随筆

12月26日 インドネシアで楽しく暮らす 15−468(アクシデント)

斜めからインドネシアを眺めよう 468

 日本のほとんどの会社は今日から休みになっていると思う。家のすぐそばに丸子工業団地がある。車の部品やいろいろな装置屋が、あるが、日本のこの不景気の中、今日も仕事という会社は無かったようでした。プレスのドカンドカンという音は24日、私が戻った日には既に聞こえてこなかった。

 

 下の前歯4本はインドネシアで入れ歯にして快調、何でも、丸かじりに自然にできて大満足、下の歯が外れてしまった原因のトウモロコシの丸かじるも平気で出来ていた。インドネシアでは珍しい韓国産の梨も丸かじり、ところが昨日、富士リンゴの丸かじりをしたら、ガリッと音がして、いやな予感がしてしまった。

 いやな感じが的中、上の前歯の一本が裂けたように前半分だけが取れてしまった。残りの相棒の一本も前へ傾いてしまった。ショック、せっかく、見た目、完璧になったと思っていた矢先だった。暮れ正月は、このまま、間の抜けた顔の状態で過ごすしかない。恰好悪くて、口を大きく開けられない。困ったものである。

 インドネシアへ戻ってから、治すしかない。

今日はゆっくりできると思ったら、妻は、午後から、ボランティアの生け花教室へ行ってしまった。二人は、近所の子供たちと遊んでいたが、近所の子供はお出かけするから、遊びを止めてしまったので、彼女たちも帰って来てしまった。そうなると、今度は、公園に連れて行って欲しいと云いだした。車に乗せて、近くの駿河湾は用宗海岸の広野公園へ連れて行った。東海地震が来れば、いの一番に何メートルもの高さの津波が押し寄せる予定の場所である。海賊船が沈没しそうな形をした遊具がメインで海岸の台風などの時の防波の施設や駐車場、トイレや遊具など何億円掛けたのでしょうか。しかし、県や市の地震津波お対策とどう関係があるのか、不思議である。何十年も、前から、明日来ても不思議ではないという、一番危険が予想される場所に、こんな子供たちが集まる施設を作るとは、そして、地震津波対策をしていない、近くに避難所はないとは、地震や公園関係省庁や課は、何を考えているのか、理解できない。

もっとも、私は、東海地震の周期説など最初から信じないし、どちらかというと、人心を惑わす悪質な預言者のいうことを予算配分者が利用したにすぎないと思っている。

地震の発生予知は100年後でもできないと思っている。 

 

ところで、妻は18:00まだ帰っていない。今日帰ってくると云っていた若夫婦もまだ帰ってきていないので、二人の孫の相手をしながら書いていた。

 

12月27日 インドネシアで楽しく暮らす 15−469(異次元)

斜めからインドネシアを眺めよう 469

 帰国してから、四日過ぎて、昨日の夜遅く、娘夫婦が戻ってきて、再会した。アルノさんの希望で、姫路や松本の城を見てきたという。最後が皇居だった。

孫達はまだ起きていて、彼らと対面するなり、飛びついて大喜び、いきなり、ドイツ語会話が始まった。内容は、早口で、私には全く分からない。異次元の世界へ行ってしまったみたいだったが、その瞬間、日本語で、私にパパとママに会えて嬉しいと、日本語でいいながら、飛びついて来た。一瞬にして普通に日本語とドイツ語を巧みに切り替える。孫たちの頭の中はどうなっているのでしょうか、すごいと思う。会話に迷いがない。とどこうりがない。考えてしゃべっている風はまったくない。

3才4才だから出来るのだと思うが、それでも、まったく、私にといっては、想像ができない世界である。とにかく、感心するばかり。

 

 孫達は、英会話はできないし、アルノと話す時は英語だが、娘と三人だけしかわからない世界に入ってしまうので、英語を使いにくい。それで、私は日本語で話をし、娘にドイツ語で通訳してもらうことにした。二人きりの時は、英語で話す。インドネシア語は全くお呼びでない世界になってしまう。

