踏んだり蹴ったり

斜めからインドネシアを眺めよう 600

せっかくの600号というのに、さえないタイトルである。

今回はひどい風邪をひいて参っている。今がピークだと思うが、喉は痛いし、鼻水たらたら、クシャミも激しく、熱も高いと思う。頭がふらふらしている。それでも、出勤して走り回っている。走り回らないと、目前の仕事がかたづかない。緊急の依頼で、どうしても私でなければ対応できないし、インドネシア人に責任を押し付けられない。 

新型インフルエンザではないし、鳥でも豚でもないと思う。薬を飲んでも無駄なので、飲んでいない。医者にかかっても、行程を経なければ治らないことは分かっている。ただただ、耐えて、時が過ぎるのを待つしかない。もう、五日で治るはずですから。

他人に移さないようにできるだけ、他人のそばに近づかないようにするのが、一番、気を使うところです。特に日本人には近づかないようにしている。それでなくても、皆さん、まだ、インドネシアのビールスやアメーバに対して免疫はないし、インドネシアの風邪に対しても免疫が無い。ちょっとしたことで、下痢や腹痛をおこしがちである。

 

どこかで、前にも書いたと思うが、私は、インドネシアの方が日本にいた時より風邪にかかり安い。日本では、冬に一回風邪を引けば、次の年の冬までかかることはなかった。一回の冬で二回引くことは全くなかった。インドネシアは、風邪を引いて、治って、これで新しい免疫ができたから、一年ぐらいはかからないと思いたいが、そうはいかない。治っても油断するとそう日をおかずにまたかかってしまう。今回がその例だ。

違う風邪のビールスが沢山あるのだと推測する。それと、部屋の中の冷房の効かせ具合と、外との温度差。エアコンの温度設定を25度以上にしておいても、寒い。風邪が直接来ればもっと寒い。そこに出たり入ったりするのですから、大変つらい。

長袖のシャツを常時持っていて、事務所に入ったときには着るようにしているが、それでも、寒い。

寒い寒いと思うと、また、直ぐ風邪を引く。皮膚のセンサーがインドネシア人と同じようになってしまっているのでしょうか。インドネシア人は雨季乾季の交代の時期に風邪を引く、しかし、温度差は、10度もない。5℃くらいだと思う。それでも、体調を壊しやすいし、風邪を引きやすい。

ホテルやレストランへ行くときは分かっていれば、厚手のメリヤスの長袖の下着と長袖のシャツを着て行く。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

風邪  目まい  冷房

仏滅三隣亡に女神達

斜めからインドネシアを眺めよう 601

 今日もさえなかった。暑かったり寒かったり、頭の両側で、蛇が鎌首を揚げて飛びかかるようなシュッシュという音がする。その音がうるさくて眠れない。22:00に寝て、00:35に目が覚めてしまった。それから、眠れない、寒気で体がガタガタ震えるし、シュッシュとい音は相変わらずで、おまけに、両こめかみがずきずき痛んだ。どうしようもなかった。その中で、仕事の事を考えていた。02:30には寝ていてもしょうがないので、起きてしまった。それから、夜明けまでが長かった。病院へ行かないと決めていてが、この調子では明日のゴルフができなくなるし、耐えているのもつらいので、病院へ行くことに決めた。06:00頃、ご飯とみそ汁食べた。全て食べた処で、吐き気が生じた。それととともに、お腹が痛くなってしまった。食べたばかりのものを全部吐いてしまった。仏滅三隣亡である。目は回るし、一遍に五つも六つもつらい症状が来てしまった。

 07:00に家を出た。仕事のことで思いついたことを実行するために会社へ行った。口を半開きにして、前後左右の車を見ているのか、見ていないのか、何も考えないで、時に注意もしないで運転しているなと、運転しながら思った。ちょうど通勤時間でバイクが車の回り溢れかえっていたが、そんなことを気にする頭の状態ではなかった。金型の何点かを車に乗せて、金型鉄工場(ベンケルサンジャヤ)へ行って、修正を頼んだ。太田さん、どこか悪いの?顔色が悪いよ、と言われた。重い風邪にかかってしまったと答えた。水を持っていなかったので、そこの冷蔵庫からアクアのボトルを一本もらって口の渇きを潤した。08:15でした。

