候群であるだけだと思います。パニック障害ならどんなに頑張っても貴殿のように飛行機に乗って日本との往復やドイツ旅行、また、休日のゴルフ、インドネシアでの活動的な旅行等等、絶対に無理です。

過換気症候群の発作が出たときの恐怖心がいつまでも残っていてその不安が付きまとっているだけでしょう。

もちろんその時の恐怖は私にもわかります。それゆえに呼吸法をマスターすれば過呼吸には絶対なりませんので、意外と早く完治すると思います。

 

いつか笑い話になる日がきっと来ると信じて。

 

乱文の上に長文、失礼しました。

お体に気をつけ、まだまだこれからも活躍してください。

 

最後に吉田拓郎の歌「ガンバラナイけどいいでしょう」を送ります。

http://www.youtube.com/watch?v=pFJBI4eZICc


 

随筆
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