 

どういう気まぐれなのか、婿殿が家の中の不具合か所を修理したい、と、云いだして、其のための道具や使うものを、ホームセンターへ買いだしに、行くことになった。障子紙やノリやボルトなどなど、総金額、2万円以上、誰がだすかと思っていたら、お父さん、お金持っている?と来た。労力は提供するがお金は出してよというわけである。

トンカントンカン始めた、手伝うわけにもいかず、家の中で私は落ち着かない、私の居場所がなくなってしまって、普段、家にいる時の定位置にいることができず、二回の昔の子供部屋へ移動、それで、自分の部屋へ戻ってくることができたのが18:00回っていた。どこうをどう直したのか、見た目や明るさや私が扱う物の使い心地に全く変化は見られなかった。どこを直したのか見ていなかったので、分からない。

 

12月28日 インドネシアで楽しく暮らす 15−470(巣籠もり)

斜めからインドネシアを眺めよう 470

駿河湾用宗(もちむね)海岸、東海地震が襲ったら、この海の向こうから、大津波が押し寄せる予定になっています。2012年12月22日はどうでしょうか

朝から、しとしとと雨、初めての雨でした。かと思ったら、10時前には晴れ間が広がって温かい。

今頃書くのは、もう遅れているかもしれないが、“巣籠もり“何とかかんとかというのが私の耳には新しい。今年の流行語大賞をチェックしてみた。意味が分からなかった言葉が何点かあった。意味が分かっても、何故これが?というのもあった。やはり、浦島太郎である。”間際消費”というのも新しい。“巣籠もり“何とか、というのは流行語のなっていなかったので、まだ、新しいらしい。お金がないから、出来るだけ、家に閉じこもって何もしないでじっとしている人が増えている。そこで、その人たちをちょっとでも、こもりっきりから引っ張り出してお金を使っていただこうと、あの手この手を考える、という、現象を云っているらしい。

ぎりぎりまで、買わない、とか、行かないで迷っている人達を最後だから、期間限定だから、ここがけだからとか、あなたみたいな人達だけだからといって、一押しの誘いをして、気持ちを動かそうという商法に乗せられて、お金を使ってしまうという、のが、”間際消費”と云うらしい。いずれも、ぎりぎりの攻防というか、努力というか、涙ぐましくて、日本も、こんなになってしまったのかと、気の毒に思う。

 

 ところで、6か月ぶりの日本で一番目についたのが、黄色ナンバーの車である。今や、車の半数以上が小型になってしまった印象がある。県立病院の駐車場の病院に近い場所は、小型専用駐車場かと思ったくらいで、白ナンバーが一台もない、百台近く全部が見事に黄色ナンバーだった。お年寄りや女性は病院へ早く来て、駐車場に入ってすぐの建物に近い所に止めるのでしょう、だから、黄ナンバーが先に駐車してしまうのでしょう。

 それから、その気になって見ると、一般道や他の駐車場でも、黄色ナンバーは確かに多くなっている。高年齢化と節約志向で、軽の利用者が増えていることは、世相を表して、当然だと思う。

 

 “派遣切り“”正社員切り“は流行語に乗っていたが、”就職浪人“などはもう言葉として定着してしまって流行語になる資格がない。日本も、ここまできてしまったのか、日本の将来、どうなってしまうのでしょうか。

 今日の夕方17:00頃のスーパーマーケットは活気がなかった。

 

12月29日 インドネシアで楽しく暮らす 15−471(鼻水ゴルフ)