 そこを出て、ふらふら運転しながら、ジャカルタの病院へ行くか、ジャバベカにするか迷った。この時間にジャカルタへ向かうと09:00に着いてしまう。スリーインワンの関係で、行こうと思っている病院へは行けない。会社に戻って一時間、時間つぶしをするしかない。ということで、直ぐにジャバベカのハラパンクルアルガへ行くことにした。09:00前に病院へ着いた。ドクトル ウムウムに掛った。症状を全部言った。熱は下がっていて36.3度、血圧は問題なし、診断の結果が、食中りということになってしまった。おいおいと、思ったが、直すというより症状を和らげる、あるいは無くす薬を処方してくれたので、病名は何でも良かった。診察料、薬四種類三日分で約900円、領収書をとっておいて、いつか、保険会社に請求しようと思う金額ではない。これが、ジャカルタの日本人医師に掛ったら一万円以上になるでしょう。

 途中、果物屋へ寄って、リンゴとナシとドリアンを仕入れた。

 家に戻ったのが、11:00ごろ、リンゴとナシを食べた後薬を飲んだ。12:00過ぎにはお腹の調子は回復した。後は頭だけである。ふらふらは治らない。なにをすること出来ないから、テレビを見ながら横になっていた。

 16:00頃、ジャバベカゴルフのキャディーから電話がかかってきて、明日は何時スタートか聞いてきた。その時、私の状態をいったら、19;00に三人のキャディーCantikどころが家へ来た。ダギンサピとソプブントゥッツを途中で買ってきてくれて、私がおいしいおいしと食べている間に洗濯やアイロンかけや汚れた食器を洗ってくれて、21:30に出て行った。彼女達は明日05:00出勤である。お陰さまで明日はゴルフができそうだ。

ボゴール方面の山、多分,グヌン プトゥリか。

まいった  どうしようもない  感激

古い長い友達

斜めからインドネシアを眺めよう 603

日曜日から月曜に掛けて久しぶりに途中目が覚めないで朝6時までぐっすり眠れた。

今なぜかと言うと、思いついたから書く。

風邪ではなく花粉症(小、中、高、大学のころその名前はなかった)だった私は、小学校の時から、二月三月は必ず激しいクシャミと鼻水に襲われていた。ノドや頭が痛いわけではない、熱が高いわけでもない。だから、自分は風邪を引いていないと思っていたが、回りや両親は風邪だとしか思わなかった。お前は、体が弱い、直ぐ風邪を引くと言われていた。親から、学校の先生にもそういう報告をしてあったようだ。

日本にいた間、53歳まで、花粉症は友達だった。毎年、トイレットペーパーを5本以上使いきっていた。

小学校5年の終わりの時、送辞を読んだ。その時も鼻水タラタラ、涙がポロポロ、クシャミをこらえながら、読んだ、多分、卒業して行く皆さんは感激し、印象深かったと思う。年度末テスト、卒業式、入学試験この時期なので、大学を卒業するまで、集中力が無く、満足な状態ではなかった。テストは、いつも、皆さんに迷惑をかけるので、半分くらいの時間で、提出し、先生の許可を得て、外に出て、一人で、校庭をふら付いていた。一日に何科目かが有る時は一々、途中で外にでた。答案用紙を見返すことはなかった。だから、一問目や二問目の簡単な場所で、早とちりの間違いが多かった。最期近くになればなるほど、難しくなるので、間違うことや分からないことはなかった。

30歳、社長になってからも、同じである。その頃になると、花粉症が認知されてきた。効く薬が有るとか、あそこの医者が打ってくれる注射はよく効くとか、こうすれば体質が変わって花粉症が治るとか、色々な人が色々なことを言ってくれる。しかし、私は、子供のころから、色々やっていて、いずれも、効果がなかった事を知っていると思う人はいない。結局、症状を一次和らげる方法は有っても、完全に治す方法は未だに無いのです。 厳重なマスクをし、ゴーグルを掛けても、なるのです。軽かったか、そうでなかったかは、対策を取っていない時と比較できないので、効果のほどは分からないことになる。私は酒をまったく飲めないのと同じで、色々試しても無駄だということが分かっているので、なにも、しない。

 サクラのころにすっと症状が無くなってしまうのです。後で、思い返して、何日から無くなったかを確認できないほど、なんとなく自然に治ってしまっているのでした。

 風邪を引いたくらいで会社や学校を休むなよ。というのが私の精神でした。今も、風邪で会社を休み事は無い。休日でも、やっておきたいことが思い浮かべば、会社へ行く。火傷や切り傷もそうだが、風邪くらいで、同情はしない。もう一人休めば学級閉鎖になるという常態になって、友達から、お前も休めよと言われても、私は休まない。

