ドイツ初日

 ヨーロッパタイム06:00頃ミュンヘン到着、婿殿が迎えに来てくれていた。着いて外に出たら寒い。ミュンヘンの早朝の気温は5℃でした。ニュールンベルグは7℃でした。車は暖房を掛けていた。天気は曇り、日が全く差していない。流石にヨーロッパという感じ。機内が寒いのでいつも長袖の下着を着ているが、そのままで、着替える必要はなかった。


 家についた時、まだ、孫たちは眠っていたが、起こされたとたんに私の存在に気が付いて、二人とも飛びかってきた。以前来た時に持ってきた大きな縫いぐるみを持ってきて、おじいちゃんが前にくれた人形だよといって差し出した。

 彼女達ふたりとも、同じ、キンダーガーデンへ行っているので、09:00には幼稚園のバスで出かけて行った。

シンガポールのコンセントはアース付きの三本足なので、インドネシアとまた違う、コンコースの電気店で、5シンドルで買った。ドイツへ持って行く土産物を買ったときに5ドルの買い物券を貰ったのでちょうどそれで間に合った。プチラッキードローでした。間休憩所なら、沢山あるので、ジャカルタのように捜しまわる必要はない。

インドネシアで使っているソニーエリクソン3Gのハンドホンはどこでも使える。シンガポールでもミュンヘンでもニュールンベルグでも使える。インドネシアからの電話はインドネシアの国内に掛けると同じ番号でいい。その国の国番号は必要ない。こちらからインドネシアへ掛ける場合は、国外電話と国番号と前に付けなければならないが、その地域に掛ける場合は、そのまま、国内と同じ番号で、何もつける必要はない。

 妻と半年以上ぶりの対面だった。

9月3日  (^_-)-ドイツ二日目

 寒い、とにかく寒い。冬の準備をしてきていないので、スイスへ行く前に買わなければならないと思う。縮まっている。太陽が見えない。

彼女達の保育園へ送って行ってみた。さすが、ドイツという感じ。中は明るく、色々な設備に工夫の跡が見られた。町の様子は、インドネシアとは別世界。清潔、整備、挨拶、何をどこから切って中身を見ても正反対というか、両極端というか、足して二で割ったら、私としては一番居心地がいいかなという気がする。

彼女達のドイツ語の進歩は早すぎる。当たり前だが、もう、私にとってはどうにもならない。姉妹の間でも、ドイツ語が殆どで、たまに日本語を聞くことがある程度。私と会話をするときに彼女達が気を使って日本語で話をしてくれているようで、なんだか、三歳と五歳が66歳の爺さんに気を使っているようで、変な気持である。

ニュールンベルグの市内観光やその他ドイツの名所観光をするつもりはないので、終日のんびりしている。

スイスへ出発は明日11:00頃と聞いている。妻を13:00ミュンヘン空港でおろして見送りそのままスイスへ向かう。スイスベルニナには一週間同じフィラを借り切って滞在し、そこをベースにトレッキングを楽しむ予定。ネットとも決別する。

ニュールンベルグの町並み

9月4日  (^_-)-スイスへ移動

行く末について考える期間にしたいとも思っている。そんなに長く行動できない状態を考慮し、バッサリ、仕事から離れてしまうか、まだ、仕事を続けるか、続けるなら、いつまでか、そして、どこでか、今の場所と地位で仕事が二三年続くということは100%無いと思っている。今の状態は最長で、来年三月中旬までと決めている。早ければ今年末までである。その後の話であるが、今から、考えておく必要があるし、関係者にはその考えを伝えておく必要がある。

婿殿が遅い休暇を取ってくれて一週間、私に付き合ってくれることになっていた。既に、スイスの山歩きも四回目になるので、今回は、サンモリッツ近くを拠点にして、いくつかの氷河を見ることと、各種ゴンドラ、登山鉄道を利用して、景色と澄んだ空気を堪能しようと思う。

午前中近所のスーパーで自炊のための食料材料を仕入れた。スイスの物価はドイツ人にとっては驚くべき高さという先入観がある、事実、私もスイスの物価は高いと思う。スイスフランが安定的に強いからでしょう。ガソリンはオーストリアを通過するときに満タンにする。スイスでは出来るだけ買い物をしないようにするためである。

12:00ちょっと前に家を出発し、ミュンヘン空港で、孫たちが抱きついてなかなか放さない。妻をいつまでも手を振って見送った。

14:30ミュンヘン空港から出発、ほぼ、予定通り19:00過ぎにベルニナ地方のサンモリッツの手前、ラ、プントという町のホテル兼フィラに到着した。オーストリアを通過し、スイスへ入ったが、チェックポイントは開かれていてしまって、スタンプを押して欲しかったが、通過するだけだった。