斜めからインドネシアを眺めよう 471

 日本でのゴルフ、雨に降られなかっただけでも、良かったと、しなければならないでしょう。インドネシアなら5:30家を出て、6:00過ぎにティーオフで、11:00頃終わり、昼食を皆さんと取って、13:30頃ゴルフ場を後にする。しかし、日本の真冬のゴルフはそうはいかない。ゴルフ場までは家から一時間かかるとして、06:00、真っ暗の中、家を出て、7:00過ぎに到着、夜が明けた、7:35ティーオフでした。

 とにかく寒い、ひたすら寒い、そして、霜が降りてそれが凍っていてつるつる滑る。日が当たりだしたのが、8時半を回ってからだった。鼻水が止まらない、両手袋をしていても、かじかんでいて、自由が利かない。体の回りも悪い、出ない距離が尚でない。良いこと無しで、ただひたすらゴルフをする。そして終わったのが、15:00頃、早い方である。明るいうちに、家に着いた。

 日本でのゴルフは、私が返ってきたということで、普段、ご無沙汰している方たちが一緒にやってくれるので、断るわけにはいかない。孫や婿殿が来ていても、久し振りにお会いする方々の方が優先となる。違うメンバーで31日にも予定されている。

 インドネシアで日常的に気楽な人々とやっているのとは、ちょっと意味が違って、ちょっと重要な機会です。

 

 お風呂に入っているとき、パニック障害の症状は消える。このことは、この病気の症状が出始めたときから意識していた。湯舟に浸かって、天井を見上げているとき、頭の重さがなくなる、目眩をしそうな心配が消える。なぜなのでしょうか。気持がいい。具合が良くない時でも、バスタブに入れば、悪い具合が消える。薬を飲むより効果がある。しかし、出て、しばらくすれば、前の状態に戻ってしまう。

 また、日本の寒い時期には、症状が軽くなる、時には、症状のことを意識しなくなっている自分に気が付く。なぜでしょう。共通点は、頭が冷えている事です。頭が収縮しているときです。

 とにかく、お風呂に浸かると極楽々々である。特に、日本の冬のお風呂はGoodである。

 

12月30日 インドネシアで楽しく暮らす 15−472(続いている)

斜めからインドネシアを眺めよう 472

住処からロンボク島リンジャニ山への往復、一人で、車でやってみました。かなり、無茶な行動でしたが、かなりの記念になりました。写真集です。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/index.htm

 

 典型的な冬型西高東低の気圧配置がしばらく定着しそうで、北日本は、厳しい天候が続きそうですが、静岡は乾燥した澄み切った天候が続きそうです。

 家電安売り店へ行って、インドネシアではまだ、売られていないと思われる、USB port hubUSB扇風機を仕入れてきた。LEDランプはインドネシアで売っている。

 ホームセンターのジャンボエンチョウというのが静岡市では一番大きい。二店舗ある。富士市に遠藤材木店が発祥だが、私が東洋プラスチック精工時代、K君という従業員がいた。彼は共産党の下部組織、民青という組織の地方のリーダーだった。私とほとんど同じ年齢で、彼が組合の委員長選挙に立候補した。そこで、私としては彼が委員長になってしまうと外部の上位団体が乗り込んできて、引っかきまわされる恐れを感じて、会社側というわけではなかったが、彼が無投票で委員長になってしまうことは許せなかった。私がそこでやるしかないと思って立候補した。結果は大差で私が勝手しまった。落胆したかどうかは知らないが、しばらくして、会社を辞めてしまった。

 また、しばらくして、結婚した。その相手が、富士の材木屋の娘さんで婿養子に入った。民青仲間のようだった。ところがである。義父がそのころの走りのDIY店をオープンさせた。その後、チエーン点を作っていった。彼が経営者になったのです。民青のリーダーだったころの思想とは全く逆の方向になったのですが、矛盾を観じなかったのでしょうか。そして、静岡市に進出させ、地元では、一番、有名な大きい、ホームセンターになった。初代の静岡支店長が彼だった。私も、静岡に進出していたので、工具をよく買いに行った。店で、彼と会うたびに、現状を話していた。