 インドネシアに杉の木は無いと思う。インドネシアへ来て、一番うれしかったことは、この花粉症と決別できたことだった。パニック障害になって、一年半、日本にいた時、やはり、ひどき、花粉症の症状が出た。その時は、20日間ほど、インドネシアに逃げた。

ドラッグでは有りません。私が処方された薬です。何に効果が有るのか書いてある、食前食後などのタイミングや一日何回何錠などとも書いてある。次第に、客先に見せられるような状態になりつつある。

 長〜い友達  つらかった  分かってもらえず

 5月11日  何がなんでも今日

斜めからインドネシアを眺めよう 604

花粉症の話の続きをちょっと書く。会社は静岡と焼津の境目の大崩海岸の近くで、駿河湾が目の前に広がっているが、振り向けば、険しい崖が有る山。杉の木が大変多い。花粉も出来たて新鮮の地場物が飛んでくる。花粉症の人にとっては、一番つらい場所に在った。お客さんで花粉症の人は、ひどくなって帰って行った。話をしているうちの次第に症状がひどくなってゆくのが分かる。笑っちゃいけないが、帰った後、つい笑ってしまっていた。

 大きく、作り直した金型が出来上がってきた。これで、全アイテムの良品サンプルが整うことになる。今も試作中である。明日,朝一にサンプルを提出して、出来れば、承認を得て、量産に入りたい。今週末、三連休になるが、皆さんには出勤してもらって生産続行すれば、なんとか、客先の組み立て開始までに間に合わせることができるようにしなければならない。

ノコ歯の自動カッターが二台搬入された。これで、七ラインが運転可能になった。そのうちの三ラインが一社に独占されることになる。また、一ライン半はもう一社用に使う。また、一ラインは一社用になる。空きは、一ライン半だが、今日見えて、オーディットしていった会社が半ライン使う。また、連休明けにオーディットに来る会社用に半ライン使うことになっている。自社製品の試作、開発に一ライン使うので、可能性として、来月半ばには、新規の仕事を入れられなくなる。

 そうなることは分かっているので、一か月に一ラインずつ、運転ができるようにしていって、8月末には十ライン運転可能とする。再生ペレットの製造も6月初めから開始するよう、客先から、再生対象品のサンプルが持ち込まれている。インドネシアに再生ペレット屋は掃いて捨てるほど有るが、ナンブは難しい、再生を手掛ける。再生できなくて、山積みになっている廃棄プラスチックを対象とする。

 この仕事の関係ではマフィアが仕切っていることは承知している。新規参入は難しいし、日系企業ならなお難しい。しかし、変ですが、私自身は、その連中たちとも知り合いが多いので、話はMAKUTAの時から継続している。NANBUとしてどうするかは、私には判断できない。
風邪は治ったので、一人でいても心配無いと言っているのに、小遣い稼ぎに押し掛けて来てしまっている。マリアさんが戻るまで、入れ替わり立ち替わり誰かが来てしまうのではないかと心配になる。てな訳で、ピンボケですが、本当に来てくれている天使たちの内の一人の証拠。

ジャカルタはスディルマン通りのラトプラザGフロアーの中華レストラン“ライスボウル”で食べたイフミー(カタ焼きそば)三百八十円。普通はパリパリしているのだが、ここのは、ミーが汁に浸ってしまっているので、柔らかい。 

背水の陣  ギリギリ  お願い

6月9日  (^_-)-そこまでやるか!!

斜めからインドネシアを眺めよう 633

イトウが私を陥れようとしてやったことは、不良品の一次保管場所から、不良品を取りだし、出荷するために準備された製品に混ぜてしまったことです。その出荷品の箱には一次、二次の出荷検査をした人の名前の印が押してった。彼女達は出荷検査のベテランで10年、同じ製品の検査をしている、間違えて不良品を客先に渡したことは一度もない。彼女達も今回のクレーム発生については、納得していない。そんな製品を通すわけがないほど、幼稚な、不良品だからである。コの字型が閉じている製品の開き具合を、全品ゲージを通過させてチェックしている。今回のように足がコノ字より、開いてしまっている製品は場合によっては出来てしまうが一目見ただけで開いているとわかるし、いちいちゲージを通さないでもわかる。そもそも、製造ラインの検査、立ち上げの検査でそんなものは跳ねて、不良品の箱に移してしまう。それが、後の検査工程に送られることはない。そういう製品が、不良の原因といって、検査や品質管理から製造に返品されたことは一度もなかった。今回クレームが発生したLOTでもなかった。