居心地抜群、低価格、大変気に行った。ワイラレスランが使える。至れり尽くせりで、前回、ベルナーオーバーランドのヒラより格段上と評価したい。

もう、22:00を、回っている。孫たちは興奮してまだ寝ていない。

この建物の最上階をすべて占有する。屋根裏に寝室がある。この地方の地図。

9月5日  (^_-)-思いがけない老夫婦

インターネットのプロトコルバージョンのプルパティーから詳細設定が、“IPアドレスを自動的に収得する。DNSサーバーのアドレスを自動的に収得する。”になっていなくて、ワイヤレスランに接続できなかったことが分かった。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page228.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page227.html

夜明けが06:00頃で、日が沈んで暗くなるのは21:00ちょっと前、サマータイムということもあって、太陽が出ている間の中間点が12:00になっていないで14:00頃になっているようだ。

活動が始まる時間は08:00過ぎになってしまう。Surlej(1809m)-Corvatsch Station Surle- Corvatsch Mittelstation- Corvatsch Bergstation(3303m)50人乗りくらいのゴンドラコースとCelerina(1720m)-Marguns(2278m)6人乗りゴンドラコースを利用し、景色を堪能した。Piz.Murtelからの氷河が殆ど無くなっていた。

St.moritzは通過したにすぎないが、日本人観光客を見かけることはなかった。車はドイツ製の高級車が多く、高級バイクでのツーリング、スポーツサイクリングで湖畔を巡る人が多かった。滞在型の高級リゾート地という場所でしょう。ヨットやボートも楽しんでいる。ゴンドラの上の駅から下りを歩く人も多いようだ。日本旅行者のツアーコースにはこのベルニナ地方の山歩きは入っていないようで、氷河特急へ乗るために駅付近をうろうろするくらいだと察する。

 

 私の孫たちに突然飴玉を私に来て知ったが、Corvatsch Bergstationの外のテラスで弁当らしきものを広げて二人で仲良く食べている日本人夫婦にあった。きくと、ツアーから分かれたというのでなく、全く、最初から、夫婦二人きりで、スイスの山々を巡ってきたそうで、明日日本へ帰る前に、ここへ来て見たと言っていた。大黒さんと戎さんのような顔をしていた。多分二人で合計160才くらいではないかと思う。旦那さんの方が力に困らない程度の英語が出来て、ネパールの山歩きは10回以上で、そこらのガイドより自分の方が詳しいと言っていた。余裕の二人旅のように見えて、頼もしくも、羨ましくも思った。

 孫たちと握手をしながら、あなたたちの力を貰って、長生きしてまた二人で旅ができるようにと言っていた。
9月6日  (^_-)-歩きまわる

  連日 朝は5℃以下、寒いがもう慣れてきた。清々しい。

転送先フォルダーは記入する必要が無いと案内されていたホームページの転送方法で、今まで、一つずつしか送れなかった問題があって、写真などいちいち、一枚ずつ転送手続きをしなければならなかった。いくつかの転送先フォルダーを指定されている場合は連続で転送できるので、何百でも最期まで自動的に送ることができていた。

 今日、その必要無いと説明されていた転送先フォルダーを見つけることができて、転送の手間を省くことができるようになった。

大発見の六葉のクローバー。孫たちとブランコの前で、四葉のクローバーを探していたら、私が見つけた。何年か前に日本で貰った四葉のクローバーの葉がばらばらになってしまっていたので、交代を考えていた。シンガポールのチャンギで四葉のクローバーをガラスの中に封じ込めた置きものの土産品を孫たちにプレゼントしたばかりの出来事だった。

Bernina-Diavolezza(2093m)から大型ゴンドラでDiavolezza(2978m)Piz Paru3905m)をバックに広がる氷河は雄大だが、ここも、多分、何年か前は、万年雪に覆われていたに違いないと思う。その溶けかかった雪を保存するために大がかりなシートの覆いをかける作業をしていた。相当な危機を感じているに違いない。

 景色は雄大で素晴らしい。良いところへ来たと思う。

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0001.html

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page228.html

スイスにいる間、毎日追加している写真です。

ここでも、昨日とは別の老夫婦にあった。かなり、海外なれした感じがし、子供はアメリカに住んでいるという。やはり、日本の現状を嘆いていた。

その後、サンモリッツ ドルフ(St.Moritz dorf,1856m,ここが、氷河特急の発着駅)の町を散策、高級ブランドの店が軒を連ね、日本語の案内も多い。やはり、庶民は近づきがたい街のように感じた。殆ど、石畳の急な坂道で、孫たちを肩車したりおぶったりで、疲れた。ふくらはぎが痛くなった。