 先日も、インドネシアへハンドキャリーする工具類の買い物にいったが、彼は社長になっていて本部の富士にいると、会計のパートの女性が言っていた。

12月31日 インドネシアで楽しく暮らす 15−473()

斜めからインドネシアを眺めよう 473

 大荒れの天気らしいが、静岡そしてスルガ(天国)は快晴、とまでは良かったが、2009年末日、大晦日、何が、こんな日までと言われそうだが、ゴルフ。途中から、強風が吹き荒れ、風が収まるのを待ってからでないと打てない。寒いさむい、鼻水タラタラ、体が強張って、パットもままならない。散々な最終ゴルフでした。余りの冷たさに風呂へ入って、温まって車で居眠りをしながら家に帰ってきたのが17:00。付き合いで、仕方がない。インドネシアでの仕事と大いに関係がある。

まだ、発表はできないが、MM2100やEJIP或いは、JABABAKAで何かが進行しているというか、決まっている。

今年は、この歳になって、やらざるを得なくなって、やってしまったことが多く、しかし、どちらかというと準備の年でした。ほとんど、準備が整った年でした。万全とは思わないが、ほぼ、予定通りで進行した。動きはこれから、表面化し、波紋を大きくしてゆくことになるでしょう。

お世話になった方々、皆さんに御礼を申し上げます。来年もよろしくです。

 

家庭的には、小さい幸せを享受している。ドイツから娘夫婦と孫二人、四人,にぎやかである。買い物も、ねだられれば、買ってしまう。分けのわからないおもちゃも買ってやってしまう。おじいちゃんとしては泣かれたり、愚図がられたりされることが苦手、その前に彼女たちが欲しがる物は買って上げてしまう。これが、小さな幸せである。日本に集合できることが小さな幸せである。

 

ゴルフの帰りは一般道を使って帰った、大崩海岸から富士山と愛鷹山と日本平を望む、駿河湾は一望である。焼津と静岡を結ぶ断崖絶壁に海岸道路で、大型車両は通行できないので、観光バスは通過できないため、素晴らしい場所だが、知られていないと思う。

 

1月1日 インドネシアで楽しく暮らす 15−474(集合)

斜めからインドネシアを眺めよう 474

皆様 新年明けましておめでとうございます。Selamat tahun baru皆様にとって、充実した年になるようお祈り申し上げます。

部屋の中は縁側から日差しが入って、暖かい、ほり炬燵も暖房もいらない。その温かい中で、全員で8人集合。この中に四世代入っている。私の母親から孫までです。こういう雰囲気の中で、なぜ、五日後にはインドネシアへ単身戻らなければならないのかと、ふと思う。

流石に冷え込んで0℃以下になったと思う。庭一面の霜柱でした。

 

 私の母親は、93歳、孫の下の子は3歳、90の違いだ。私とは63歳違いである。母親は何度も骨折を繰り返してはリハビリも繰り返したが、流石に、歩行が難しくなっていて、車椅子ではないが、歩行補助機が必要で、畳の上にも歩行器を持ち込む。しかし、頭の中はまっかく正常でぼけなど全く感じられない。私の母親である、まだまだ、長生きをしそうで、私がインドネシアで仕事をしていても、余り心配することはない。逆に私の体調や環境を心配してくれる。

 三歳の方は、ドイツ語も話せるようになってきて、父親と話をしているときには、私は仲間に入れない。フィギアースケートを見て、くるくる回転しながら、おじいちゃん見て、と、言っている。2010年1月1日のスケッチ。

 

1月2日 インドネシアで楽しく暮らす 15−475(残りわずか)