遡って、今回のクレームの対象になった製品の状態は、エッジングという製品で若干閉じていなければならないが、コノ字が開いてしまっていて、なお且つ、1Mの製品が折り曲げられた癖がついている、二重の不良現象でした。100本一袋の中に20本、そういう製品が入っていた。どちらか一つ、折れているだけ、開いているだけというものは無く、開いていて、折れ癖がついている。ここがポイントです。そして、何千本もある一つのLOTの中の一つの箱の中にだけで、他の箱にはない。それも、その箱の中の20本だけというのもポイントです。

 

開いているだけなら、良品ができる前の立ち上げの調整中に、そういう状態になる時があります。間違えて、OK品にしてしまうことは万が一あるかもしれません。そういう状態は再現できます。しかし、その製品が折れ曲がっているというのは再現できません。と言うのは、一つの箱の20本だけを連続して折り曲げることをやろうと思っても製造装置では出来ないし、再現できません。作った後に、製品の重ね方、並べ方によって、下の方の製品が荷重で曲がることはあります。しかし、この曲がりは折り曲げたような状態にはなりません。また、曲がった製品を真っ直ぐな箱に100本並べておくと、その曲がりは真っ直ぐに作ったばかりの状態に戻るのです。何もしないのに、折り曲がることは無いのです。

 二重に検査して封をした製品の一つの箱だけに不良品が入ることは在りえないのです。再現できないのです。

 

 ただ一つ、出来る方法が在ります。その方法は、開いてしまっていてNGの箱に入れてあった製品をその箱から取り出し、20本まとめて二つ三つ折り曲げて縛って、二三日置いておけば、コノ字が開いてなお且つ折れ曲がり癖がついて二重のNG品を作ることができます。それを、ほどいて、出荷前のOK品の箱の中の良品と入れ替えれば出来ます。

 検査前の製品に混ぜたら、NGとして跳ねられるし、もし、はねられなくても、一つの箱に纏まって入ることもありません。

 

 そういう状態に押出の連中がするはずがありません。また、押出以外のインドネシア人でも思いつきませんし、そんな嫌がらせをする理由がありません。また、やって、ばれたら、この会社に居られなくなります。

こんなに分かりやすい不良原因が二つ一遍に重なるのは、偶然ではないことを押出の連中は全員知っています。これを、イトウに言えないのです。イトウは、私に対し、再現できたと、怒鳴るように言った。しかし、私は確認していない。

押出の素人が、押出、特にこの製品については40年前に日本で私が初めて作って北川工業の主力商品として、発展に貢献したものでした。この製品の製造方法は今でも、私の考案した方法でしかできていない。それほど、物性に関しても知り尽くしているのです。私が再現したというか、私が作っていて偶然に出来てしまったとか、そういうことは全くない事を、イトウは一日で作ったというのです。狂っているとしか思えない。何を言っても無駄の状態にあきれるばかりです。  

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.html

技術の紹介です。現在、沼津の名取という会社に技術をぱくられて同じ方法で製造されてしまっています。若いころ、会社が近かったこともあって、経営についていろいろお話をしてもらい、また、亡くなった元富士プラ精工社長の塩崎さんと沼津工業高校の同級生ということもあって、尊敬していた経営者だったので、大変残念に思います。

この人にも、そこまでするの?と思います。

それから、四年、今でも、再びこういう状態は偶然でも、意識的にでも製造過程では出来ない。太田化工で40年作っているがこういう二重の不良品ができたことは無い。

 私ができる方法は不良品を折り曲げて縛っておく、というやり方だけです。それをイトウがやったのです。自分がやっていないなら、ぜひ、怒ってください。そして、私に製造装置で再現して見せてください。もし、装置が、今ないと言うなら、その準備のために五千万円を渡してもいい。出来るなら、大変な新技術だと思うからです。他の製品開発に応用できます。

                                             