その高級感あふれる街に沿っていくつかの湖があり、散策や自転車道も整備され、多くの人が訪れているが、残念なことに、くわえ煙草の人は多いし、たばこの吸い殻が道の脇の短い草の上に大量に落ちている。ゴミ箱は置いてあるが、タバコの吸い側入れは道の脇にない。フィルター部分は一つ一つ拾わなければ消えない、増える一方だと思う。一斉に掃除をしたり、タバコの投げ捨て禁止の運動をしたりしないのでしょうか。これだけ落ちていれば誰かが声を上げそうなものだと思う。

 (_)!!とんでもないことに

   St.Moritz dorf,からTiranoまで往復のGlacier Express(氷河特急)を楽しむことにしていたが、残念ながら、こちらへ来て初めての雨模様。中止にしようか強行しようか迷っている内にお腹が痛くなってきた。次第に痛くなって、氷河特急どころではなくなってきた。もう我慢が出来なくなって、09:00頃、ラ、プントゥからサンモリッツ方向の途中の街Samedanのオーバーエンガディン名前の総合病院の救急受付に飛び込んだ。点滴や痛み止めの薬を注射され、血液検査、エコー検査もした。全て正常だが、小腸に炎症が見られるという診断。何もしない、点滴と痛み止めだけで終わり。痛み止めの薬を三錠出された。その間、二時間ほど、料金は800SF(約7万円)でした。病院を出るときのも痛みは治っていなかった。

 宿泊場所に戻って様子を見ることにしたが、12:00過ぎドンドン痛みが増してきて、我慢の限界になってきて、痛み止めを飲んだが、一向に収まらない。13:00頃、再び、同じ病院の救急へ戻ってしまった。今度は、痛み止めの飲み薬を二種類、錠剤を一種類その場で処方され飲んだ。次第に痛みは治まった。完全ではないが、痛みはかなり和らいだ。Rindaさんという、金髪美人のドクターの言うには、炎症を起こし、空気が溜まっている、圧迫されて痛むのだ、と。それじゃ、その空気を出す治療をしてほしいと頼んだら、それはしない、二三日後には自然に治ると言う。「水を飲み、食事も普通に十分するように」と言いながら、写真のような乾燥パンを持ってきて、「これを食べてください。様子を見たい」と付け加えた。ジャスミンティーのようなお茶も持ってきた。

 痛みはやっと和らぎ、乾パンを平らげてもなんともなかった。

 家に戻ったのが、16:15頃だった。

一日、棒に振ってしまい、皆さんに迷惑をかけてしまった。しかし、終日雨だったし、多分、毎日あちこち歩き回るより、彼らにとっては一日良い休憩になったのではないだろうか。孫たちも、宿で、となりのトトロを見たり、ドラえもんを見たりで、おじいさんに付き合わされて、氷河を見に行くより、楽しんだと思う。17:30の今、痛みは再発していない。このまま治ってほしい。

二回目の費用は4千円ほどだった。こんな小さな村にも立派な総合病院があるとは流石赤十字の国である。診察は先ずしつこいほどの問診、“医者なら早く診察して様子を見てほしい、こちらは痛みで苦しんでいるのだから、早く痛み止めを駐車してほしい”と思っているのに、なかなか、始まらない。お腹に指をあてながら、「痛いのはこの場所だけで、他は痛くない」と説明しているのに、お腹をあけて触診をしながら、痛くないと言ってあるところばかりを押して、痛くないか、痛くないか、と聞く。答えは、ことごとく痛くないに決まっているのに、である。

病院はガラガラ、日本やインドネシアの病院とえらい違いだ。病院関係者の人の数の方がはるかに多い。費用は高いはずである。

そして、最初の時は、結局、帰って良いと言ったが、痛みは治らなかった。

ロマンシュ語のOTAは上という意味で、この地方のあちこちにOTAという表示がある。上町、下町と言う意味で書いてあるらしい。病院の名前もEngiandin OTA

だった。

いわゆる、ナイチンゲール風の看護婦スタイルの看護婦は見当たらない、すべてが看護師なのでしょう、帽子はない、白の上着にグレーのズボンというスタイル。最初、医者かと思った。血圧計や脈の検出器の器具を付けたり、点滴や注射用の針を刺してセットしたりする。日本の看護婦看護師と同じである。愛想がいい。言葉は5種類飛び交っている。それにも対応している。ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語、ロマンシュ語、そして今日は日本語も特別参加した。

9月8日  (^_-)-このままずっと

 ガスを大量に放出して、異常に膨らんでいたお腹もほぼ正常に戻り、痛みも完全に治まったようだ。昨日は23時ころから、途中、起きることが無く06:00過ぎまで熟睡できた。腸閉塞を疑ったくらいの、原因不明の強烈な痛みだった。これで、OK