斜めからインドネシアを眺めよう 475

 暮れの紅白は見なくても、これだけは聞き逃せないというか、見逃せない。ウイーンフィルハーモニック ニューイヤー コンサート。 ヨハン シャトラウス作曲のワルツやポルカと父親のシュトラウス一世のワルツなどを主体とする恒例に一日にオーストリアはウイーンの楽友会大ホールで行われる定期演奏会です。今回は名匠フランスのジョルジュ  プレートル指揮でした。何年か前に小澤征二が指揮をして、日本でも認知度が増した。NHKの教育で生中継をする。ハイビジョンでも夕方再放送がある。明らかに日本人の観客も多い、観客の中に日本人の女性が着物を着ている姿がよくアップにされる。

 最後に鉄砲の音を鳴らす“狩り”“美しき青きドナウ” と、これを聞かないと正月を家で過ごしたという気がしない。というより、何年も前から、これを聞かなかった年は今までになかったと思う。

 

 また、若夫婦は孫を置いて、街へ出かけた。というか、孫と一緒に送って行ったが、2日で、初売りの日、町中はごった返しているし、駐車場が満車でなかなか駐車できない。信号待ちで、二人を降ろし、孫と三人で駐車場を探し続け、やっと見つけ駐車で来た。それから、三人連れで、街に繰り出した。まず、風船をもらって二人がどこに行ってもわかるようにした。駅ビルのパルコから、呉服町を通って七間町まで、途中、遊んだり食事をしたり、ドーナッツなどをねだられたりしながら、道中を続けて、無事に駐車場に戻った。

 行き交う人たちが、二人の顔を見れば、かわいいという、高校や中学の女の子は触ったり,撫でたりする。どこの国とのハーフ?と聞いて来たりする。そのあと、私の顔を見る。そして、何とも言えない複雑な顔をする。どういう意味だろうか、多分、アンバランスを意識している顔だと思う。わかっているが、どんなもんだという気持ちもある。太田さんの孫とは思えないと、言われたことは何度もある。悪い気はしない。

1月3日 インドネシアで楽しく暮らす 15−476(今年は違う)

斜めからインドネシアを眺めよう 476

 ラデツキー行進曲までを昨日はNHKBSHVで聞いた。婿殿はオーストリアで、ライブで聴きたいと言っていた。家から、車で4時間くらいの距離だそうだ。

 

 日本人は初日の出を神格化し手を合わせ、何かを祈る。そういう考え方は、日本人独特のものだと、言っていた、人がいた。インドネシア人は日本人と同じ行動をとります。一月一日の初日の出もそうだが、何でもない日でも、山や海で日が昇る光景が素晴らしいことを期待して多くの人が見られる。そして、日が昇れば、私とまったく同じように両手を合わせて、お祈りをする。終わった後、何を祈ったの?と話をしあっている。アッラーが唯一の神と信じ切っているイスラムの人々が祈っています。自然にそういう心境になるのでしょう。宗教はそのあとだということが分かります。

 

 インドネシアで仕事を始めて14年ほど過ぎる、毎年、暮れから正月は日本にいる。そして、必ず、両足に膝下に湿疹ができて、痒くてたまらなくなる、掻いてしまうので、どんどんそれがひどくなり,広がってしまう。その原因が、確定できない、医者に相談したこともない。インドネシアへ戻れば、一週間以内に何事もなかったようにかさぶたも取れてきれいになってしまうからだ。しかし、今回は、ジャバベカゴルフ愛好会の世話役をしていただいている方から、メンソレタムが効くらしいというアドバイスで、帰国してすぐ塗ってみた、また、ソックスに残っている洗剤のアレルギーということも考えられるので、ソックスをはかないではだしで過ごした。どちらの効果かわからないが、今回は全然湿疹が現れない。不思議なくらいである。助かっている。

 しかし、靴下をはかなかったからだと思うが、踵の両脇にアカギレが口を開いてしまって、痛くて仕方がない。これは、メンソレもオロナインも効かない。一年後は靴下をはいて薬だけのテストをしようと思う。

 