 こういうことが、これだけではないのです。他の製品でも、最終検査を終えて、梱包し、出荷前倉庫に入れたのちに、その製品を、梱包の外から、強い力(バットのようなもので殴ったような)で中の製品を変形させてしまって、その製品の箱をいくつか積み重ねた内側に入れてしまって、外から見えなくしてしまってあったものもが、客先で発見されてクレームが付いたものや、やはり、完成品の端を火であぶったような、溶け方をした製品が客先で見つかったり、油が注ぎ込まれたのでしょう、潤滑油が異常に付着している製品が客先で発見されたり、製造工程では絶対出来ない不良原因で客先からクレームが立て続けに付いた期間があった。すごいでしょ。心理的に私が、とんでもなく頭にくる邪魔ものだったのでしょうね。こんな、辛辣なことが現実にあるのです。怖いですね。

私もインドネシアで散々対象にされたオガワ元常務のパワハラとセクハラは内部告発によって排除されたが、彼にすり寄って、同じような行動、言動をした何人かは廃除される運命にある。元PT.KGSの御二人さんもその対象になることは、明らかです。もしそうでなければ、新社長が考えている北川工業の社内の風通しをよくするための改革はできない。

中国系のお寺は、どこも、ド派手。田舎の川沿いの家の風景、それぞれの橋はその家のもの

際限ナシ、  狂気、  ひたすら耐える、

 

 

6月10日  (^_-)-Say no to IJIME

斜めからインドネシアを眺めよう 634

  インドネシアのあちこちにSay no to Drugという看板が掲げられている。いじめ、パワーハラスメントについて、思うことを書きます。

私が、インドネシアでアドバイザーをしている間、強烈ないじめの対象にされた理由ははっきりしています。私の存在が、彼らの立場を危うくする、自分の立場を奪われるという、被害妄想です。彼らの共通した性格は臆病で、他人に接する時、不自然なくらいに丁寧。鳥肌が立つくらい丁寧。一旦、他人の目が無くなると、今度は、ひどく怒りやすくなる、すぐに、プッツンして怒鳴り出す。仕事はできないので自分自身でやることは殆どない、怒鳴ってやらせることが得意である。白を黒だと言って押し付ける。言いぱなしで、相手の意見を聞こうともしない。始末が悪い、駄々っ子が間違って経営者に押されてしまった。自分から、経営者になれる人ではない。

そういう人が牛耳る会社に居てしまったのです。私が選ぶことはできない。

置かれた状況は、

1 アドバーザーという地位であって、直接的な上から下への組織の中に入っていない。

2 押出という仕事では、私以外は全くの素人。

3 品質管理や経営能力、営業能力、人の使い方、接し方、言葉を覚える速度、生活順応等は全て私が上。

4 日本の社長からの依頼

アドバイザーとして、私が持っている知識や行動、部下たちへの指導力、外部との接触力、これらを、見習ったり、うまく使ったりして、自分も勉強し、自分の能力を高めると同時に、会社を外部関係や内部的にも安定させる方向にもっていけばいいと思うのだが、その、能力が無いので、私を目の上のたんこぶに思ってしまうのです。苛めても、いじめても、すごすごと引き揚げないので、いじめがどんどんアカラサマになるのです。

第三者の日本人が見ていない閉鎖された特殊な環境なので、誰に気を使うこともない、やりたい放題がエスカレートする。彼らは、いじめてなどいない、と、言い訳を外に向かって言う必要もいないし、私がパワハラにあっていると叫んでも、誰もが、確認する方法がない。事実、北川工業の本社は、パニック障害で居たたまれず、逃げ帰ったことを、私のわがままで逃げ帰ったと思っている。そういうものです。ですから、今回は会社の名前も、はっきり出しました。若社長にとって徹底的に膿を出すにはこの方が良いと思うからです。

 遡って、14年前、初めて、PT.KITAGAWAに赴任して、一ヶ月後、北川工業の当時ナンバー2と言われていた小川常務が会社へきた。そして、私を見つけるなり、「太田さん、余計なことはしないでください、何もしないでください、なにか、問題があった時、私が責任を取らなければなりません、営業もしないでください、北川工業の方針は下請けをしないことです。あなたみたいな立場で外部から北川社長が呼んだ人は大勢います。役に立った人は一人もいません。契約期間が終わるまで、じっとしていて、終わったら、直ぐに帰ってください」とはっきり言われた。例のインドネシア産を隠そうと徹底的にインドネシア人を(製造地偽装を)指導した人です。いきなり、大逆風である。それを、当時の本社の社長や副社長は知らない。