今日も天気は悪いようだが、殆ど電車の中なので、St.Moritz dorf,からTiranoまで往復のGlacier Express(氷河特急)を楽しむことにしていた。道中は二時間半である。

青空は全く出てこなかった上に、頭上は霧の中という場所が多かったが、この道中の見どころは見上げるよりも見下ろす方が圧倒的に多い。だから、天気には左右されないと思う。事実、写真は上よりした方向を取ったものが多い。

 急勾配と急カーブが多く、また、崖の上をぎりぎりに走る場所も多い。ゆっくり走るがそれでも、私としてはかなり、緊張させられた。景色は予想以上に素晴らしかった。ただし、売り物のループ線路はちょうど人工物を作っていて、景色は台無しになっていたと思う。売り物にしては貧弱で、宣伝の勝利か。

流石に事故も何のその、日本人の団体さんも多かったが、日本人以外の国からの団体さんの方がもっと多かった。Tiranoの街はイタリア、小さな町だが、この、グレッシャエックスプレスによって、多いに観光地として潤っていると思う。

普通席だがゆったりとしていて、窓も広く、特別高い料金を払ってパノラマ車両に乗り必要はないような気がする。事実、日本人の団体さん、普通車を予約していたようです。節約ツアーなのでしょう。

一つ注文を付けるとすれば、窓ガラスが鏡になって車内を写してしまい、写真を取る時に車内が薄く映ってしまう。自動フォーカスのカメラはその車内に焦点が合ってしまい、肝心な、外に景色はピンボケになってしまう。何か工夫があったらいいと思う。

 箱根登山鉄道との姉妹鉄道提携を結んでいるらしく、カタカナでサンモリッツとティラノのホームに看板が出ていた。

 1200Titanoに着き、街を散策、完全にイタリア語ばかり、チャオの世界である、しかし、景色や建物はスイスのたたずまい、全く、雰囲気は変わらない、落ち着つきだった。各事務所は12:00〜15:00まで昼休みで閉まっていた。14:50Tirano出発、16:15St,moritz着、スーパーで買い物してLa Puntの家へ戻ったのが、17:15、日本時間では既に9日になっている。

 ところで、脱線事故の場所を特定できなかった。この区間ではないのかもしれない、前もって、場所の確認をしていなかった。今回、思ったことは、原因の一つに乗客が、車輛の片側に集中してしまったのではないか、というのがある。Sn.Moritzから出発する時、どちら側に座ったら、より景色を楽しめるかを駅員に聞いて、右側が良いということを確認し、自由席だったので右に座った。なるほど、確かに右側の方が谷の下を見やすいし、ループ今日も右回りになるので内側を見ることができた。その、景色が良いところの旅に日本人の団体さんなら、左側の席の人は全員立って、右に来てしまったという可能性は十分ある。車体はかなり傾き、方輪だけに全重量がかかった可能性は否定できない。その点、自由席の個人客はやりたくてもしない。日本人団体さんの車輛が後ろ側なら加速時になお振られやすいし、景色が良い場所では最徐行し、終わるころ急加速をする。そのタイミングが急カーブの位置と関係がると思う、加速をする場所を早すぎて間違えた可能性も付け加えれば、それらの車両だけが脱線したのも分かるような気がする。

 いられるものなら、このまま、ずっと、ここら辺に居たいような気もする。

9月9日  (^_-)-水上散歩、陸上も

 昨日夜中に2500mくらい以上の山に雪が積もった。三日前に利用したDiavolezzaまでのゴンドラ途中駅Mittle Diavolezzaは雪に覆われているのが下からも見えた。

 昼過ぎには、晴天ながら、どこからかSt.Moritzの街にもみぞれの様なものがパラついていた。

 いくつかある湖の一番南側でSt.Moritzから離れた湖で小型ボートに乗り遊覧をした。湖の周囲には遊歩道が整備され、三々五々、何人かのお年寄りがぶらぶらしていた。どこから来てどこまで行くのか、何もない。船着き場が湖の周囲に何箇所もあり、小型ボートはそれらに立ち寄る、そのたびにお年寄りが下り、お年寄りが乗る、そしてまた降りる。どうも、歩きたいところだけを歩いているようだ。小舟や岸辺から釣り糸を垂れているお年寄りもいる。何十人も見たが、魚を釣り上げている様子は見ることができなかった。ただ、じっと、ひたすら、糸を垂れている。湖の周囲、町の郊外全部が老人ホームのように感じる。