 アルノが、リフト式立体駐車場がドイツにはない、これは、ハイテクパーキングだと喜んでいたが、インドネシア、ジャカルタにもないと思う。両方とも必要がないのだと思う。インドネシアの場合、一時間2000Rp(20円)では、採算が取れない。

1月4日 インドネシアで楽しく暮らす 15−477(仕事始め)

斜めからインドネシアを眺めよう 477

仕事始めに日でした。インドネシアの工場の計画を練ってきた。大きな話が一杯あるが、メインは医療関係になるので、その準備の予定表を作ってもらうこととし、派遣員も今の一人から二人目を決めてもらったので、工事の監督をしてもらいながら、インドネシア人とインドネシア語に慣れてもらうことができる。外に出してある設備は全部一か所に集めたので、コントロールパネルなどの準備もできる。押出エリアの排水、給水の工事はすぐに発注してもらって、2月末には全面移転できるようにしてもらう。私も、二月末にはPTが新しくできた処に移る。別の会社に入って手伝うことになる。VISAも書き換えなければならない。

 

 孫の七五三のお祝いの真似ごとで、着物を着せて家族で写真館へ行き、記念写真を撮りに行った。婿殿には私の着物を着させて、参加させた。面白い思い出になったと思う。“馬子にも衣装“でなく”孫に着物”でした。かなり、可愛かったと爺バカで思う。

 今の写真案は、デジタル一眼レフを使って、何十枚かを撮影し、すぐにモニターに移して、すべてを全員でチェックし、選んで、註文をする。昔の様にべた焼きをしたり、全部写真にしてその中から選んで、大きく焼いてもらうという手間がなくなっただけ、受け取りが速くなった。

 

 もっとも、私が撮影したものを、プリントした方が、安く、きれいに、また、変化に富んだ、写真や思い出ができるはずである。事実、年末年始の写真集をメモリースティックにまとめて、明日渡すことにしている。

 

1月5日 インドネシアで楽しく暮らす 15−478(さよなら、スルガ)

斜めからインドネシアを眺めよう 478

 日本最終日、完全にリラックスした、日々でした。こんな、気楽な、楽しい環境を後にして、なぜ、一銭にもならない、責任ばかり大きく背負い込む、場所へ行かなければならないのでしょうか、それも、この歳になって。それも、ときどき、気が遠くなるような不安があるのに。

 

 それは、唯一つ、どうしても、インドネシアでやらなければならないと思っていることがあるからです。このまま、日本に引きこもっていては、自分を納得させることができないことがあるからです。インドネシアで仕事をしていなければ、それが、できないからです。その舞台を昨年一年間で準備をし、殆ど整えたからです。

 私がやらなければならないことを、承知している人がインドネシアに一人半いるはずです。なぜ一人半かも、その人たちには分かっていただいているはずです。お待たせさせてしまっている会社、人たち、もうしばらくです。

 

太田化工へ行って、皆に新年の挨拶をし、製品のサンプルをもらってきた。インドネシアで製造し、ネット販売、カタログ販売をしようと思う自社商品の参考にするためである。今度こそ、本社が、押出成形を理解している会社と組んでやるので、誰にも、気兼ねなく、というより、期待されて、押せ押せで、インドネシアのお客さんを開拓できる。

 

 N社へエッジングの注文を出したK社の判断は理解できない。私の技術がN社に行ってしまった姑息な手段は以前スパイラルチューブの製造装置でもあった。真似した方も真似させた方も気の毒に思う、私の技術を、私の了解を得ずに、間接的に手に入れて、生き延びようとするその人は、一時期、私がちょっと見習った、七歳年上の人です。しかし、ある時期から、私がやっていることを真似して、私の客先に横から割り込むような商売の仕方になってしまって、可哀そうに思うようになってしまった。他人のふんどしで相撲を取って、一時しのぎをしようとする人が多い。日本にもインドネシアにも、同じような日本人はいるものだと思う。

日本滞在
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