 すぐ後に知ったことだが、多くの途中入社の人が、彼から無視され、また、社員には、其の人と接触するなと言う命令が多くでいた。生え抜きの社長の側近の人もその被害にあって苦しんでいる人もいた。

 その後、私がPT.KITAGAWAから去るまで、彼と仕事の話をしたことは一度もないし、皆さんがよく誘われる食事会に誘われたこともない、射出のインドネシア人も時々、昼食会に誘われたが、押出の私の部下が誘われたことが無い。徹底的にシカトされたし、差別をされた。

彼のお気に入りにならないと何をされるかわからないという北川工業の人は彼に逆らえないでやむ負えず彼に合わせる若い人もいたが、本質的に常務と同じ考えなのでしょう、ヒラノ、イトウからも無視されていた。仕舞いには、押出の仕事からも外され、客先との接触も禁止された、私の居場所は事務所の入り口近くのコピー機の近くに移された。小川元常務の命令である。彼が何回目かに来た時の翌日、出勤していったら、私に何の予告もなく、机の場所が入り口近くへ移されていた。サラリーマンの世界ってこうなんだ、いじめいじめと聞いていたが、こういうことなんだと、妙な納得をした。

 

私がPT.KITAGAWAを去ってから、間もなく、この常務は、社内の内部告発やネットでセクハラやパワハラの事実を明かされ、やめさせる羽目になった、今は、北川工業とは切れている。発表された退任理由は違うと思うが、実際は、私が書いたことが正確です。それに伴い、元常務派の人も、会社に居辛くなっている。当然である。

 自分たちがやったことは正しかったと思う人はいないと思う。その時は、ただただ、狂っていただけだと思う。冷静になって、自分が、何をしてしまったのか、考えてほしい、そこから、多くの人々に迷惑を掛けた。そして何も貢献しなかったことを知ってほしい。

 

 私に何をしたか、そして、その結果、何か得るものがあったのか、何もなかったはずです。そして、今、私は反撃をしています。彼らはそれを予想できないのです。世の中のパワハラは、私のようなケースともうひといつ、自分より能力が低いと判断した人をいじめるケースです。これは、学校での苛めに似ています。このケースの方がはるかに多いだろうし、あらゆる年代や場所であると思う。苛められた側は、泣き寝入りをするしかないが。何年か過ぎても私のようには、反撃できない人の方が多い。いずれにしても、いじめた側は、永久に続けられないし、いつか、自分がみじめになる時が来るはずだし、社会的にも制裁を受ける時が来るはずです。

 

ですから、今自分が誰かをいじめているかどうかを、いつも、考えてほしいと思う。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/

私がインドネシアに居た、そして、今もいる理由(根拠)はインドネシア人の若者に私の技術を伝えること、そして、そのためには仕事を見つけなければならない、そこで、自然に発生する責任は、その仕事を依頼してくれた会社に迷惑を掛けないということだけでなく、貢献しなければならない。だから、何があっても、何をされても、すごすごと、逃げ出すわけにはいかないし、何より、そういう、理不尽な扱いをする人を許せないからです。PT.KITAGAWAには、私が尊敬する人の力で入場することが時間の問題ということが明らかになった。もう一社については、私の力で、二年後を目標に入場するよう行動をする。理不尽にいじめをした人には必ず、しっぺ返しがくる。

会社の食堂(キャンティーン)です。バナナの配送

泣き寝入り  逆襲  気の毒

 6月11日  (^_-)-イジメの項閉じる

斜めからインドネシアを眺めよう 635

  小学生のころ、同じクラスの悪ガキ大将がいて、数人の子分を従え、女の子や体の小さい子にちょっかいを出したり、物を取ったり、勉強の邪魔をしたりしていた。陰湿なイジメではなく、はっきりとしたイジメだった。彼らにとって私は目触りで厄介な奴だったと思う。彼らがすることを私は許せなかった。自然に彼らと喧嘩をせざるを得なくなっていた、取っ組み合いの喧嘩もあったし、放課後彼に呼び出され、彼の部下たちと校舎の裏庭で、殴り合いをしたこともあった。私には部下はいないので、一人で戦った。そういうことは、当然、自分が言わなくても、友達から先生に報告が行く、それを彼らはまた、私が告げ口をしたと思い込み、私に突っかかってきた。そんな、子ども時代の時と、今の性格は変わっていない。弱い者いじめは許さない。言い返すことができない立場の人をいじめる者は許せない。