 そのあたりから、ゴンドラに乗って、一挙に500〜1000m上がれば、そこら辺りは、老人ホームではなく、中年ホームという感じ、見かけ、私ぐらいかそれよりも若い人たちが、スキーのストックを必ず杖代わりにして歩いている。ゴンドラに乗る多くに人はそのためである。少ないが、マウンテンバイクを持ち込み、中には下りだけ、楽しむ人もいる。

こういう状況を見ていると、自分には出来ないと思う。やるなら、一日二日で十分である。こういうことをするには辛抱が必要だと思う。ひたすら、単純な、誰でも出来る何かをし続けることはできない。人がやらないことをやろうと考えてしまう。

Corvatsch Station Sils(1797m)から Furtschellas La Chudera(2312m)までと、St,Moritz Bad(1772m)からSignai(2130m)まで、それぞれ、谷から、東側と西側へ登ってみた。多分それぞれ、30人以上は乗れそうなゴンドラだが、乗客は10人以下、30分ごとに出発する。どうでもいいことだが、この時期そうとうな赤字運転をしていると思う。

ところで、今回の乗り物の代金だが、一週間ベルニナ地方の乗り物全てのフリーパスを購入した。一人200SFである。約、17000円である。ちょっとしたゴンドラでも往復二千円以上する、コルバッチは六千円以上する。氷河特急も自由席ならフリーただし、Tiranoまで行くには、Bernina地方から外れるHospizからのチケットを購入する必要があった。

明日、登る予定にしているPiz.Nairも登山電車、ゴンドラ二回、その往復がフリーである。もし、行きあたりばったり個人で購入すれば、七千円以上になるはずである。孫の二人は全てグラティス(インドネシア語と同じ、無料)である。

湖が映っている方がSt.Moritz Badで牛が映っている方がSt,Moritz Dorfである。
9月10日  (^_-)-再び訪れることはない

天候に恵まれて、澄み切った青空がまぶしい。しかし、昨日の夜も岩山になっている2500m以上には雪が降りたようだ。

St,Moritz Dorfから水色の平行四辺形の登山電車で、Chantarella経由Corvigliaまで行き、ゴンドラに乗り換え、Piz,Nairまで行ってきた。昨日上ったSignalまでのゴンドラの景色を倍以上の高さから眺めたと同じだと思う。そこからもっと高い山へ向かう人、逆に下り始める人、帰りのゴンドラは使わない人が半分以上なのでかなり空いている。

 降りてきて、St.Moritz Badの町を散策した。San Murexxan湖の湖畔まで歩いたが、上からはっきり見えた陸上競技場の脇を通った。象徴的に古い教会の中は、意外にモダンで抽象的なキリスト像が中央に掲げられていたのには少々、びっくりした。

 土産物を買ったが、総じて、スイスの他の観光地よりも高価なような印象を受けた。多くを買わないで、明日、帰りの途中のスーパーへ寄って買おうと思う。

 スイスは本日をもって終了、多分、サンモリッツ辺りへ再び来ることはないでしょう、また、スイスの他の場所へも訪れることはないでしょう。この雰囲気、この状況をしっかりと記憶に残し、明日、10:00前にはドイツ方面へ向かう。

 スイスよ、さようならである。

再びエーデルワイズと名前が分からない花。

9月11日  (^_-)-つかの間の寄り道

現在、21:30、ニュールンベルグの家に戻っている。10:00頃スイスのLa.Puntを出発、快晴、雲ひとつない、もったいないくらいの天気なので、通過道のオーストリアのインスブルックへちょっと遠回りして寄ってもらうことにした。

人影が無い方が、スイスからオーストリアへの出るチェックポイント、もう一枚、車を止めてチェックしているのが、スイスからオーストリア(EU)へ入るチェックポイント。私たちは、パスポートを手元に準備しておいたのに、いずれも、止められることなく素通りだった。

インスブルックは全くの初めて、冬季オリンピックが開催された場所と言うことと、イン川をセンターラインとして発展した街ということだけ知っていた。

かなりの大都市で、ポプラの大木があったり、メープルの大木の並木道があったりで、札幌と何となく似ているような感じがした。洗練された大通りやオリンピックを開催したという点でも共通している。

旧市街地は中世のお伽の世界、娘が、ヨーロッパ関連のツアコンを仕事としていたので、このインスブルックへは、何度も、来ていたそうで、イン川の橋の中央が写真撮影スポットだと教えてもらったり、金の屋根の家が有名だろか、そのあたりのホテルだかレストランの前に来店した有名人の名前を彫った石板が貼り付けられていて、なぜか、モールアルトの名前が一番上にあって、石板が新しいように見えた。余計なことだが、1999年にジョクジャカルタのスルタン(王様)の名前もあった。

