津波に襲われる前、何十年にもわたって、危険地域に指定されていて、安全情報では、渡航自粛以上になっていた。しかし、今は、危険は殆ど無くなった。ただし、イスラムの戒律はインドネシアで一番厳しく、女性の肌は見せないことと、男女の交際に気を使う必要があるようです。
 特に欧米からの観光客が多く、マレーシアやタイ経由で入ってきて長期の休暇を過ごすようです。特にウェー島に渡る船にはアチェ人の男性の目が釘ずけになるような恰好をした女性が多く乗っていた。
Photo Aceh
2011年1月20日 大津波の爪痕アチェPelau Weh

 今、どこかというと、インドネシア(スマトラ)最西端、最北端にいる。アチェ州の州都バンダアチェです。03:00過ぎに家から出てスカルノハッタ空港、06:45発 ガルーダでバンダアチェに向かった。10:35に到着した。予備知識無し、ただ、例の2004年12月の大地震、大津波に依って10万人以上の死者、行方不明者の犠牲を出した。この爪痕は各所に残っていた。ただし、街の雰囲気はそれを感じさせないほど大部分の環境は既に、大津波以前以上になっているようです。

 インドネシアにしてはかなりのお金を集中させたと思う。もともと、独立志向が、インドネシアで一番過激な地域だった。何十年にもわたって、独立戦争、ゲルラ戦争が、続いていた。横道にそれるが、以前、ルマーアバンというジャバベカの郊外に住んでいた時に、近所の人から、自分息子がアチェの前線へ送られることになったと心配そうに話をされたことを覚えている。

 何度も、和平協定など結ばれていたが、直ぐに、反故にされることを繰り返してきた。石油などの地下資源が豊富な地域で、インドネシアは放したくない。これを機会に政府は投資を集中したと思う。海外からの援助も素直に受け入れた。その過程でのお金の流れはインドネシアにしては怪しい部分が比較的少なくて、有効に使われたと思う。今は、内戦の雰囲気が感じられない。

 

 この大津波を機会いに、独立運動は消えてしまった印象があって、以前は、危険区域氏指定されていたが現在は指定は無い。バンダアチェの街の雰囲気は明るく、新しい。道も広く、舗装に穴が無い。両側の家や店も皆新しいので、清潔に見える。何と言っても、空港ビルが出来てまだ二年だという。雰囲気が気持ちいい。

 

 今日は空港へ着いて直ぐ案内所で、ホテルの予約と車の手配をした。空港からホテルへチュックイン、そのすぐあとから、市内観光に出かけた。運転所は女性だった。ゆっくりの運転でクラクションを鳴らすことなく、リラックス出来た。

 見ても回ったところは、大津波の爪痕を記憶として残しておこうというという場所がほとんどだった。フェリーが現在の一番近い海岸から内陸6kmの場所に流されてきてそのままに鎮座している場所などでした。

 

 津波、最北端、爪痕

1月21日 津波が無かったら

 インドネシアでイスラムの戒律が一番厳しい土地で、女性は必ずジルバブをまとわなければならいらしい。外でジルバブを纏っていない女性を見ることは無い。聞くところに依るとデートも公共の場で抱き合ったりしては逮捕されるらしい。

 綺麗に作りなおしてある街だが、今のうちは綺麗になっているが、私が予想するには、10年も過ぎれば、ゴミだらけの臭い街のなってしまうと思う。今でも、ちょっとした繁華街は既に臭いしきたなっている。道端のゴミもブカシほどではないが目につくようになってきている。海もマラッカ海峡側は綺麗だが、インド洋側は既にかなりのゴミが流れついている。

 津波でなにもかも現れる以前は、ただ、イスラムの戒律が厳しい、喧嘩好きな田舎町、土地柄という印象があったが、今は、やはり、喧嘩好きだけが抜けた、単なる田舎町で、特徴は無い土地だと思う。

 

 インド洋を渡って、西洋から遠征してきた船が、最初に会う島である。だから、この土地に早くから上陸拠点を作ったに違いない。鉄道も飛行場もインドネシアで一番先にバンダアチェに出来たらしい。今は、その見る影もない。1870年代の写真が残っていてその中に、鉄道敷設工事の写真があった。

 

 観光で訪れても何もないところです。今日までのところ、目を見張るような素晴らしい景色と言える場所はありません。だから、モスジットの宗教や建築に興味がある人、津波について研究したい人以外にはあまり面白くない場所だと思う。津波がなかったら、未だに内戦が続いているだろうし、何もないところだから、世界に知られることは無かったでしょう。悲しみは大きいだろうが、世界中からの応援を受けて、街の区画整理は進んだし、新しい住宅は沢山出来たし、何より、内戦が終わった。津波以前より安全で生活水準も上がったと思う。ゴミは増えるでしょうが。

 こんな海の向こうから高さ20mの津波が襲ってきたのです。

話は変わるが、マッサージを頼んだら、受けるのは男か女か聞かれた。この地では、異性へのマッサージは禁止だそうです。

 地震、整理、掃除

    1月22日 インドネシアの北端

 正真正銘の最北端の島ウエーに来ている。北はマラッカ海峡の西の入口、対岸のちょっと南はマレー半島のペナン辺りである。

 10:00発のスピードボートで約1時間、ウエー島に到着、欧米人の客が目立つが日本人らしき人とは一人も会わなかった。聞く処に依ると、シンガポールやマレーシアから釣りのツアーで日本人が来るらしい。