 私の存在が邪魔だと思った人間は子どもでも、大人でも、誤った情報でも、それによって、被害妄想が大きくなってしまう。それを、また、私を攻撃する材料にする。それでも逃げ出さないので、私の落ち度をでっち上げてでも追い出そうとする。

 私は、66.5歳ですが、今でも、人が真似を出来ない技術と他人に対する優しさを持っていると思っています。経営者時代に多額の税金も払いましたが、私にしてみれば多額の蓄えもしました。国民の義務である納税も嘘偽りなしにしましたし、現在でも、払うべきものはすべて払っています。年金は並みの人より多くを受け取っていると思います。ですから、何も金銭的に困ることはありません。インドネシアで受け取っている報酬は他の日本人に比べれば微々たるものです。生活費とインドネシア人に対する援助金を払うには不足します。他のことは自腹です。蓄えを減らしていっているだけです。

 何度も書いていますが、車や運転手費、家賃、海外渡航費、電気代や水道代、一般的には会社が負担するものですが、私は遠慮しています。理由は創業者的考えから、利益が上がっていない会社に負担を掛けることは私の考えに合わないからです。

もっとも、利益が上がっている北川工業や南部化成に下請けとして貢献を続けているし、インドネシアの工場でも利益が上がるよう、技術が向上するよう、お手伝いをする、本当は、これは、私の考えと合わない。しかし、インドネシアの若者に技術を伝えるという目的を実行する機会を貰っている。

 今でも、私を必要としてくれる人や会社は沢山あります。現在はPT.NANBUのお手伝いをしていますが、ナンブ以外の何社からも声がかかっていました。声を掛けられているのはインドネシアだけではありません。また、もし、自分で会社を興そうと思えば日本でも、インドネシアでも簡単に興すことが出来ます。選択肢は沢山あります。その中に隠居と言う選択肢もありますが、これは、本当に動けなくなってからのことです。

私をいじめた人にとっては当てが外れたでしょうが、パニック障害に掛っても、まだ、引きさがりはしないし、まだまだ、マイペースで、あちらこちらで出没します。

 強烈なイジメを私にしかけた人たちは、その時の地位や立場から降りた時、人から、求められるのでしょうか、あるいは、自立するための技術や資金があるのでしょうか。無いと思います。逆にそういう人種だから私のような人間を邪魔に思うのです。そしてイジメるのです。気の毒ですが、そういうものです。私をやっつけようとした会社内の勢いはどうなっちゃったの?という感じになります。

 北川工業の方々は特に読んでいただきたいと思います。ゴムタイヤの空気入れを内側にして、浮輪にして、海水浴場で売りあるいた北川ゴム工業の創業者から息子さんにバトンタッチされた会社は、生きる時代背景が全く異なります。社風も大いに変化するでしょう、風通しを良くするために、あちこちが開かれた会社になるでしょう。また、その中から、時代にマッチした新商品の開発や発見をしていかなければなりません。大変な時代ですが、創業者を手伝った生き残りの一人として、遠い南の国から、応援をしたいと思います。私が、教えたこと、示したことは、少ないですが何人かの人に染み込んでいるでしょう。即効性は無いでしょうが、今気付かないでしょうが、なるほどと思う時期が必ずあると思います。

 創業者の健康をお祈りします。いつか、また、お会いできればいいと思っています。

 今朝のMM2100の入口の様子、07:15頃ゲート前に並ぶ車、ジャカルタ方面からは橋の上のずっと手前、本線上まで並ぶことがありますが、私の方からは本戦まで並ぶことは全くないし、ジャカルタ方面から来る車と合流場所まで、止まることはありません。

  風通し  白を黒  聞かない

(^_-)-粛々と再入場

斜めからインドネシアを眺めよう 679

 1996年荒野の現地に赴任し三カ月後の新築工場に入場して以来14年ぶり、2006年、すごすごと逃げ出して以来4年ぶりの、私にとって記念すべき1日でした。再入場を果たしたのです。正面玄関から堂々と。しかし、出迎えに出てこなかったし、見送りにも来なかった。チェックのメンバーの中に私がいてびっくりしたと思う。葬り去ったはずの私を見て、何を思ったのでしょうか。きょとんとしていて彼からの話はなにもなかった。私からも確認結果を話しただけだった。相変わらずの無愛想な対応姿勢でした。内の社長を怒らせるはずである。