オマケに婿殿が気を利かせたのでしょう、中国人が経営する回転すしへ連れて行ってくれた。実際に回転すしは人気があるようで、行列ができていて一時間待ちだという、しかたが無いので、回転から離れたテーブルに付き、セットメニューを注文した。私は“ニギリ弁当“でした。9.5ユーロ(約千円)お茶が2.5ユーロ。高い、と思うが、お客さんは満員以上でした。味は本物のすし職人は何と評価するか知りませんが、私にとっては美味しかった。

この町も、タバコの歩行喫煙者が多い、投げ捨ては一般的、おそらく、雪の下に大量にフィルターが捨てられたのでしょう、道の脇の背が低い草の中に無数に見える、サンモリッツと同じで一つ一つ摘まんで拾うか、草の下の土ごとはぎ取ってしまうかどちらかしかない。インドネシアならタバコのゴミも多いがその他のゴミの方がはるかに多いし、臭いので、タバコのフィルターは目立たないが、こちらの街は綺麗で清潔なので、タバコのフィルターが目につくし、他の臭いが無いので、歩行喫煙の臭いもすれ違った時、より臭く感じる。残念。

オマケがもう一つ、夏休みをイタリアやスイスやオーストリアで過ごしたドイツ人が、帰省し始めているのでしょう。今までになく、車の数が多くて、時々、徐行運転になるほど、詰まっていた。そんな中で、初めてアウトバーンで交通事故の現場に出会った。2kmほど手前の路肩にパトカーが止まっていて、屋根の上の電子版にクラッシュ事故と表示されていた。そのあたりから、渋滞が始まっていた。そのパトカーは渋滞になる手前へ移動していた。先を見ると、大きな矢印が見える。その矢印まで近づくと四車線から中央寄り一車線になっていたが、通行止めにはなっていなかった。なぜか、消防自動車も付いていた。

渋滞の様子はインドネシアとは様変わり、路肩を走る車は一台もない。その上、四から一になる状態に争いと言う感じが全くなく、譲り合いだけである。これほどまでという感じがするほど、お先にどうぞ、である。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page228.html

 いずれのことも、Photo Albumを確認してください。

 ともあれ、無事にニュールンベルグへ着いた。ここに後5日間である。

9月12日  (^_-)-休息日

 日曜日なので、昼過ぎからNurnbergの郊外へ案内をしてもらう。孫たちと遊園地で遊ぶ、その前に、Fujiという名前の回転すしレストランで昼食。実を言うと回転すしレストランで回転している寿司を取って食べたのは今日が初めてである。二十年くらい前に現れたと思うが、日本でもインドネシアでもどこでも、回転すしを食べたことはなかった。昨日のインスブルックの回転すしでも離れた席に座って、セットメニューを食べたのでした。日本でも一度入ったことがあるがそこもセットメニューだった。

 食べ放題で9.5ユーロ(約千円)握り鮨はサーモンだけ、その他は沢庵やキュウリのノリ巻き寿司らしいのはその程度、野菜サラダ、ダックの焼き鳥、春巻き、プリン、イカ焼き、甘いレモン、シウマイ、そして、卵焼きなどが回っている。ガリとワサビも回っている。極め付きはピサンゴレンやクルプックである。そういえば、昨日のレストランのメニューにナシゴレンがあった。

 この店も、この価格、このメニューで結構繁盛しているようで、男女二人のカップルの客で回転すしの回りは満席になっていた。経営者はどうか知らないが、店員は全部中国人でした日本から、持ち込んだのでしょう。日本の有名歌謡曲のカラオケが流れ、壁には富士山やサクラの大きな写真、壁際には、日本人形が配されている。おでんなどと書かれた赤ちょうちんもあった。待たないで、直ぐ、食べられるのと、決まった料金と言うことがはやる理由らしい。夜は倍の価格16ユーロになるが、握り鮨が主なメニューになるらしい。

 昨日と同じように、サーモンの握りをことごとく取ってしまって、孫が上の刺身を食べ、私がご飯だけを食べた。格別おいしいわけではないが、他の物を食べるよりはましである。

 今日は完全休養日である。

こちらは、インドネシアのような100〜150ccのバイクは一台も見かけなかった。国によってこうも違うのかと思うくらい、田舎でも全く見かけない。自転車はレジャー用が主だが、実用にも使われている。バイクはおそらく最低でも250cc一般的には500cc平均だと思う。アウトバーンにも普通に現れる。

ところで、ライダーの服装である。上から下まで真っ黒に決まっているらしい。女性のライダーも多いが、すべて、革製の黒である。彼らが集団でツーリングしている姿やパーキングエリアで纏まって休んでいる姿は、ちょっと、近づきがたく異様な感じがする。赤とか黄色などの服装があった方が良いと思うが。