 早速、タクシーを借り切って、ホテルに向かいブッキングし、その後13:00には島の観光に出かけた。タクシーの費用は、今日の6時間余りと、明日の朝、ホテルから港までの合計で、50万Rp(4千5百円位)、小さな島で、海岸は殆ど無く、海から直ぐ山になっている、その関係で、津波の被害は1000人程度であったらしく、アチェに比べれば微小扱いで、援助はほとんど入らなかったという。

 

 海はあくまでも澄んでいて綺麗、インドネシアで行ったことがある中で、トップクラス美しい海だと思う。ここまで来る目的はやはりこの海だと思う、ダイビングやシュノーケリングや読書(欧米人のスタイル)で何日も過ごしたい人には快適で、日本人の観光スタイルでは不向きだとお思う。

 

 日本軍が築いたトーチカに先ず、案内された。サバンという一番大きな(といっても小さい)街を通って西へ向かって、いちばん最初の観光地がそこだった。マラッカ海峡を見下ろす高台に、たったの一か所だけ残っていた。錆びた大砲が寂しかった。こんなところまで日本軍が来ていたのかと呆れてしまうが、そんなことを言ったら、ここまでやってきた日本兵に悪いような気がする。彼らが望んできたわけではないはずだから。それにしても、無駄なことがここまで及んでいたのかともったいないと思う。

 

 インドネシアの西の端、1997年にモニュメントが作られた。当時は、訪れる人も多く観光地として賑やかだったろうが、今は、ムニュメントの崩れも激しく、修復もしないのでしょう。肝心な中心に壊れた跡があり、何があったのか想像できない。地球儀でも有ったのでしょうか。この場所の西は、あの2004年12月26日のインド洋の大地震の震源地があるはずだ。

 島全体は勿論、インドネシアならどこにでもあるバナナとヤシは自然のままジャングルのようになっている場所もあるが、この島の主な産物はピナンのようだ。例の口に放り込んでムシャムシャしてから、ペッと吐き捨てる赤い木の実である。ヤシの木に似ているようで似ていない。実は、ジャヤプラのように口にすることは無いらしくて何倍も大きい。赤の染料の原料になると聞いた。

 滝があったり湖があったり、近場でちょっとした観光地があるが、これも、聞く処に依ると地震と津波の後、湖の水が濁ってしまい、以前は飲み水に使ったり、綺麗な観光地だったが今は、閑散としていた。

 この島の売りはやはり素晴らしい海である。

 東の端に殆ど近い、パプアのジャヤプラはだいぶ前に行っているので、これで、インドネシアの東西の端へ行ったことになった。

 両端、紺碧、ジャングル

1月23日 あのアチェでした

  先ほど23:00頃、家に戻った。今朝、7:00にサバン郊外のコテージから車で送ってもらい港へ07:30に到着、08:00発でウエー島を離れる。09:00前にバンダアチェの港に到着、日曜日で、港や隣接する海岸には大勢の家族つれがあふれていた。その海岸は2004 12の大津波が到着した場所です。そんなことは全く想像が出来ない和やかな、平和な風景です。

 この近くに5階建ての大駐車場のような建物があって、2000人位と車が500台収容できる避難場所だという事でした。遠目からは壁が少なくて、上に上にと車が登れる坂道が取り巻いている。回りに何もなく、かなり遠くからでも見える。ところが、地元の人に依ると、2005年のニアス大地震、津波の時、かなりの揺れがあって、避難、命令が出た時に、周りの人はここに逃げてこないで、車で、海岸から離れようとして、山の方に避難してしまったとか、全く、人間の心理を研究していない無駄な建築物だという評判だった。かなり高額な援助資金を使ってしまったらしいので、なお無駄だったと言われていた。

 海岸付近からは流された家々の多くを買い取って、広い片道三車線、両方で、六車線の道路を作った。区画整理、この際ということで進んだ。そういうこともあって、車でさっさと奥地に逃げ込むことが可能になったということもこの施設に逃げ込まなかった理由だと思う。

 多くの悲しみ、犠牲を残したが、GAMの独立戦争は終わってしまったように感じるし、津波の後地が、観光地化していて観光客も増えているし、街の環境は綺麗になったし、残った人には住みやすい地域になったと感じていると思う。6年前に10万人以上の人が無くなった。大津波があった場所とは思えない。

 

 街の中心に、感謝の公園があって、援助をした国々の名前を書いた小舟が舳先を上にして半分地下に埋まった形で公園の周囲に並べられている。一周400m位のランニングコースを走る人はその国々へ有難うという文字を見ながら通り過ぎる事になる。日本への感謝は日本語で書かれていた。

 

 16:45アチェ、イスタナ イスカンダル ムダ空港を出発メダンへ40分ほど寄って、ジャカルタ着21:00過ぎでした。

 平和な公園風景。

津波、地震、被災地

アチェまでのチケットは往復1.5万円、なぜか、バリまでと同じ、安かった。宿泊費は一泊4千円程度、タクシーのレンタル料は1時間5百円、8時間で約4千円、これはウェー島の中も同じでした。アチェからウェー島往復スピードボート代は千円。片道所要時間は1時間でした。バリの料金に比べればおそらく全てが半額程度だと思う。ですから、欧米人も、これを知れば、バリよりこちらを長期滞在の場所にするでしょう。海は汚れていなし、もの売りは煩くないし、食事や色々な道具のレンタル料も安い。イスラムが厳しいので風紀もいい。マレーシアやタイに住む日本人にはお勧めです。プーケットから船で訪れてもいいところだと思う。

Aceh dan Weh
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