1996年に荒野の建設現場に赴任して以来、約、14年後、2006年8月に逃げ出して4年後、再び入ることはないと思っていた、PT.KITAGAWA跡の工場へ入った。例の責任者は来月初めに帰国してしまうらしいので、いる内に、確認しておきたいことがあったからです。まず、沢山ある鍵の位置確認でした。全部あるはず、と、聞いただけでは駄目である。ひとつひとつ差し込んで確認しなければなりません。差し込んでおいて準備してくれてあれば良いのですが、双方の交渉者は、そこまで気がつかないと思って、その旨、お願いしておいたのですが、それでも、案の定というか、やっぱりというか、やってくれていなかった。鍵はほぼそろっていることを確認できたが。

 もう一つの目的は工場の状態の点検でした。問題が、沢山あることが分かった。一番の問題は床のPVCタイルが無残な状態なのでこのままでは使えない。開業当初、全面をPVCタイル張りにする計画らしかったが、押出はモルタル仕上げに変更してもらったのが良かったと思う。ここからは現在契約で使っている運転手と経理の人からの、云わば内部告発です。二番目は雨漏りというか、完全に空が見える状態になっている部分が何箇所かあり、そこから、雨が吹き込んでくる。あそこも、ここもと教えてくれた。また、鳥も飛び込んできた。三番目は入出荷エリアの下がっている処にちょっとした雨で水が入ってきて、排水口が詰まっているので、溜ってしまう。ひどい時は1mくらいになると言う説明があった。これも、聞かされなければ分からないこと。受電、変電設備、コンプレッサーやクーリングタワーの最終点検は2008年2でした。中には2007年が最終というものもある。たしか、生産が止まったのが、2009年の7月ですから、それから遡っても一年半の間点検修理をしていなかったことになる。解散する会社は、こんなものなのでしょうね。病気の人が責任者では仕方が無い。今後の話は、この病気の人抜きでやる方がいい。

完全に改修するには多額の金額を要するでしょう。このまま渡されれば、当社としては悩まされるところです。実態を再確認した方が良い。工場のエアコンは使えないとも言っていた。明らかな粗大ゴミも少なからず残されていて、このままでは“発つ鳥跡を濁さず“とは程遠い、濁しっぱなしの惨状である。本社はこの惨状を知らないと思うし、また、内の会社の交渉した人も知らないのではないでしょうか。

それより、こんなに痛んでしまうものかと思うくらい1996年に入ったときの真新しい状況を知っている私にとっては、悲しくなるほど、悲惨な状態になっていた。回りの木は伸び放題、当時のオーナー等が記念植樹をした築山のような庭園も雑草で見る影もない。回りや裏の空き地も背丈以上の草が伸び放題だった。こんな状態で、何も生産しなくなった会社に一年半もいて、会社の解散や身売り交渉をした代表者はさぞかし、孤独で大変だったろうと思う。よく、辛抱したと思う。私が心配しても仕方が無いが、一週間ほどで引き揚げるにしては、会社にある書類や私物の整理が進んでいないように見えるが大丈夫なのでしょうか。

帆船の模型は開業の象徴でした。オーナーの号令で、色々なインドネシア製の帆船の模型を探し、そのうちに一艘をオーナー室に飾ったのでした。その時に日本のオーナー室に飾るための豪華帆船の模型も手に入れて、その値段より遥かに高い厳重梱包をして送り出した。その帆船は、今、日本の会長室にあると思う。舳先を会社の正門に向けると運が良いということを、何度も繰り返しておっしゃっていた。この模型は、機会を見つけて、元オーナーの元に届けたいと思うが、チャンスはあるだろうか。

事務所の中の様子です。向こう側に日本人の主だった?人たちが机を並べて、事務所を見まわしていた。私は、最初の一か月ほどその並びにいたが、当時の小川常務が来て、すぐに、手前の窓の左脇に仕切りパネルが有るが、その前に移された。間にはインドネシア人スタッフの机。5年ほどその場所にいた。パネルの後ろはコピー機と出入り口です。パワハラしまくられの思い出の場所です。

忘れることはできないが、今日で、許すことにした。

 再入城  惨状  手抜き  

 


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