一つの例、Audi専門店の看板、流石、ドイツ、フォルクスワーゲンやメルセデスなどの専門店も広いし、状態が洗練されている。

9月13日  (^_-)-☆決めたことは変えない

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 午前中は何もせず寝転がっていた。二時過ぎの孫たちを保育園へ迎えに行って、その足で、ニュールンベルグの街へ出かけて行った。目的は、ブラブラすることである。バスと電車と地下鉄でニュールンベルグの中心の地下に着く、階段を上がれば、そこは、中世の騎士時代の風景が目の前に広がる。車は入って来ない石畳の街なので孫たちは、鳩を追いかけて走り出す。道の真ん中のベンチへ座って、ソーセージを挟んだパンを頬張る。目の前をファッションショウから抜け出してきたような、服装をし、アクセサリーで飾った、男女が行き交う。なるほどと思うが、ここも、ご多分に漏れず、ベンチの下や回りを見ると、タバコのフィルターや紙コップ、その他のゴミが投げ捨てられていた。この状態は、地元の人も、一週間に一度たりとも掃除をしていない様子である。今まで訪れた街は、いずれも、画竜点睛を欠く、の状態である。

二年ぶりにニュールンベルグの街でした。ついでに、運動具店へ行ってスニーカーとゴルフシューズを手に入れようとした。流石にドイツと言うことで、スポーツ店やスポーツコーナーへ行っても大半はウインタースポーツの道具で占められていた。アディダス、プーマはドイツ人の兄弟がそれぞれ別の世界的有名ブランドシューズ、運動具のメーカーとして知られている。

スキーやスノボーに始まり、アイスホッケーやカーリングのコーナーもある。ゴルフ用品のコーナーは無いスポーツ店が多かった。あるデパートのスポーツコーナーの奥の方の一角に目立たないようにあった。売れていないようで、値段が50%引きに書き換えてある品物が多かった。

ユーロ安もあって、ゴルフシューズの価格は平均で四千円位でした。スニーカーもそんな値段でした。インドネシアより安いと思う。インドネシアの有名ブランドシューズはスニーカーで6〜7千円するし、ゴルフシューズに至っては、一万円を軽くこす。

 ニュールンベルグの街を孫や娘とぶらぶら歩きながら、なぜか、思う浮かべたことは、つい一年前ほど知り合って、二三か月前まで一緒にゴルフをやっていて、賑やかで、人を持ち上げるのがうまかったMさんの事でした。その他の事や仕事では関係なかったが、なぜか、気楽に話せる人だった。まだ、50半ばだと思う。先日も書いたがその人が、日本の会社へ帰って、間もなく、脳内出血で倒れ、意識を取り戻すこともなく無くなってしまった。人の命は儚い物で、私だって、パニック障害になったときには、もう、駄目だと思ったことが何度もあった。その前の状態には戻りそうにないが、一応パニックが無くなった今、自分がやらなければならないこと、やり残してはならないと思っていることは、早いうちにやっておこうと思う。そのための手段は自分で納得いく方法で取る必要があるだろう。今の環境では出来そうもなければ、環境を変える必要がるし、他人から求められても、その環境や条件を受けることをお断りして、自分が求める環境を作らなければならないと思う。そしてこのことは決定した。

 ニュールンベルグの歩行者と教会、フランクフルトではなくてもドイツと言えばソーセージ。

9月14日  (^_-)-三文の徳

 06:30頃起きてしまったので、一人、朝の散歩に出かけた。気温は5℃前後、清々しい。この地方は田舎の農園地方である。トウモロコシ(家畜の餌用)の畑が広がっている。小麦畑もその中にあるが収穫されたばかりだろう。トウモロコシはニメートル以上の高さが有り、大きな実が一本の木?に沢山付いている。沢山過ぎて、中には、腐っているようなものもある。人間が感じる味より量が重要なのでしょう。木も密集していて、間を人間が通り抜けることは出来ない。

 朝焼けが見事だったが、それと背中合わせに、虹が現れた。それも二重だった。トウモロコシ畑の向こう側である。5分ほどで消えてしまったが。早起きして三文の徳をしたようでした。

 ひんがしの野に日の出の立つ見えて、返り見すれば虹かたぶきぬ、(借り作)

旅の一つのお勧めは、夜明け前に外へ出て、そこらへん界隈を歩いてみることです。旅先で夜遅くまで騒いで遊んで午前様で寝て、朝食時間に起きてこないというなら、旅に出る必要はありません。勤め先界隈でやっていれば良いことです。親睦と言う目的なら旅に出ることは無い。旅先ならば普段付き合えない人とも付き合うことができると言うのは詭弁に過ぎない。

 旅先を楽しむなら、旅先でなければ出来ないこと、見ることができないことを楽しんだ方が良い。

それには、早寝早起きです。旅先の早朝の風景や雰囲気は、必ず新鮮に映るはずです。日常的には接することができない地元ならではの何かに接するからです。

これはインドネシアでも同じことです。皆がまだ眠っているときに外へ出て見れば、既に、人の外での生活は始まっています。仕事も始まっています。それは早朝だけにしか見られない風景です。

9月15日  (^_-)-最期のじいちゃん役

 姉妹の間で争い事が絶えない。見ていてお姉さんの方に同情する。

例えば、妹は手伝ってほしい、手伝ってくれなければやらないと言って、手伝わせるまで、動こうおとしない。そのすぐ後に、同じことをするときに、手伝うと、今度は、自分でやりたかったのに、手伝ったから、もう、やないという。どうすればいいの?それの繰り返しだから、大人は閉口する。同じようなことが姉妹の間にはもっと頻繁に起きている。

妹は、自分の思うようにならないと、親に姉のしたことを告げる。親は姉を叱る。かなり、姉の方はストレスがたまっていることに両親は気を使ってやれない。言って聞かせれば、間違いは間違いとして認めてもらえると思って、確信をもって、叱ったり、こんこんと言い聞かせたりしているが、本人のストレスはたまる一方だと思う。ストレスがたまっていれば、何かの拍子に手が出たり、言ってはいけない悪口をたたいたりするのは、小さい子供では当然なことだと思う。

 お爺さんとしても、妹の方と係わるのは御免こうむりたい。親に何を告げ口されるか分からないからである。こちらへ来て二三日で、妹の方と係わるのは辞めた。おじいちゃんと言って、近づいてきても、空返事しかしない。なお近づいてきたら、逃げることにした。

 今日がドイツ最後の夜である。孫たちがとにかく可愛いと思うのは、どうも、二三歳の頃までかもしれない。今回、彼女達と接して、もう、おじいちゃんとして付き合うのがメンドクサイと感じるようになってきた。今回が、おじいちゃんとして接するのは最期にしたいと思う。プレーランドという遊園地へ行って最期のおじいちゃんをやってきた。

 日本のアメージングパークと違い、素朴な遊具が多く、電動で動く物は無い、自分で遊ぶものばかり、積み木の大がかりなもの、滑り台の10m程度のもの、吊り橋渡りや梯子乗りなどは、子供たちの能力だけで遊ぶものです。こんな公園がインドネシアにあればはやると思う。

 ニュールンベルグの町中にある染料の会社、1700年代からの企業だとか。

9月16日  (^_-)-仕事の国へ戻る

 ミュンヘン発13:35SQ327でドイツから離れた。シンガポール経由で、17日10:40ジャカルタ着の予定だ。

北のメルヘン国から南の竜宮城へ移動。ヨーロッパの国とインドネシアを比較することは出来ない。全く、違う国、社会だから、比較しても意味が無い。

どちらが好きかと言えば、インドネシアの方が私に合っていると思うから、好きである。今回、ヨーロッパのどこでも、食べ物には満足できなかった。基本的にパン食なので、米文化に育った私にとっては、不満である。パンは私のお腹にも合わない、インドネシアでもパンはおいしくないし、お腹の具合にも良くない。腹の中で団子状にかたまってしまう。

歳を取るとやはり寒いより温かな方が良い。やはり、Tシャツ、半ズボンが良い。30℃前後の世界から、いきなり平均5℃の世界に入って長袖に厚着で縮こまっていた。天候の具合が曇ると、いかにも、曇天と言う感じ、気分も落ち込んでしまいそうで、長くはいられないと思う。南の地中海地方や東南アジアへ旅行したがる気持ちがわかる。

 9月始めだから、冬の対策が取られていないので、住環境を温かくする手段が取られていない。パソコンのバッテリーチャージのトランスを足の裏に当てて暖を取った。鼻水を流しながらの散歩だった。日本の自宅の自分の部屋なら、自分の思うように部屋の温度を調整できる。ドイツの家ではそうはいかない。インドネシアも自分の家なので調整は自分好みで出来る。

ミュンヘンからシンガポールに向かう日本人も目につく、小さな子ども連れの家族や定年退職後まだ海外で仕事をしているような私のような人、老夫婦二人連れの人たちなど、シンガポールで出てしまう人は少ないと思う。日本へ行く人、その他東南アジアへ散る人が多いようだ。日本人だけでなく、ドイツ人も同じような行動だと思う。

ミュンヘン空港への高速道路とのったSQとコントロールタワー

66のドイツ、スイス
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